技術と文化
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技術と文化とは何か別のものであるかのやうに考へる者がある0即ち技術は文明に属し、1文
明」と「文化」とは直別されねはならぬと云はれるのである0その場合普通に、文明は物質的で
ぁり、文化は精紳的であるといふ夙に見られてゐる○かやうにして文明に属する技術は文化より
も一段低いものであるかのやうに考へられるのみでなく、更に進んで、技術は精紳的文化を害す
るもの、とりわけ人間の人格的薔展を妨げるものであるかのやうにさへ考へる者がある0文明と
文化とを直別することは固より全く無意味ではない0科学と技術とが直別されるやうに、文明と
文化とは直別されることができるであらう0しかしまた科挙と技術とが不可分であるやうに、文
明と文化とは不可分である。両者の差別における同一を理解することが重要なのである0
いつたい文化を意味するカルチェアとかクルトウールとかといふ語の元の意味は耕作といふこ
発 転
とである。耕作は自然に封して加へられる人為であるが、すでに技術的な過程であり、耕作にお
ける進歩はその技術における進歩である。そのやうに、あらゆる文化は技術的である。経済はも
とより、法律や政治の如きにしても、技術的なものを含んでゐる。それらを技術化することがそ
れらの進歩であり、それらを技術化する要求からそれらについての科挙は薔達したのであり、そ
れらについての科学の番達はそれらの技術化を薔達させたのである。戸坂潤氏は、.科挙的精紳と
技術的精紳との同一を論じ、その際、反科挙的あるひは非科挙的なものとして文学主義や文戯寧
主義を挙げてをられるが、これは誤解を生じ易い。文学にとつても技術は絶封に故くことのでき
ぬものである。アランやヴァレリイなどが力説してゐるやうに、文学者にも職工と同様のところ、
即ち技術の習得が必要である。もとより科挙と文学とは同じでないやうに、両者の技術には相違
があるけれども、その精神においては類似してゐる。また文戯撃に至つては、それ自身一個の科
学として、多くの技術的要素を含み、かやうな技術の薔達と共に文戯寧は一個の科挙となり得た
のである。もちろん文戯寧の如き歴史科挙もしくは文化科挙と稀せられるものと自然科挙との間
には性質上の差別があるであらう。しかし重要なことは、両者の差別における同一を理解するこ
とである。かやうにして、技術の意味を廣く取れは、あらゆる文化は本質的に技術的であると云
‖茨衝と文h化
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ふことができ、また云はねはならぬ。政治的技術と工業的技術、自然科学的技術と文戯寧的技術、
更にそれらと文学的技術との間には種々の差異がある、しかしそれらはいづれも技術的と云はれ
得る共通のものをもつてゐるのである。
なほ進んで考へれば、すべて生命あるものは技術的であると云ふこともできるであらう。生物
の構造も、ダーウインなどの考へるやうに、環境に封する適應の仕方に制約されてをり、かやう
な適應の仕方はすべて技術的であると見ることができる。アリストテレスは自然は技術的である
と云つたが、自然も「自然の技術」をもつてゐる。自然の技術と人間の技術との差異は、生物に
おいてはその技術が有機的な「器官」と結び附いてゐるに反して、人間の技術は機械的な「道
具」を作り且つこれを使用するといふところにある。人間は「道具を作る動物」であるといふの
はフランクリンの有名な定義である。かくの如き差異は人間が動物にはない科挙をもつてゐると
いふことに関係してゐる。動物の技術が本能的であるに反して、人間の技術は知性的である。文
化はすべて知性的な技術を基礎としなけれはならぬ。
ニ
ところで人間が科学をもつてゐるのは物を客観的に見ることができるためである、言ひ換へれ
ば、物を距離において眺めることができるためである。しかるに人間がかやうに客観的であり得
るのは、たとひ逆説的に聞えるにしても、人間が主観的であるがためである。動物は環境と融合
的に生きてゐる、その生き方はいはは純粋に自然的客観的である。これに反し人間は主観として
項境に対して濁立し、かくしてまた項填を純粋に客観的に捉へることができる。しかるに人間は
かやうに主観的なものであるだけ、客観的なものとの統一を求めようとする要求もそれだけ大き
い。この統一は人間においては直接的に行はれるのでなく、技術的に行はれるのである。技術と
は、その一般的本質において、主観的なものと客観的なものとの統一である。技術はつねに物の
客観的な認識、即ち科学を前提してゐる。それが技術の第一の要素である。しかし第二に、技術
は人間の主観的な目的を激想してゐる。主観的な目的と客観的な過程とを結合し統一するものが
技術である。その新しい統一を絶えず求めるものとして技術の本質は「著明」である。自然法則
は薔明されるものでなく「薔見」されるものである。自然法則は、それが薔見された瞬間から存
在し始めるのではなく、その以前からつねに既に存在してゐたのであり、ただ蔽ひ隠されてゐた
ものがその時初めて顧はにされたまでである。これに反し技術は嘗て存在しなかつたもの、新し
技術と文h北
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いものをこの世に斎すことであり、蓉明的、創造的であると云はれる。しかも第三に、技術は物
