学生に就いて


      一

 近年慣用される言葉の一つに「事変後の学生」といふ言葉がある。それは云ふまでもなく満洲事変後において高等の学校へ入つた学生のことである。今年あたりから大学なども殆ど全部かやうな事変後の学生によつて占められることになるのであるが、最近数年間は事変前の学生と事変後の学生とが次第に交替していつた時期であつた。その間において満洲事変を境として学生がかなり明瞭に二つの層に分れることが観察され、「事変後の学生」といふ名称が生じたのである。事変後の学生はいはば一つの「世代」を形作り、一定の特徴によつて以前の世代から区別される。この世代の形成には満洲事変、その後における日本の社会的並びに政治的情勢、国家の文化政策、特に教育政策が重要な影響を及ぼしてゐる。この事情を無視して今日の学生を論ずることはできない。私はいま主として彼等の知能を問題にするのであるが、知能の問題はもとより身体並びに道徳の問題と密接に関聯してをり、それらを分離して考へることは不可能である。
 満洲事変後において国家の文化政策教育政策は次第に著しく積極化した。この積極化によつて果して今日の非常時における国家の必要とするやうな学生が作られてゐるであらうか。事実はこの場合最も有力な批評者である。学生の健康が極めて憂ふべき状態にあることは当局ですら認めざるを得ない事実である。しかし単に健康のみではない、学生の知能も低下してゆく傾向にあることは彼等の教育に従事してゐる者の多くが気附いてゐる事実である。しかも問題はそれに留まらない、更に道徳の方面においても同じことが見られるのではないであらうか。即ち国家の文化政策教育政策の積極化の結果は、国家の必要とする人間とは反対のものを作り出しつつあるやうに思はれる。ひとはそこにファッショ政策の自己矛盾があると云ふであらう。
 今日の学生論の多くは一見リベラルな立場から書かれてゐる。けれどもそれが果して真にリベラルな立場に立つてゐるかどうかは疑問である。なぜならそれは殆どつねに「教育者的」立場から書かれてゐる。しかるに教育者的立場は容易に「当局的」立場になり、批判性を失ひ得るものである。現代学生の知能の問題に就いても、論者は一見リベラルな見方をし、種々好意ある解釈を加へ、かくて学生をあまやかし、学生に媚びようとすらしてゐる。そこにはもとより青年を失望させまいといふ善い意図が含まれるであらう。青年から希望を奪はないことは大切である。けれども現代学生の状態を強ひて好意的に解釈し、そのために彼等をこの状態に導くに至つた外的原因、即ち今日の社会的並びに政治的情勢、特に政府の文化政策教育政策を顧みないといふやうなことがあつてはならぬ。学生論が教育者的見地に立ち、学生にのみ向けられる場合、知らず識らずかやうな結果になるのである。学生の問題はもちろん彼等自身の主体的な問題である。人間はつねに自分自身に対して責任をもつてゐる。しかし同時に彼等の状態は外的諸件に依存してゐる。ただリベラルな教育者的見地に立つ学生論は、学生の現在の状態を単に社会的原因にのみ帰し、そのためにまた彼等をあまやかすのと同様、間違つてゐる。


      二

 私の知人の某教授は、今日の学校は一階級づつ低下し、高等学校が中学になり、大学が高等学校になつた、と云つてゐる。かやうな低下は直接にはいはゆる「知識」に関することではないであらう。低下したのは主として学生の「知能」である。知識と知能とが関係のないものでないことは明かであるが、両者は一応区別することができ、また区別して考へなければならぬ。
