新文相への進言
文部大臣荒木貞夫閣下! 改造記者の熱心な勧説に依り私はここに一文を閣下に呈したいと思ひます。非礼を顧みず敢へてこれを為す所以のものは、現下の国情憂ふべきものがあるからであります。
去る六月七日附の英文東京日日に依れば、文相親任報告のため西下せられた閣下は、伊勢神宮、伏見桃山御陵参拝の後、京都帝国大学視察に先立つて、西田幾多郎、狩野直喜両博士を私宅に訪問されたとのことであります。この記事は私を感動させました。西田博士は哲学者として、狩野博士は支那学者として、日本が世界に誇り得る人であり、共に私の深く敬慕する先生であります。今この二人の学者を閣下がわざわざ訪問されたといふことは古来東洋の政治家の賢者に対する礼を想起せしめるものであり、如何に閣下が思想問題と支那問題とを重視せられるかの程も窺はれ、閣下に敬意を表する次第であります。もし斯くの如き閣下の精神が全官僚諸氏に徹底するならば、久しく非難の的となつてゐる官僚独善の弊風もおのづから一掃されるでありませう。閣下がこの方面にも好き指導と影響とを与へられんことを布望します。
時局のまことに重大であることは申すまでもありません。誰彼の別なく凡ての者が協力しなけれはならぬ秋であります。然るに遺憾なことは、今なほ自分だけが、自分の一党だけが愛国者であるかのやうに振舞ふ者の存在するといふことであります。かくの如きことは、現在、あらゆる職業、あらゆる身分の日本人が戦線に立つて奮闘してゐるといふ事実を忘れてゐる者と云はねばなりません。殊に遺憾なことは、知識階級に対して猜疑の眼を向け、彼等が内心何か全く非国民的なことを考へてゐるかの如く言ふ者の存在することであります。私の見るところに依れば、事実は寧ろ反対であつて、知識階級は外見的には時局に対して冷淡であるやうであつても内心においては皆深く国を憂へてゐるのであります。先日私を訪ねてきた一人の客は、―
この頃東京には地震が多いが、そのたびに、もしこれがあの関東大震災のやうなことになつたら大変だと考へる
―
と話しました。これが何人もの偽らざる心であると思ひます。挙国一致の基礎は国民が互に信じ合ふことでありますが、とりわけ知識階級に対して、その重要な部分である学生に対して、完全な信頼の寄せられることが大切であるのであります。他を非国民であるかの如く告発することによつて、自分だけが好い子にならうとしたり、自分だけが忠義立てをしようとしたりする者が知識人と称する者の中に、学園の内部においてさへ、存在するのが見受けられるといふことは、極めて遺憾なことであります。愛国心は私党化さるべきものではありません。愛国主義的猜疑心は有害であります。学生が時局に対して消極的であると非難されてゐますが、これとても、あのマルクス主義流行の当時から今日に至るまで彼等に対して常局がつねに余りに甚だしく猜疑的であつた結果生じたのであることが指摘されねばなりません。
支那事変の当初、閣下は次のやうに申されました。「日本の國體と云ふものは、よく言はれるやうに、そんなに固苦しいものでは決してないのである。伸縮性を持ち、包容性を持ち、弾力性を持つたものであつて、一切のものを包容し一切のものを消化するものである。人に対して線の細い喧ましい事を云はず、非常にゆるやかな、ゆつたりとしたものなのである。どうも今日に於ては、國體と云ふと大変に固苦しい事になつて来るのであつて、これはまだ日本の國體と云ふものが本当に理解されて居ないのではないかと私は考へるのである。」「思想に豊かであれ、そして人に恥をかかすな、と云ふ、これが日本本来の思想であると思ふ。」まことに立派な言葉として拝読した次第でありますが、教育界の現状はこれとは余りに隔つてゐはしないかと私には思はれるのであります。すべてが窮屈で小喧しく、伸縮性、包容性、弾力性に甚だ乏しいのではありますまいか。殊にあの小吏根性、自分の地位の安定と栄達とをはかるに汲々として徒らに権力者の意を迎へるといふ風が今日の教育界に瀰漫してゐるやうであります。官僚独善もさることながら、教師の小吏根性は更に困つたものであり、この現状をもつてしては日本の必要とするやうな人間は到底作られないでありませう。今の日本があらゆる方面において必要としてゐをのは、大陸的な、線の太い、型の大きな人間であることは閣下も御同感のことと信じます。