を攣化することである。主観的なものと客観的なものとの綜合は技術において物を攣化すること
によつて資現される。技術は観想的でなくて賓践的である。物を攣化する技術は物の法則に従は
なけれはならぬ。ベーコンの云つたやうに、自然は服従することによつてのほか征服されないの
である。
技術と科挙との関係については色々論ぜられてゐる。両者はもとより抽象的に直別さるべきも
のでない。技術が科挙を濠想するやうに、科挙も技術と結合してゐる。科学は多くの場合、技術
的課題の中から生れる。科学の薔達は技術の蓉達に制約される、穎微鏡や望遠鏡の番明なしには
近代科学の薔達は考へられない。科学は方法的な研究でなければならぬといふ意味においてすで
に科挙は技術的である。また科挙は資讃的であることを要し、資験的に確かめられることが必要
である。しかるに賓験は一つの賓撰であり、その大規模のものが産業であり、産業は技術的であ
る○
かやうにして科学と技術とは不離の関係にあるけれども、両者はまた直別されることができる。
科挙の求めるものは物の因果関係についての認識である。現代物理学は因果律について昔のやう
’乱
雪雲H」打一円
には考へなくなつたにしても、因果性の原理を排乗したものとは見られない。科学の原理は因果
論であるが、技術はこれに止まらない。技術は物の客観的な因果関係を人間の主観的な目的に結
合するものである。従つて技術の原理は目的論(テレオロジ⊥であり、正確に云へば、エンゲ
ルハルーも述べてゐる如く、因果論と目的論との統一が技術の本質である。技術の特性が目的概
念に存することは多くの人々によつて主張されてゐる。すでにエイトは、「技術とは人間の意志
に物債的形態を輿へるすべてのものである」、と云ひ、またシュナイダーに依れは、技術とは「人
間的目的のために自然の形態や素材を工作的活動によつて攣化すること」である。グレインもま
た技術と科学との直別を論じ、使用財の生産に関はる技術の説明にとつては因果性といふ悟性の
形式だけでは不十分であり、そこでは寧ろ目的が第一次的なものであつて、目的論は因果論の上
に位し、個々の因果的に規定された自然過程を合目的的生成の枠に観め込むと述べてゐる。
技術は因果論と目的論との統一である。因果論と目的論とは如何にして調和し得るかといふこ
とは、古来、哲学の最も大きな問題の一つであつた。科挙は因果論のために目的論を全く破壊し
てしまふやうに考へられた。しかるに技術は因果論と目的論との統一の問題を現賓的に解決して
ゐる。技術の哲学は新しい哲学の出番鮎であり、基礎とならねはならぬであらう。
技術と文h化
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人間は自分の作つたものを最もよく理解し得る、といふのはヴィコの認識論の根本命題である9
かくてヴィコは、歴史は人間の作るものであり、従つて歴史についての認識は、人間が作るので
ない自然についての認識よりも一層確賓である、と述べた。しかるに技術は物を作るものであり、
自然科挙は技術の前提として技術に結び附くことによつて自己の認識の確資性を日々に讃しっつ
あるのである。歴史も文化も人間によつて作られるものとしてその基礎にはつねに技術が横たは
つてゐる。
三
かやうにして技術が因果論と目的論との統一であるとするならゼ、その文化的意義はおのづか
ら明瞭であらう。技術は客観的なものと主観的なものとの統一であるが、この統一を通じて達せ
られるのは主観的なものの支配であり、精紳の権利である。この主観的なものは固より軍に主観・
的なものであり得ない。軍に主観的な目的は客観的な法則によつて直ちに粉砕され、かくして・王
観的なものと客観的なものとの統一としての技術は賓現されることができぬ。技術は寧ろ人間が
彼等の主観的な目的を制御して、これを客観的な法則に合致させるやうに教育するのである。挙
明家の天才もこの鮎において決して琴意的であり得ない。それのみでなく、蓉明家の立てる技術
的目的は軍に個人的なものでなく、その時代の杜曾のうちに輿へられてゐる技術的課題によつて
制約されてゐるのが普通である。しかしながら目的は、それが杜禽的なものである場合において
も、目的として決して軍に客観的なものでなく、却てどこまでも主観的なものの意味をもつてゐ
る。かかる主観的なものと客観的なものとの綜合を求めるのが技術であり、しかもこの綜合の過
程を通じて資現されるのはつねに主観的なものの支配である。技術は自由を賓現する。技術のイ
デーは自由であると云ふことができる。かやうにして技術は文化のイデーと一致してゐる。
技術は自然に封する人間の支配を可能ならしめることによつて、人間を自由にする。技術は自
然を攣化することによつて、人間が彼等自身の作つた新しい環境のうちに棲むことを可能ならし
める。眞の自由は決して軍に主観的なものでなく、寧ろ技術的に、言ひ換へれは、主観的なもの
と客観的なものとの綜合を通じての主観的なものの支配として資現され得るものである。ヴェン
トは云つてゐる、「すべての人格的並びに政治的自由は土地所有の古くなつた勢力からの解放と
して生長するものであり、それ故にただ技術を基礎としてのみ可能である」。技術の薔展なしに
は政治的自由の教展も考へられないであらう。技術は新しい奴隷を生ぜしめるといふ非難に封し
技術と文化
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雪い′9∃ .
