特権階級意識の批判
インテリゲンチア即ち知識階級と呼ばれるものは、厳密な意味では、一の階級を構成するものでない。それは、本来の意味に於ける階級たるブルジョアジーと、プロレタリアートとの中間層として特色づけられてゐる。彼等のこの存在に彼等の意識が相応してゐるであらう。
知識階級は共通の階級的利害をもつてゐない。僧侶と画家とは如何なる共通の利害をもつのであらう。医者と弁護士、化学者とヂャーナリストとを如何なる共通の利害関係が結びつけるのであらう。これらの職業に於ては、精神的利害ばかりでなく、物質的利害もまた全く異つてゐる。彼等は共通の階級的利害を知ることなく、知つてゐるのはただ職業的利害のみである。この点に於て彼等は、カウツキーの云つたやうに、中世の手工業職人に似てゐると見られ得る。しかも彼等の職業的意識は最も多くの場合特種的意識と結びついてゐるのである。例へば、大学教授はヂャーナリストを軽蔑と猜疑の眼をもつて見る。官立大学の教授は私立大学の教授に対してさへ自己を特権階級として意識してゐるのである。
同じ職業の内部に於ても、インテリゲンチアの間には連帯性が甚だ欠乏してゐる。彼等の生活状態並に利害関係に著しい差異が見出される。高級の官吏と下級の書記との間にはどのやうな利害が共通してゐるのであらう。高級の者は下級の者に対して特権をもち、且つその特権を自覚してゐる。従つて誰も一層高い地位に到達しようとあせる。同一の地位にある者も共同して自己の地位を高めようとすることなく、却つて仲間を犠牲にして昇進しようとする。かくして凡そインテリゲンチアほど相互の間に嫉妬、高慢、野心、奴隷根性などをもつてゐる者はないと云つてもよいくらゐである。
このやうに彼等自身の間にはあらゆる種類の差異乃至対立があるに拘らず、しかもなほインテリゲンチアはプロレタリアートに対しては凡て自己を或る特権階級として意識してゐる。彼等は自己を精神上の貴族として意識し、それに応じた貴族趣味をもつてゐる。彼等の貴族的意識は、それが精神的なものであるにせよ、彼等を労働者たちから反撥せしめ、少くともつねに或る距離におく。この事は彼等の実際の生活がプロレタリアとなんら選ぶところのない場合にもなほさうである。それは丁度、昔、貧乏士族が町人に伍することをいさぎよしとしなかつたのと同じである。彼等は曰ふ。我々は何故にプロレタリアートに服従せねはならないのか。我々は彼等よりも教養があるではないか。また彼等は曰ふ。労働者の貧困に対して我々に一体何の責任があるのだ。我々は彼等を搾取してゐるとはいへないではないか。なるほど彼等は直接には労働者を搾取してゐないのである。
彼等は又曰ふ。何故に我々はプロレタリアートと結合しなければならないのだ。我々は普通の労働者ではない。我々は多くのものを学び、多くのことを知つてゐる。どうして我々は靴職人と共同しなければならないのか。我々は彼等よりも更に多くのものを要求してよいわけである。けれども、昔の手工業時代の職人は皆このやうに考へたのである。俺はただの労働者ではない。俺は印刷工だ。彼もまた自己の特権を意識してゐたのである。
インテリゲンチアは今や次第にプロレタリア化しつつある。彼等の生活の窮乏と低下とは目の前に行はれつつある事実である。彼等のこの様な危機はまさしく資本主義の行詰に相応してゐる。それにも拘らず、知識階級の大部分は今もなほ資本主義に対してプロレタリア的な認識をもつことが出来ない、これは何によるのであらうか。
彼等は資本主義的搾取には、原則として、直接に関係してゐない。彼等のいはゆる「文化生活」は彼等の知識と特殊な才能によつてあがなはれるのである。いかにも、彼等は資本主義から直接の搾取をうけてゐない。彼等はなほ貴族的労働者であるやうに見える。然しながら、彼等は資本主義が直接の搾取によらずとも、なほ彼等をよくプロレタリア化することを認識せねばならない。なぜなら資本主義社会に於てはマルクスが云つたやうに、精神的な労働と雖もひとつの商品にほかならないからである。
知識階級が特権階級であるのは智的労働の熟練が筋肉労働の熟練ほど容易に得られぬこと、及びインテリゲンチアが機械からの圧迫をうけぬことにもとづいてゐる。然しながらインテリゲンチアと雖も工場式に生産され得るものであり、また、そのやうに生産されつつあるのである。今日中等及び高等の諸学校は実にインテリゲンチアを作る工場としてはたらいてゐる。工場の生産品である限り、それが足袋であらうと、靴墨であらうと、インテリゲンチアであらうと、資本主義社会に於て同一の経済的法則のもとに立つてゐる。そこには無政府的な生産があり、恐慌があり、市場の法則が支配する。今日インテリゲンチアの間にも夥しい予備軍があり、失業者がある。それによつてインテリゲンチアは益々資本に対して奴隷的状態におかれる。彼等が自己の特種的意識を棄てないために、彼等の奴隷根性は愈々甚だしいものになりつつある。
