書物の倫理



 洋書では滅多にないことだが、日本のこの頃の本はたいてい箱入になつてゐる。これは発送、返品、その他の関係の必要から来てゐることだらうが、我々にはあまり有難くないことのやうに思ふ。だいいち本屋の新刊棚の前に立つたとき、そのためにたいへん単調な感じを受ける。どの本もどの本も皆一様に感じられる。どれかを開けて内容を調べてみようとしても、箱があるのは不便だ。開いて見て元の箱に納めようとすれば、本には薄い包紙が著けてあるので、私のやうな不器用者にはなかなかうまく這入らず、ともすればその包紙を破つてしまふ。他人の商品を毀損したやうで何となく気持が悪い。店の者が横で睨附けてゐはしないかと思はず赤い顔をすることもある。さういふわけで箱に這入つた本は本屋にせつかく陳列してあつても不精と遠慮とから開けてみないことが多い。内容を見もしないで表題だけで本を買ふわけにもゆかないから、箱のことは出版屋の方で何とか工夫はないものであらうか。本を買つて持つて帰つて読む段になると、私などはたいていの場合箱は棄ててしまふ。不経済な話だ。
 尤もこれは洋書を見慣れてゐる我々の間だけのことかも知れない。この国では本の箱はよほど大切なものとみえて、だいいち古本屋に払ふとなると、箱があるとないとで値が違ふ。私の持つてゐる本は殆どみな箱がない。いつかも古本屋が来たとき「外国にゐられた方は皆さんがかうです」とか云つてゐた。箱を大事にするといふことは書物を尊重するといふ日本人の道徳の現はれであるやうにも思はれる。私が子供の頃には、本を読み始める時と読み終つた時とには、必ずそれを手で推し戴いて頭を下げるやうに云ひ附けられたものだ。これは私の家庭でさうさせられたばかりでなしに、その時分私の村の小学校でもそのやうにする習慣があつた。この頃はどうなつたか。このやうに本を尊重するといふのはもちろん決して悪いことではなく、ひとつの美徳でさへある。けれども一層大切なことは本を使ふといふことである。本を使ふことを学ばなければならない。本は道具と同じやうに使ふべきものだといふことをしつかり頭に入れることが書物に対する倫理である。しかしどう使ふかが問題だ。
 そのやうな意味で誰かの文庫を調べてみると面白い。沢山に本が集めてあつても案外使へない文庫がある。それは持主が自分の文庫を使つてゐない証拠であり、またそれをほんたうに愛してゐない証拠である。尤も使ふ目的にも使ひ方にも人によつて色々相違があらう。そこで或る人の文庫を見ればその人の性格がおのづから現はれてゐる。そこに文庫の倫理とでもいふべきものがある。文庫を見れば主人が何を研究してゐるかといふやうなことが分る以外に、そこに更に深いもの即ちその人の性格が自然ににじみ出てゐるのが面白い。本は自分に使へるやうに、最もよく使へるやうに集めなければならない。さうすることによつて文庫は性格的なものとなる。そしてそれはいはば一定のスタイルを得て来る。自分の文庫にはその隅々に至るまで自分の息がかかつてゐなければならない。このやうな文庫は、丁度立派な庭作りの作つた庭園のやうに、それ自身が一個の藝術品でもある。
 そしてこのやうに性格的或ひは個性的であることを私は特に今日の出版業者に向つて希望したい。我が国の本屋は外国の本屋に比べてどうも個性が薄いやうに感じられないであらうか。ドイツのトイプネルにしてもジーベックなどにしてもそこから出る本にはそれぞれ一定の特色がある。フランスあたりの本屋にしても、こんな本は多分アシェットから出てゐるだらう、恐らくアルカンから出てゐるだらうと見当がつくぐらゐである。ところが日本では或る本屋が或る形式、或る種類の本を出して成功すると、すぐ他で模倣する者が大勢出て来る。その結果つまり互に弱め合ふといふことになる。出版においても銘々がもつと創意を貴び合ふやうになつてほしい。その本屋から出る本は内容装釘共に全体としてきちんとした一定の特色が貫いてゐるといふのが好ましいことだ。さういふ色がすぐさま読者の頭に思ひ浮ぶことのできるやうにして貰ひたい。それが本屋の倫理ではないかと思ふ。
 善い本を繰り返して読むといふことは平凡な、しかし思ひ出す毎に身につまされる読書の倫理だ。先達てもフロベールの手紙を読んでゐたら、次のやうな文句があつたので、私はまたアンダーラインした。「作家の文庫は、彼が毎日繰り返して読まねばならぬ源泉であるところの五冊か六冊までの本から成つてゐるべきである。その余の本について云へば、それを知つてゐるのはよいことだ、しかしそれきりのことである」。繰り返して読む愛読書をもたぬ者は、その人もその思想も性格がないものである。ひとつの民族についても同様であつて、民族が繰り返して読む本をもつてゐるといふことは必要だ。それが古典といはれるものである。かくの如き古典の復刻といふことは出版業者にとつてもひとつの重要な意味のある仕事でなけれはならぬ。しかしながらまたそのやうなことは我々が多くの本を集めるといふことと矛盾しない。公共の図書籍にしても個人の文庫にしても本が多ければ多いほどよいのはもちろんだ。本は道具と同じやうに使ふべきものであるからである。そして使ふといふことはそれを悉く始から終まで読むことと同じでない。或る本については、単にそれがあるといふこと、ただその表題だけを知つてゐるといふことも十分有益である。尤も度々繰り返して読む愛読書をもたない人はその余の本を如何に使ふべきかを学ぶこともできないであらう。本を書く者にしても、真面目な著者であれば、彼の本が少くとも二度は必ず読まれることを希望してゐるであらう。アンドレ・ジードも「私は再審においてのほか勝つことを願はない」といふ風なことを何処かで云つてゐたやうだ。
 どんな本を買つて読むべきであらうか。既に数年を経て価値の定まつた本をのみ読むやうにエマーソンなどが教へてゐる。しかしながら我々の読書慾はもつと新しいものを求め、また新知識を絶えず吸収するといふことは我々にとつて必要である。私はそこで時々古本屋へ行つて勉強するやうに勧めたい。本の夜店を見て歩くことなどもよい。箱入の新刊書のときにはどれもこれも同じやうに見えたものがここでは既にその間に区別ができてゐる。絶版になつて原価よりも高くなつてゐるものもある。古本屋の陳列棚を見てをれば、どのやうな本が善い本であるかが誰にも自然に分るやうになる。書物の良否についての鑑識眼は銘々の見地からその間におのづから養はれる。古本屋を時々覗くといふことは読者にとつてのひとつの修養である。それは出版業者にとつても多く参考になることではなからうかと思ふ。著者にとつては尚更のことだ。書物の倫理は古本屋において集中的に現はれてゐる。あらゆる本は古本屋において性格化してゐる。これはもちろん値段の点からのみ云はれることではない。ところで書物に対する著者の倫理とは如何なるものであらうか。フロベールがまた書いてゐる「多く読み、多く想はねばならぬ、つねにスタイルのことを考へそして出来るだけ少く書くやうにせねばならぬ、ひとつの形式を上ることを求め、そして我々がそれの厳密正確な形式を見出すに至るまでは我々のうちで他の意味に変るイデーの激動を鎮めるためにのみ書くやうにせねばならぬ」。多く読み、多く考へ、そして出来るだけ少く書くこと、それが著者の倫理である筈である。しかし読むといふにも沢山の違つた仕方があるのであつて、そして良く読むといふには多くのエスプリが必要なのである。