羽仁五郎を語る



 貴公子らしき風采、薄つペらでもなささうだけれど貫目もない、趣味が広くてもそれに溺れさうにない知的なディレッタント、鋭さうだがニヒリストでないかしら、等々、は羽仁五郎からひとの最初に受ける印象であると思ふ。併し彼と深く交際した者は第一印象などといふものが決して当てにならぬことを知らねばならない。彼の奥にはどこか毅然たるところがある。上州児らしい男らしさを彼はもつてゐる。彼はどこまでも桐生うまれの田舎者だ。彼には趣味が分らないのではないけれども、彼は趣味をむしろ軽蔑してゐる。経済学者や哲学者などがアララギ派もどきの歌を作つて自己のセンチメンタリズムをひそかにいつくしんでゐる世の中に、彼は万葉集を歴史的批判的に研究する。彼は歴史家である。
 このやうに語り始めても羽仁五郎の名はもとより世間一般にとつてそれほどポピュラーではない。彼と同じクラスであつたといふ池谷信三郎君、村山知義君などがもう名士になつてしまつてゐるときに、羽仁の力量はなほただ限られた範囲で認められてゐるだけである。彼はまた将来勅任教授の位置を約束されてゐるところのいはゆる少壮学者でもない。羽仁が池谷、村山両君の如き才子でもなく、いはゆる少壮学者たちのやうな利口者でもないことは明かである。彼に才がないわけではない、そして彼も折には才の誘惑にかかる。そのとき彼の仕事は大抵失敗に終つてゐる。彼は単なる才以上の本質的な理智を十分にもつてゐるのだから、このものにみづから信頼すべきだ。この客観的な理智が彼に於いて才に打ち勝ち得るだけ十分に力強いものであることを我々は疑はない。けれど誰も才に知らず識らずはしりたがるものだ。それだから我々はどんな場合にも羽仁を煽ててはいけない。我々は黙つて彼を睨んでゐようと思ふ。睨んでゐることは必要だ。性来の負けじ魂、不羈の意気が彼をして単なる才以上の仕事をさせるに相違ない。
 羽仁が歴史のマルクス主義的解釈を学んだのは昨今のことではない。数年前私が初めて彼とハイデルベルクで知り合になつた頃、彼は既に故糸井靖之氏や大内兵衛氏の指導のもとにマルクスし主義を勉強してゐた。彼に歴史、殊に日本歴史の研究を勧めたのはこれらの人々であつたと思ふ。ハイデルベルクで彼はかの哲学者の息子ウィンデルバントのゼミナールで研究し、傍ら我々と一緒にリッカートやへリイゲルなどのところで哲学を学んだ。文学美術の方面も相当に漁つてゐた、洋行から帰つて彼は大学の国史科に這入つた。しかし哲学の研究もやめなかつたやうだし、地理学その他の学問を進んで勉強し、実証的な研究でも彼は優秀な成績を示した。彼は新しいタイブの歴史家として、否、本当の歴史家として活動するために必要な素養を次第に積んで来たのである。彼の最初の仕事、今度本になつて出るところの佐藤信淵の研究が出来た。 彼は歴史家である。日本史学史の研究などが彼にとつて最も適当な、また得意の題目であることを考へれば、彼は以前彼の翻訳したクロオチェに似たところがないでもない。けれども彼がクロオチェのやうに哲学者であるとは思はない。彼の天分はどこまでも歴史家たるにあると私は信ずる。彼から思想家や哲学者を期待したり、若しくは彼自身がさうあらうと希望したりするやうなことがあれば、世間も彼みづからも失望するであらう。彼はその広い教養の上にもつともつと実証的研究に深入りしてゆくべきだ。彼は成長しつつある。『新興科学の旗のもとに』に発表された近業「個別特殊性の幻想」や「唯物史観と発展段階の理論」がそれを示してゐる。最近著書として『転形期の歴史学』が出るといふ。しかし彼は断じて方法論者としてとどまるべきでない。辛抱強く材料の中へ這入つてゆかねばならぬ。そのとき彼は歴史学の真の革命家として現はれ得る。そのとき我々は彼から偉大なものを本当に期待することが出来る。