 例へば今日の高等学校の生徒にとつては大学の入学試験が大きな問題であり、その準備に多くの力が費されてゐる。それはちやうど昔の中学生が高等学校の入学試験に対するのと同じである。また以前は高等学校へ入れば家庭においても学校においても独立の人格として認められた。しかるにこの頃では、息子の大学の入学試験に対する親たちの態度はちやうど以前の中学生が高等学校の入学試験を受ける場合と同様であるとすら云はれてゐる。生徒に対する学校の干渉はまさに昔の中学以上である。入学試験準備のために読書はおのづから制限されるであらう。この準備勉強によつて高等学校生としての所謂学力は低下しないにしても、それが知能の発達に益しないことは屡々云はれてゐる通りである。試験準備の勉強は学問に就いて功利主義的な或ひは結果主義的な考へ方を生じ、かやうな考へ方は知識慾を減殺するのみでなく、知能を磨く上に有害である。昔の高等学校の生徒は青年らしい好奇心と、懐疑心と、そして理想主義的熱情とをもち、そのためにあらゆる書物を貪り読んだ。我々の知る限り、読書の趣味は主として高等学校時代に養はれるものである。この時代に読書の趣味を養はなかつた者は一生その趣味を解せずに終ることが多い。しかるに今日の高等学校の生徒においては、彼等の自然の、青年らしい好奇心も、懐疑心も、理想主義的熱情も、彼等の前に控へてゐる大学の入学試験に対する配慮によつて抑制されてゐるのみでなく、一層根本的には学校の教育方針そのものによつて圧殺されてゐる。現在の教育政策は青年の好奇心や懐疑心や理想主義的熱情、すべて知的探求の原動力となるものを抑圧することに向けられてゐる。例へば青年の理想主義的熱情はヒューマニスティツクな感情から発するのがつねである、それは社会のうちに矛盾を見出し、現実に対して批判的になることから出てくるのであり、そこからこの社会に就いての認識を深めようといふ知的努力も生じてくる。しかるに今日の学校ではこのやうに社会を批判的に見ることを禁じてゐるのである。そこでは学問そのものも批判的であることを許されてゐない。批判力は知能の最も重要な要素である。批判力を養成することなしに知能の発達を期することはできぬ。しかるに今日の教育は青年の批判力を養成しようとは欲せず、却つて日本精神や日本文化に就いての権威主義的な、独断論的な説教を詰め込むことによつて彼等の批判力を滅ぼすことに努めてゐるやうに見える。日本精神や日本文化に就いて講義することが必ずしも悪いのではない。その独善主義的な、教権主義的な教育が青年の知能を低下させてゐる事実を我々が黙視し得ないのである。
 或る大学生の話によると、事変後の高等学校生は殆ど何等の社会的関心も持たずにただ学校を卒業しさへすれば好いといふやうな気持で大学へ入つてくる。それでも従来は、大学にはまだ事変前の学生が残つてゐて、彼等によつて新入生は教育され、多少とも社会的関心を持つやうになり、学問や社会に就いて批判的な見方をするやうになることができた。しかるに事変前の学生が次第に少くなるにつれて、学生の社会的関心も次第に乏しくなり、かやうにして所謂「キング学生」、即ち学校の課程以外には「キング」程度のものしか読まない学生の数は次第に増加しつつあると云はれる。我々は必ずしも学校がかやうな学生の出来ることを歓迎してゐるとは考へない。しかし青年の理想主義的熱情を圧殺することは彼等を現実主義者乃至功利主義者に化することである。学校の課程以外の勉強に「無駄な」労力を費すことをなるべく避けようとする功利主義から、或ひは社会的関心を持つといふやうな危険なことからなるべく遠ざからうとする現実主義から、彼等は「キング学生」になるのである。彼等の現実主義功利主義から彼等の知能の低下が生じてくる。学生が理想主義的熱情を失つたといふことは、今日の社会が彼等に夢を与へるやうなものでないといふことのみに依るのではない。真の理想主義は人生及び社会の現実を直観し、その矛盾を発見するところから生れてくるのである。現実の醜悪に就いての仮借することなき批判的認識が最も高貴な理想主義の源泉であることは歴史のつねに我々に数へることである。学生の批判力を殺してしまつておいて彼等の功利主義を責めることは矛盾である。日本主義は理想主義ではないのであらうか。