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て、グレインは、労働者においても技術はより高い人間的な諸性質を解放する、なぜなら機械は
すべての機械的な仕事を引受け、労働者は遽には機械の精紳的な、批評的な指導者となるから、
と云つてゐる。かくの如く自由を賓現するものとして技術は文化のイデーと完全に一致する。徒
つて技術が文化の手段であるといふことも外面的に考へらるべきではない。主観的なものを客観
的なものと媒介する限りにおいては、技術は主観的なものに封して手段であると見られるが、し
かしこの媒介的統一を通じて賛現されるのはつねに主観的なものの眞に現賓的な自由であるとい
ふ意味においては、技術のイデーは文化のイデーである。
技術は人間の人格的完成に対しても善き教育者である。それは人間が嘩意的であること、畢に
主観的であることを戒める、それはまた人間の誠賓を要求する、技術的過程においてはあらゆる
過誤は直ちに復讐される。そして誠賛に対する教育は技術的活動とつねに結び附いてゐる責任の
観念を強めるのである。技術は人格教育にとつても重要な意味をもつてゐる。
技術は人間を機械的に、従つて非人格的にするといふ非難は最も度々開かれるものである。ラ
ッセルは科挙的気質と科学的技術とを直別して、次のやうに論じてゐる。科学的気質は用心深く、
また試験的である。それは仝慣の眞理を知つてゐるとは考へないし、その最も善い知識ですらが
、】
声。頑爪サ」11汁。
完全に眞であるとは考へない。それはあらゆる説が早晩訂正される必要のあること、そしてこのノ
必要な訂正が研究の自由と討論の自由とを要求することを知つてゐる。ところが理論的科学から′
出た科学的技術は理論の試験性を有しない。物理学は現世紀において相封性原理や量子論によつ
て革命されたが、背い物理学を基礎としたすべての薔明が今なほ満足に思はれてゐる。工業及び
日常生活への電気の應用は六十年以上も前に薔表されたマツタスウェルの著作を基礎として為る9
かやうにして科挙的技術を使用する技師は、また技師を使用する政府や大工場は更にそれ以上に−
科学者とは全く別の気質を獲得する。即ちこの気質は無際限なカの、尊大な確信の、そして人間
的材料の操縦すらにおける快楽の、感覚に充たされてゐる。しかしながらラッセルのかやうな非
難は、技術を軍に工場的生産においてのみ見て、技術の本質が蓉明にあることを見ず、番明家の
心理を考へないことに基いてゐる。薔明家は用心深く、また試験的である。彼は科学者以上に懐
疑的になることもあるであらう。工場的生産についても「企業家」の純粋なタイブはラッセルの
云ふが如きものではないであらう。そのうへ工場的生産は純粋に技術的な目的を追求するもので
なく、杜曾的に規定されてをり、従つて資本主義杜禽においては利潤の追求によつて制約されて−
ゐることを考へなけれはならぬ。賓際、技術に封してなされる多くの非難は技術そのものの制約
技術と文化
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ょりも杜禽的制約に基いてゐる。例へば、技術の頚達は人間を機械の奴隷にすると云はれる。そ
れは何故であるか。機械の頚達は分業の頚達を促し、各人は軍に部分的労働に従事することにな
り、そのことは人間の仝人格的な番達を不可能にする。確かにその通りであらう。しかし若し各
人の労働時間が短縮されるやうになれは彼等は鎗剰の時間をもつて自己の専門以外の種々なる活
動に自由に従事し、自己の好むが儀の教養を愉快に求めることができる筈である。しかも技術の
番達のみが人間の労働を軽減し得るのである。現在、技術の大きな薔達にも拘らず、人間が非人
間的にされてゐるのは技術の罪であるといふよりも、主として技術のおかれてゐる杜禽的制約に
基いてゐる。技術をかやうな杜禽的制約から解放して、その致果を十分に番挿させることが必一考
である。しかもかやうな杜合的制約からの解放は、杜曾についての科挙的な研究に基いて、技術
的に・行はれねはならぬ。杜合的政治的賓践も技術を離れることができない。かくて文化はそのあ
らゆる方面において本質的に技術的である。
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