「思想に豊かであれ」といふ日本本来の思想は、思想に対して積極的進取的であることを要求してゐることは歴史の示す通りであります。しかるに「思想問題」といふものが現在人々を思想に対して甚だ消極的ならしめてゐる感があるのであります。思想問題といふものが「人に恥をかかすな」といふ日本本来の思想に反するやうな行為に利用され、そのために人々を思想に対して甚だ臆病ならしめてゐるやうに思はれます。現代社会について何か批評的なことを言へは、すぐに赤化してゐるかのやうに見られる場合が尠くありません。かくして革新を必要とする日本において思想問題といふものが結局現状維持の勢力に合してゐるやうに感ぜられるのであります。
閣下は次のやうに申されてゐます。「挙国の理想に対する信念、皇室に対する奉公の至誠、皇室の尊厳に対する熱烈なる信奉に於ては、不動のものを有して譲らないけれども、その他は赤もいいし、白でもいいし、又黒でもいい。何でも適当に混ぜて一つのものを作り上げる事の出来るのが日本人である。この様な見地に立つて求めて行くならば、そこに強固にして広大なる思想を成就なし得るのではないであらうか。さうして又、このやうな思想は世界全体に対しても、非常に良き平和の道を作り出すものではないか、と考へるのである。」偏狭な、独善的な排外思想が閣下のものでないことは明かであります。しかるに今日、日本主義の名において排外思想、思想上の鎖国主義が説かれてゐることは稀ではありません。日本精神の世界的妥当性を問題にすれば、何か反日本的なことであるかのやうに考へられるのが現状であります。閣下の広大なる思想に導かれてかくの如き事態の速かに改善されんことが望ましいのであります。閣下はまた次のやうにも申されてゐます。「一体、世界大戦後の変局に当つて、世界の思想文化は紊れるが儘に委せられ、何等の統一にも達して居らない。この間にあつて最も注目すべき現象は、過去のデモクラシイ文化と云ふものに破綻を生じたと云ふ事である。かくして戦後の文化思想としては或ひはファッショがあり、ナチスがあり、又コンミュニズムがあると云つた具合であるけれども、しかもこれらのものが
― その善意は別としても ―
一国或ひは一民族の間に、ある種の理想を行ひつつあるとすれば、それらのものは矢張り生きた文化現象としてこれを受容れ、その為に考へて見なければならないのである。」即ち閣下の求められる日本の思想は単なる復古主義の如きものでなく、論理的順序においてファッシズムやコンミュニズムを通過して達せられる一つの綜合的な思想であるかのやうに察せられるのであります。これは日本的であることは固より、それは現代における革新的な思想として、現代の最も重要な問題、言ひ換へると、現代資本主義の諸矛盾を解決し、その諸弊害を克服し得るやうな思想でなければならぬと思はれるのであります。かくしてこそ日本的思想も初めて革新的な思想であり得るのであり、同時に世界的な思想であり得るのであります。これが近年「革新」といふことの叫ばれるやうになつた場合、その元の意味であつた筈であります。しかるに今日、革新といふことが常套語となるに及び、それは単に欧米崇拝の排斥といふやうな方向にのみ考へられて、その元の根本的な意味が蔽ひ隠されるやうになつてゐはしないか、革新の規準について再検討を要すると思ひます。欧米崇拝といはれるものは、実は、閣下の申されるやうな「何でも通常に混ぜて一つのものを作り上げる事の出来る」日本人の進取的な且つ綜合的な精神の外面上の現はれに過ぎないと見ることができると思はれるのであります。
