唯 一 言
― 板垣女史に答ふ ―
唯一言、板垣直子女史に挨拶する。
私はいつたい問題の文章で何をいはうとしたか。それは第一に、何よりも、「文学の真は主体
的真実性と客体的現実性との二つの方面を有し、両者の統一において初めて真である」といふこ
とであつた。私はそこにリアリズムを考へた。私の論文の眼目がこの点に存したことは恐らく凡
ての読者が認めたはずであり、現にあれは、当時から今日に至るまで、多くの批評家によつて取
り上げられてゐるが、その場合つねに私の右の主張が問題にされてゐるのである。
ところで私はこの主体的真実性及び客体的現実性並に両者の弁証法的統一の概念を、ケーニヒ
の本のどこから剽窃したといふのだ。それについては彼は一言半句も書いてゐない。板垣女史に
よれば、その思想は「ケーニヒの議論の中から容易に暗示されてゐる」とのことだが、それなら、
それは彼の本の如何なる個所においてであるか、明示されよ。剽窃呼ばはりをする女史にはその
義務があるはずだ。否、その思想は断じて私のものだ。それがあの論文の少し以前に発表した私
の著書『歴史哲学』に直接につらなり、それから流れ出てゐることは、物の分つた読者なら誰で
も知つてゐると思ふ。
第二に、私は問題の文章において「リアリズムと見られるものが、ブルジョワ的観点の内部に
おいては、自然主義の最初の意図とは全く正反対のものに時化するに到つた」といふ、「そして
今日、自然主義の最初の意図を継承し発展させるものがほかならぬプロレタリア文学である」と
いふ、「歴史の発展の弁証法」を明かにしようとした。ところでかかる目論見の如何なるものが
ケーニヒの本の中に出てゐるのだ、毫末といヘども存しない。なるほど私は私の目論見の遂行の
ためにケーニヒの本を少しばかり使つた。然しそのことは剽窃とは決して同じでない。なぜなら
私は彼の本における記述をケーニヒとは全く異つた目的のために利用し、それから全く新しい結
論を導いて来てゐるからである。これは剽窃的手段では出来ないことであり、その間に私の意見
が多くつけ加へられてゐる。
パスカルがいつてゐる、「ひとは私が何事も新しくいはなかつたといつてくれてはならぬ。材
料の組立は新しい。庭球の遊戯をするとき、ひとりの者も他の者もひとつの同じ球を弄ぶのであ
るが、然しひとりの者はそれを他の者よりも一層よき位置におく。」もし私の遣方が剽窃だとす
れば、パスカルでもデカルトでも、これらの思想家の著書についての少し詳しい註釈書を見れば、
彼等も剽窃家と呼ばれねばならぬことにならう。
いつたい私の文学論は如何なる場合でも根本においてつねに私の哲学と密接に関聯をもつてゐ
る。このことを忘れないでほしい。私は私の哲学の体系としての強化と発展とのために時には文
学論をやるのであつて、板垣女史の「専門」らしき文藝時評の領分をみだりに荒さうといふ意志
は毛頭ない。この点は以後も御安心あつて然るべきである。