聞くところによると、この頃の数学では日本主義を「理想主義」と考へることすら異端として排斥されてゐるさうである。それ自身は真に現実主義的である学問の根柢にはつねに理想主義的熱情がある。しかるにそれ自身は理想主義的であることを欲しない日本主義は現実そのものに就いては架空の理想主義的な見方で満足しようとしてゐるやうに見える。両者はどこまでも両立し得ないものであらうか。「キング学生」は必ずしも学校の成績が悪くはないかも知れない。現在の学生はむしろ学校の成績に対して甚だ紳経質になつてゐる。「高文学生」といはれる種類の学生、即ち高等文官試験にパスすることを唯一の目的として勉強する種類の学生の数は殖えてゐるであらう。しかしかやうな勉強は何等批判の伴はない勉強であり、それによつて知能が向上してゐるとは考へられないのである。卑俗な現実主義は人生においてただ間違ひのないことをのみ求める。詩人は云つた、「人は努力する限り誤つ」、と。間違ひがないといふことは真に努力してゐない証拠であるとすら云ふことができる。「間違ひのない」学生が次第に多くなつてきたといふことは果して悦ぶべきことであらうか。燃えるやうな攻学心は彼等の間において次第に稀薄なものとなつてゐる。
 今日の学生が勉強しないのは彼等の将来に希望がないからであると云はれてゐる。彼等に向つて、もつと勉強せよと云ふと、何のために勉強するのかと問ひ返されて困るといふことは、多くの教師から屡々聞かされることである。私はむしろこの反問そのものが余りに功利主義的であるのに驚かざるを得ない。彼等は何故にその「何のために」といふ問をもつと徹底させないのであるか。勉強しても喰へるやうになれないといふのが今日の状態であるとすれば、何故にそのやうな社会の状態の原因に就いて追求することをしないのであるか。そしてその原因が分れば、何故にそれの排除のために闘ふといふことに意味を見出し得ないのであるか。或ひはその「何のために」といふ問を哲学的に考へて、人は何のために生きるのであるかといふことを根本的に問はうとはしないのであるか。功利主義者ミルでさへ、幸福な豚となるよりも不幸なソクラテスとなることに真の幸福を見出したのである。学生の知能の低下は彼等に社会的関心が少くなつたことに関係してゐる。社会的関心が盛んであれば研究心も盛んになつてくることは嘗てのマルクス主義時代の学生が証してゐる。しかるに今日の日本主義的学生は概して頭脳も悪く、また勉強しないと云はれてゐる。これに反して頭脳の善い学生は功利主義的となり、社会的関心を失つてゐる。かくの如きことは日本主義のためにも決して慶賀すべきことではないであらう。教育当局はそこに矛盾を感じないのであるか。

       三

 尤も今日の学生の知識は以前の学生に此して必ずしも劣つてゐるとは云へないであらう。物を知つてゐる量から云へば、彼等はむしろ勝つてゐるであらう。しかしそれは彼等自身の功績でなく、却つて社会の進歩の結果である。新聞雑誌の発達、書物の普及、その他によつて、今日の青年は無雑作に、或ひは知らず残らずの間に知識を集めることが出来る。しかしそのために彼等の「知能」が以前の学生に比して進んでゐるとは考へられないのである。先祖が蓄積した財産に寄食して豊かに生活してゐる者が先祖よりも優れてゐると考へられないのと同じである。ところが今日の日本主義といふものは、先祖の文化の遺産に寄食すべきことを人々に勤めてゐるのである。そこでは新しい文化を生産することよりも過去の文化を反覆することが問題になつてゐる。そのうへ日本精神とか日本文化とかといふものは学ぶに苦労を要しないもののやうである。日本主義的学生にとつては頭脳も勉強も問題でないやうに見える。カント哲学を理解することは困難であるけれども、今日行はれてゐる日本精神の講話や日本文化の講義はどのやうな学生にも理解し得るものである。ドイツ語で書かれ、しかも難解で尨大な『純粋理性批判』を一冊読み上げることに比しては、日本精神に関する現在の書物はもとより、過去の日本人の書いた書物を読むことは容易である。困難があるにしても、それは主として言語上乃至文献学上のものであつて、理論的なものではない。いはゆる思想善導はこの点から云つても学生に苦しんで思索することを教へるものでなく却つて反対である。日本主義はみづから非合理主義を標榜してゐるのである。思想善導の結果が学生の知能の低下となつて現はれても不思議はないやうである。