日本人の心は深く、決して外面からのみ判断することができません。少くとも優秀な文化人にして、如何に欧米の思想文化から学ばうとも、単にその模倣に終ることに満足しようとしてゐる者は一人もなく、いづれも自己の独創性を発揮しようと努力してゐるのであります。日本の特殊性に退いて一人相撲を取るのでなく、進んで世界共通の舞台に出て独創性を競はうと欲してゐるのであります。発展日本の求めてゐるのはかやうな「世界人」であると考へます。今日の日本の必要としてゐるのは支那人を納得させ得るやうな思想であることは申すまでもありません。日本人は日本を知ると共に、特に深く支那及び支那人を知らなければならないのであります。しかるに、ひとたび国外において支那人を納得させ得るやうな思想は、結局必ず世界の人をも納得させ得る思想であると私は信ずるものであります。
今日、革新といふ言葉は学園の内部においても叫ばれるやうになりましたが、それが単なる派閥の争に利用されてゐるかの如く見られるところがあるのは遺憾であります。革新は各人が自分の周囲から始めるのでなけれはなりません。そして教育界においても最も必要な革新の一つは派閥の打破にあるのであります。一方、研究の自由、学園の自治を主張する者が、他方、大学のギルド化に対しては何等改革的でないといふのが現状であります。かやうな自己矛盾は到る処に認められます。官僚独善が指摘されても、大学は自分の官僚主義については反省するところがないやうに見えます。派閥の争の弊は、例へば大学派と高師派との対立となつて文部省内にもあるやうに世間に伝へてゐるのでありますが、幸に閣下によつて伴食ならざる文部大臣が得られたのでありますから、この大臣にふさはしい文部省の改革が先づ行はれ、日本の教育界の明朗に指導されることが期待されるのであります。
時局下において国民が平静に過ぎるといふことが問題になつてゐます。この事実は種々に解釈されるのでありませうが、その一つの理由としては、日本の国民が支那の民衆に対しては敵愾心をもつてゐないといふことがあるのではないかと思ひます。これは今後の日支提携の重要な基礎となり得るものであります。ただしかし、日支提携の根本思想が何であるのか、国民には十分に理解されてゐないところがあるのではありますまいか。この思想を具体的に明かにすることが国民を積極的ならしめる所以であると考へます。もう一つの理由は、上から説かれる時局認識といふものが観念的にとどまつて真の時局認識即ち時局の実状についての知識が与へられてゐないといふことであります。時局の真実の認識は日支提携の根本思想を具体的に建てる上においても必要なことと思ひます。要するに従来この事変については抽象的な観念論が支配的でありました。知識階級が積極的になれなかつた原因もまたかやうなところにあると思ひます。この点について閣下の一考を煩はし、国民精神総動員の指導が正しくなされるやうに望みます。私の特に申し上げたいのは、時局は今日に至つて知識階級の知識階級自身の立場からの協力を必要とするに至つたといふこと、それには偏狭な見方を棄てて先づ知識階級を信頼し、その言論と行動に対して遙かに多くの自由を認め、単に個々の人間でなく全知識階級の協力を積極的に求めるといふことであります。これまで事変に対して知識階級の知性的力が殆ど協力してゐなかつたといふ欠陥があつたのではありますまいか。知識階級を置去りにして時局の解決はできないのであり、また知識階級をただ号令によつて動かさうとすることは不可能であるのみでなく、無意味でもあります。由来日本人は聡明な国民であります。ロシヤ人のやうに宗教的狂信的なところがなく、またドイツ人のやうに規則一点張りで動くものでもありません。情理兼ね具はる思想が必要であるのであります。閣下は次のやうに申されてゐます。「始めのうちの熱度と云ふものは洵に頼母しいものであるが、それを永続きさせる事が、最も重要である。その為には、やはり考への深さと云ふ事に想ひを致さなけれはならないのである。世界大戦の歴史に就て見ても、国民の始めの興奮状態と云ふものと、しまひの頃の精紳状態との間には、余りにも大きな懸隔が見出されるのである。露西亜に於て然り、独逸に於て然りであつた。そのいづれもが、英吉利程には腹の底に深みを持つて居なかつたのである。」まことに長期には「考への深さ」が大切であります。今日必要なのはそのやうな考への深さを作るやうな思想であるのであります。一時の興奮から思想の貧困が生じつつありはしないか、閣下の指導の宜しきを得んことを願ひます。