それはかりではない、資本主義の発達に必然的に伴ふところの、都市及び農村に於ける小ブルジョアの没落は、これら小ブルジョアを駆つて、今日、彼等の子弟を特殊な才能のあると否とに拘らず、その好むと否とに拘らず、どのやうな経済的負担をもつてしても、何とかインテリゲンチアに仕立て上げようとさせるやうになる。なぜなら、もしさうしないならは、彼等の子弟はプロレタリアに転落してしまふことになるからである。かくして資本主義の発達と共にインテリゲンチアの生産過剰は自然の勢ひをなすのである。
それにも拘らず、知識階級は自己を特権階級として意識することをやめない。彼等は自己の中間的な位置をなんらか超階級的な、特権的な位置として意識する。夢幻的なものを実在的なものとして意識することは彼等にふさはしい。資本家から直接の搾取をうけず、また労働者を直接に搾取してゐない彼等は、これらの階級の間の調停の説教師となる。彼等の唱道するところは改良主義である。これらの改良主義者たちはブルジョアジーとプロレタリアートとに平和を勧告する。社会正義の観念、自由主義の思想などが彼等によつて宣べられる。しかもなほ階級間の闘争の絶えることのないのを見て、彼等は急速にファシスト化する。
彼等のうち聡明なる者は彼等の運命を知つてゐる。彼等は傍観者であらうとする。皮肉と微笑とが彼等の顔に漂ふ。しかし遂には彼等も強ひて無頓着を粧ひ得ないであらう。或る者は反動化し、或る者は享楽主義者になる。
このとき一部のインテリゲンチアは勇敢にもプロレタリアートの陣営に身を投ずるであらう。しかし彼等の或る者は、なほ彼等の特権的意識を棄て去ることなく、そこに於てもつねに指導者であらうとする。これらの人々は彼の野心をただ他の処で満足させようとするに過ぎない。英雄的気分に酔はうとさへも彼等は望んでゐるであらう。従つて彼等相互の間に於て指導者の特権的位置が争はれ、嫉視、反目、その他の排他的感情が支配する。彼等はまたインテリゲンチアによくあるやうに、彼等の観念を現実とすり換へ、かくしてただ焦躁の気持の虜となるであらう。無産階級の戦列に加はつた人々のうち自己の特権的意識をきれいに清算して、自己の運命を真にプロレタリアートに結びつけ、現実の運動を最も現実的に把握し得る人々のみは、その知識と才能のために、第一線的な人として活動し得るであらう。
しかしこれは固よりあらゆるインテリゲンチアに出来ることではない。これは望ましいことであるけれども、現実に於てこの通りであることは不可能であらう。もし一層広汎なインテリゲンチアに期待し得ることがあるとすれは、それは次のことであらう。
知識階級は、自己の唯一の武器たる知識的能力を今や最も鋭敏にはたらかせて、歴史の必然的な運動を認識しなければならない.そしてそれによつて彼等は逸早く自己の特権的意識を清算せねばならない。このやうにして彼等は少くともプロレタリアートの同情者となり、同伴者となる。そしてかくの如きインテリゲンチアの同情と同伴とはプロレタリアートにとつてもまた必要であるであらう。インテリゲンチアはイデオロギストである。そしてイデオロギストはもとよりプロレタリアートにとつても必要である。無産階級の運動の進展と共に、その組織の拡大、強化と共に、イデオロギストの必要もまた増してゆくに相違ない。文化的勝利はプロレタリアートにとつても要求されてゐるからである。この意味に於てインテリゲンチアの支持は無産階級にとつて必要なのである。無産階級はやがてこれらのインテリゲンチアをも彼等の階級的実践のうちに組織化し得るに相違ない。
もちろんこれらのインテリゲンチアは彼等にふさはしき最大の謙遜をつねに忘れてはならない。現在に於て最も必要なのはどこまでも政治的実成である。また彼等は日和見主義者であることなく、どこまでも階級的イデオロギストであるべきである。
没落しつつあるインテリゲンチアを救ひ得るものはプロレタリアートである。そればかりでなく、インテリゲンチアにとつて関心事であるところのイデオロギーの発展そのものもまた我々はこの階級を通してのみ期待することが出来る。ブルジョア文化はもはや次第に生産性を失つてゐる。プロレタリアートと結びつくことなしには過去の文化の伝統のうち最も貴重なものさへもが保存され、発達され得ない状態になつてゆきつつあるのである.プロレタリアートは決して文化の単なる破壊者、文化の敵であるのでなく、却つて新しい、健康な文化の味方であり、且つそれの生産者であり、建設者であるのである。インテリゲンチアは自己の特権的意識を清算することによつて、却つて文化の担ひ手としての自己の使命を完うすることが出来る。