軽蔑された翻訳
我々は我々の書いたものを互にもつと読むやうにしたいと思ふ。私は必ずしもそれを尊重せよといふのではない。正直に云つて、日本の学界の水準は西洋の学界の水準よりも低いことを認めねばならぬ。そしてものがそれの本質的な価値に相応して尊重されるといふことは正しいことであり、善いことである。私の求めてゐるのは親切である。日本人は日本人の書いたものを互にもつと親切に読むやうにしたいと思ふ。我々は互に他の人のものをもつと率直に理解し、もつと親切に批評するやうにしなければならぬ。さうしてこそ我々の間に文化の共通な、広い地盤が作られ、その上に初めて我々の独自な文化が花を開くことも出来るのである。然るに我が国の学者は少くとも同国人のものをあまり読まなさ過ぎるのではないか。
これには色々な理由があらう。しかしその一つが日本の学者の多くは自分の国の言葉を愛しないといふところにあるのは確かなやうに見える。言葉を愛することを知らない者に好い文章の書ける答がない。悪文、拙文は我々の間では学者にとつて当然なことであると思はれてゐる。あの人は学者にしては文章がうまい。などと平気で語られてゐるのである。然るに若し言葉と思想とが離すことのできぬ内面的関係をもつてゐるとすれば、このやうな事実は、少くとも一面に於いては我が国の学者に自分自身の思想を求め、形作らうとする衝動と熱意とが欠けてゐるといふことの証左でなければならぬ。ひとは自分自身の思想を求め、形作るとき、自分自身の言葉を求め、形作る。
歴史がこのことを証明してゐる。近代のドイツ哲学はギリシア哲学に比肩し得べき偉大な世界史的事実である。このやうなドイツ哲学の発展の発端をなしたのはライブニッツであつたが、彼はその当時すさまじい勢でこの国へ侵入して来たフランス語に対し、また伝統的なラテン語に対して、母国語の価値に関するいくつかの文章を書いてドイツ人に警告し、ドイツ語をラテン語に代へて学術語として使用することを主張した。彼はドイツ語で哲学上の論文を書いた最初の人に属してゐる。そのほか、彼はローマ法をドイツ語に翻訳してしまふことの必要を力説した。またヘーゲルが自分の思想を出来るだけ純粋なドイツ語で表現することに努め、ラテン語から来た言葉をさへ避け、寧ろ俗語を活用しようとしたのは有名な事実である。このやうにして、全くドイツ固有な言葉の意味を有するかの「ガイスト」(精神〕の哲学が完成されるやうになつたのである。
哲学者ライプニッツもその必要を大いに認めた翻訳といふものの意味は、外国語を知らない者にその思想を伝達することに尽きるのではない。思想と言葉とが密接に結合してゐるものである限り、外国の思想は我が国語をもつて表現されるとき、既にもはや単に外国の思想ではなくなつてゐるのである。意味の転化が既にそこに行はれてゐる。このときおのづから外国の思想は単に外国の思想であることをやめて、我々のものとして発展するこかの出来る一般的な基礎が与へられるのである。翻訳の重要な意味はここにある。このことを考へるならば、翻訳でものを読むといふことは学問する者にとつて恥辱でないばかりか、必要でさへあることが分る。
支那や日本に於ける仏教の発達の場合を見よ。この独自な発達は原典ではなく、却つて翻訳書の基礎の上に行はれたのである。或ひはポエチクスによるアリストテレスのラテン訳が中世のスコラ哲学の発展に与へた影響、或ひは聖書のルッテル訳がドイツ文化の発展に及ぼした影響などを想ひ起すがよい。何でも原書で読まねばならぬと思ひ込んでゐることが如何に無意味であるかが分るであらう。
然るに日本の学者の多くは何故かそのやうに思ひ込んでゐるのである。彼等は翻訳書を軽蔑することをもつて学者の誇であるかのやうに考へてゐる。なるほど、どのやうな翻訳も、翻訳たるの性質上、不正確、不精密を免れない。誤訳なども多い。しかしこのやうな欠点は語学者や註釈学者にとつては最も重大な性質のものであつて、自分で考へることを本当に知つてゐる者にとつては何等妨害とならないのみか、そのやうな不正確、不精密、誤訳から却つて面白い独創的な思想が引出されてゐる場合さへあるのである。これは少し綿密に思想の歴史を研究した人には容易に認められ得ることである。
私は固より誤訳の出現を希望する者ではない。寧ろ正反対である。しかし私は今日学問する人が、先づもつと我々同志の書いたものに注意すると共に、次に日本語になつた翻訳書をもつと利用することを希望せずにはゐられない。原書癖にとらはれて翻訳物を軽蔑し、折角相当な翻訳が出てゐるのに読まないで損をしてゐる学徒も多い。どんなものでも原書で読まうとしてゐるために、自分で考へる余裕を奪はれてゐる人もある。なんと云つても翻訳なら速く読める、その上翻訳書はその内容の要領を掴む点から云つても便利である。原書癖を矯正することによつて得られる利益は想像されるよりもずつと大きいだらうと思ふ。我々はまだまだ外国思想を移植する必要がある。けれどもこのことと原書癖とは区別されねばならぬ。翻訳書は学者以外の読むものであるかのやうに考へてゐる偏見をなくすることが必要であると思ふ。