最近綜合雑誌の傾向
新年号を中心として
最近の綜合雑誌について先づ気付くことは、在来の綜合雑誌『中央公論』、『改造』、『日本評論』、『文藝春秋』、或ひはまた『セルパン』などに対して、やはり綜合雑誌の傾向を有する『知性』とか『革新』とかのやうな新しい雑誌が現はれたと共に、他方従来の他の種類の雑誌、例へば『科学ペン』、『科学知識』などの綜合雑誌化が目に付くやうになつてきたことである。
従来の専門雑誌に綜合雑誌的傾向が著しくなつてきたのは、客観的に見ると、政治の問題が今日一般に重要な問題になつてきたといふこと、それに関聯して思想及び文化についても根本的な変化が要求されるやうになつてきたといふことを示してゐる。文学の問題にしても、単に文学の問題として取扱はれるに止まらないで、国策と文学との関係について、或ひは文学の文化的意義について論ぜられるといつた傾向が強くなつてきたやうである。
かやうな状態において一般綜合雑誌にはそれにふさはしい躍動と気塊とが感ぜられるであらうか。月々のトピックには共通なものが認められるにしても前後を通じて一貫性に乏しく、多彩であるにも拘らず何か低調であるやうに感ぜられるところがないであらうか。従来の執筆者で姿を消してしまつたものは多数に上り、新しい顔が次々に現はれてゐはするが、そこになほ真の新人といふべきものがなく、根本的に新しいものが認められないのは、何故であらうか。
以前のいはゆるマルクス主義の時代には、善いにせよ悪いにせよ、ともかく一貫した根本思想があり、これを支持するにせよ排撃するにせよ、ともかく中心があつた。今日マルクス主義は全く影を没したが、これに代るべき根本思想といふものが明確に現はれてをらず、従つて種々の問題が種々に論ぜられるに止まつて、それら多様のものを、主張者と批判者とを含めて統一する中心が欠けてゐるために、力と精彩とに乏しいやうに感ぜられるのである。自由主義やマルクス主義の没落は悲しむべきことでないにしても、新しい中心思想が現はれるのでなければ、綜合雑誌の真の華々しさは望まれないのであつて、今日顕著な現象として見られるやうにトピック主義にならざるを得ないであらう。新しく出た雑誌はその点において何物かを期待させ得るであらうか。
最近の綜合雑誌において目に付くのは何といつても支那に関する題目が圧倒的に多く取り上げられてゐることである。これは支那事変が我が国にとつて重要な問題であることから考へて当然のことであるが、そのために国内の問題が押し除けられがちになつてゐるといふことがないであらうか。支那事変の解決と国内改革とが不可分の関係を有することは明瞭であるとすれは、国内問題に対して一層多く注意の向けられることが望ましいのである。
ジャーナリズムに指導的な思想がなくなつてくると、そのコンマーシャリズムが目立つてくるのは如何ともし難いことである。戦争文学といはれるものもコンマーシャリズムのために利用され過ぎる傾向があり、コンマーシャリズムによつて作家が害されることも尠くないのである。