自殺の哲学  8.2.23 読売新聞


 あなたの御質問は困難で複雑な問題を含んでゐます。然し私の考へるところを簡単にお答へすることにします。
 或る人は、自殺をするといふことは人間を動物から区別する特徴であると云つてゐます。実際そのやうに見られる点がないでもありません。自殺するといふことは、人間が自分を主体として意識するからであり、そして自分を客体としてと共に主体として意識することがほんとの意味で出来るのは人間だけではないかと思ひます。自殺は人間の主体性が意識される限界情況であるとも云へませう。
 このやうな限界情況に追ひ詰められるには色々な原因があることです。然しまたどんな客観的原因があるにせよ、もし主体的な意識がなかつたならば、特に自殺といふことは起らない筈です。そこで我々は、或る自殺事件を社会的客観的原因から説明された場合、そのやうな説明が全く正しく、また重要なものであると考へながら、それだけでは完全になつとくしないのです。人間の主体的な意識を私はパトス(パッション)と呼び、そこからパトロギーといふ言葉を用ゐてゐます。自殺はパトロギー的な方面を多分に含んでゐると思ひます。
 私は情熱、激情、等々といはれるものを一般的にパトスと呼んでをり、それは人間の主体性を顕はにする意識の象面だとします。このパトスが性格といふものの根本をなし、パトス的なものは性格的なものです。パトスが客観的な意識に対する特徴はと云へは、それは主体的に深まるに従つていはば対象を失ひ、次第に無対象になることで、この点、パトスに対するロゴス的意識が高まるに従つて次第にいはば対象を含み、客観性を増すのと反対です。人間を一面的にパトロギー的に探つて行くと、そこで、「無」に突き当ることになるでせう。この無はそれ自身性格的なもので、人々によりそれぞれ性格的に解釈されてゐます。ニイチェにとつては、それはもろもろの星を産むべき渾沌であり、キェルケゴールにとつてはそれは「死への病気」であり、またこの無から虚無主義も出て来ます。然しこの無に突き当つて或る者はパトスなきこと(アパティア)を憧れるでせう。藤村氏の場合はこのやうなパトスなき無を求めての死ではないかと思ひます。あなたのいはゆる哲学的な死です。
 これに反し今の時代の者にとつてはこの無はどこまでもパトス的な無で、そこから一種のロマンチシズムも出て来ませう。貴代子さんの場合はこの様なパトス的な無に誘導されてゐる様に思はれ、あなたのいはゆる文学的な死です。無がどこまでもパトス的であるのはロゴスとの対立をやめないからで、従つてそこに自己闘争といふこともあるわけでせう。
 あなたが「自殺の保証人」と云はれたのを面白く思ひます。自殺の保証人を自己のイデオロギーに求める者はつまり自殺する他なく、然し自殺の保護人を他の人間に求める者は必ずしも自殺しないかと考へます。もしこの保証人がほんとにパトスを共にする(シンパサイズといふことを文字通りに解して)人であつたなら、その者は救はれるでせう。いはゆる同情をして心中する場合もあるでせうが、それはほんとにパトスを共にするといふよりも、一方が引摺られるのではないかと考へられるのです。
 人間はパトスによつて主体的に結合されてゐます。(パトスなき無を求めた藤村氏と違ひ、貴代子さんが昌子さんを必要としたところに、パトス的な無の性質が現はれてゐます。)ロゴス乃至理論による客観的な結合も之に支へられなければ真の人間的結合とはなりません。パトスは性格的なものであるにしても、性格的と個人的とは同じでなく、却つて人間は他とパトスを共にすることによつて真に性格的となることができます。我々はパトス的無のリアリティを求むべきで、その為には知性をはたらかせなければなりません。理論の「真理性」を証明するものは実践であると云はれるやうに、パトスの「真実性」を証明するものは、この場合こそほんとに実践だとも云へませう。パトスは主体的な意識だからです。人間は主体と客体との弁証法的統一であり、従つて一面的にパトロギー的であることは、普通に用ゐられる意味でのパトロギー的、即ち病理的ともなります。そしてまたそのやうにパトロギー的になるのは、その人が社会から遊離してゐるからだとも云へるでせう。