コラム 『東京だより』
日満支一体
日満支一体といふことが新しい日本の合言葉となつてゐる。それは今日においては最早や単なる空想でなく、却て一つの現実を現してゐる。それが単なる空想であつた間は日満支一体といふことはただ美しい観念であることが出来た。然るにそれが一つの現実になつた今日、それは極めて深刻な意味における現実になつたのである。なぜなら、それは最も現実的な「問題」として現実になつたのであるから。
日本、満洲、支那は、経済上のブロックとして一体をなすといふのみではない。それ等は思想及び文化方面においても相互に関係し、相互に作用し合ひ、今や一体として考察されねばならなくなつてゐる。そしてこの方面においては特に明かに、いはゆる東洋の統一は今日まさに「問題」の統一を意味し、統一的に解決されねばならぬ問題として与へられてゐるのである。
試みに民族主義の問題をとつて見よう。日本の国内においては盛んに民族主義が唱へられてゐる。然るにもし日本が民族主義をもつて支那における文化工作の原理にしようとすれは、忽ち矛盾に出合はざるを得ないであらう。なぜなら支那における三民主義はまさに民族主義を標榜してゐるのであつて、日本と支那とが共に民族主義を持して動かない限り両国は永久に相争ふのほかないからである。日満支一体の思想は単なる民族主義を超えた原理によつて東洋に新しい秩序が建設されることを要求してゐる。支那事変は必然的に日本国内の思想に影響し、近年流行の民族主義思想の限界を認識させずには措かないであらう。すでに満洲国においては五族協和を理想としてゐる。
尤も、日満支一体の思想はまた抽象的な普遍主義であつてばならぬ。特殊性を無視して劃一的にやつてゆくといふことは日本人の潔癖といはれるものなどに関係して実践的にも陥り易い危険である。それぞれの民族の特殊性を尊重しつつ、それらを超えて統一する高い原理を把持することが問題なのである。
日満支の統一は現在の段階においては最も現実的な問題の統一であるといふことが常に記憶されねばならぬ。支那事変といふ大きな問題は日本に国内改革といふ大きな問題を同時に課してゐる。国内改革の問題はこの事変によつて消滅するものでもなければ、延期され得るものでもなく、却て全く逆である。外地は内地の革新の推進力となるのであり、またならねばならぬ。国内改革なくして支那事変の如何なる解決も可能でない。しかも国内改革の指導精神は、一般的原理としては、支那における建設的工作の指導精神と同一でなければならぬ。対支文化工作の原則を探求するといふことは国内改革の原則を探求するといふことと同じである。両者を何か全く別のことであるかのやうに考へることは、抽象的な普遍主義が間違つてゐる以上に間違つてをり、今日最も危険なことであると云はねばならぬ。
(一九三八年七月十八日)