 断片的な知識をどれほど集めても真の知識ではない。かやうな知識を積むには多くの知能を要しない。真の知能は理論的なものである。理論的意識なくして知能はなく、また真の知識もない。今日の学生は種々のことを知つてゐるが、何事も根本的に知つてゐないと云はれてゐる。彼等の知能の低下といふのは理論的意識の貧困に関係してゐる。理論的意識は組織的な体系的な精神であるばかりでなく、批判的精神である。しかるに今日の学生の間に次第に著しくなりつつあるやうに見えるのは一種の権威主義である。いつたい我が国ほど「権威」といふ言葉が濫用される国はない。学問の精神は権威の精神とはむしろ反対のものであり、権威を承認せず、権威を破壊するところに学問の精神があると云へるであらう。現在の権威主義は学問における官僚主義の現はれである。政治において官僚主義が濃厚になるにつれて、学問の世界においても同様の官僚主義が濃厚になりつつあり、批判的精神を奪はれた学生は次第にかやうな官僚主義に感染しつつあるやうに見える。
 学問における官僚主義の結果は研究の自主性の喪失である。かやうな自主性の喪失はまた知能の低下を結果するのである。例へば今日、「何を読むべきか」といふ質問が絶えず学生によつて発せられてゐる。かやうな質問が今日ほど熱心に発せられたことを私は知らない。この質問に対して与へられた解答に従つて彼等がどれほど熱心に読書してゐるのか、私には疑はしい。私の確実に感じ得ることは、この質問そのもののうちに現はれてゐる権威主義である。今日の学生はその読書に就いてすら自主性を失つてゐるのではなからうか。それともそこに現はれてゐるのは、読書において無駄を省かうとする功利主義なのであらうか。自主的な研究は自主的な読書に始まる。自分で研究しようと思ふことが決つてくれば何を読むべきかもおのづから決つてくるのである。また読書においてあらゆる無駄を省かうとすれば結局何も読まないことになる。学生の時代はむしろ大いに無駄な読書をするのが好いのである。読んだものが無駄になるかならないかはその人の知能によつて定まることであるとも云へるであらう。大きな学問とは無駄のある学問のことである。少しの無駄も書いてないやうな名著といふものがあるであらうか。要領よくやらうとすることは学問においては禁物である。
 知能の低下の最も大きな原因をなしてゐる批判的精神の欠乏の原因が今日の学校において研究の自由が束縛されてゐることに有するのは云ふまでもない。従つて学生の知能の低下の問題は根本的には研究の自由の問題から分離して考へることはできぬ。研究の自由の有しないところに知能の向上は望めないのである。
 もちろん私は今日の学生のすべてに就いて知能の低下を云つてゐるのではない。今日においても真面目に本当の勉強をしてゐる学生の存在することを私も知つてゐる。また私は今日の大多数の学生がファッシズム的教育に内心から同意してゐるものとは考へない。不幸なことは、彼等は自分で内心思つてゐることと公に云ふこととを別にせねばならぬといふことである。そのことは彼等の良心をスポイルすることにならないのであるか。そしてそのことは真理に飽くまで忠実であるべき学問の精神をスポイルすることにならないのであるか。かくして学問の問題は必然的に道徳の問題に関係してくる。「知育の偏重」を排して道徳教育を重要視する論者もこの点に就いて深く反省すべきである。