新宣伝論

 支那事変以来、日本が外国に対して宣伝下手であるといふことが種々問題にされてゐる。宣伝の意義、必要などについて、われわれはあらためて考へ直さねばならなくなつて来たのである。
 いつたいプロパガンダといふ言葉は、一六三三年ローマン・カソリック教会によつて使用されたのが、その初めであるとせられてゐる。しかし宣伝といふものが現在のやうな特徴をもつて現はれるやうになつたのは更にずつと新しくナポレオン時代のことである。殊にあの欧州大戦は宣伝発達の歴史においても劃期的な重要性をもつてゐる。
 かくの如く宣伝は近代的現象に属する。それは輿論といふものの場合に類似してゐる。そしてそのことは、宣伝が起り宣伝が必要になるのは、根本において、大衆の政治的重要性の増大と関係のあることを示してゐる。宣伝はつねに大衆を相手とし、また特に輿論を統制するために行はれる。そこで日本人が宣伝下手であるとすれは、原因は日本の社会及び政治が近代化されてから、国際的世界に入つてから歴史の浅いことによるといへるであらう。日本では宣伝は自家広告などといつて軽視され、軽蔑される風がある。しかしこれは我々日本人のうちに残存してゐる封建的意識に過ぎないと見られ得る。自分の行動が正しくありさへすれはそれで好いとひとはいふ。まことにさうであるが、他面それはまた独善に陥り易く、かつ自分の行動にとつて大衆といふものの有する意義を考へないことでもあるのである。自家広告は美徳でないにしても、われわれの間で「運動」と呼ばれてゐるもの即ち権力或ひは権利を有する個人に対してひそかに自己を推薦することなどに比しては、大衆の前で公然と行はれるだけ罪が軽いといへるであらう。そのうへ宣伝と広告とは区別されねはならぬ。広告も或る程度暗示の技術を用ゐるにしても、その読者である大衆は広告主の目的の何であるかを知つてゐるのが普通である。広告を見るとき、われわれは広告主がそれによつてわれわれの購買の習慣を刺激しようと欲してゐることを知つてゐる。もちろん広告も宣伝に近づき得る。そしてこの場合には広告主は自分の目的を隠しながら読者に自分の欲するやうな影響を与へようと企てるのである。かくの如く、宣伝にあつては宣伝者の実際の目的が読者或ひは聴衆には知られてゐないのが普通である。これはその目的の善悪とはさしあたり無関係である。善い目的にしても、それを実現するためには、大衆に対して先づそれを隠しておくことが必要な場合もあるであらう。次に広告と宣伝との相違は、国家の如き団体は自分を広告するとはいはれないことにおいても認められる。すなはち固有な意味での宣伝の主体は政党、教会、国家などの団体であり、その自己保存及び自己主張のために宣伝は行はれる。宣伝を必要とするのは、本来、個人でなくて団体であるといふ意味においても、宣伝は社会的なものである。
 宣伝においては実際の目的が読者或ひは聴衆に対して隠されてゐるのがつねである。従つて上手な宣伝といふのは、それの宣伝であることさへもが分らないやうなものである。宣伝は普通には暗示の技術によつて、知らず識らずの間に大衆に影響を与へ、彼らのうちに一定の観念、意見、態度を作り出さうとする。しかもその際、宣伝者自身はどこまでも意識的、計画的である。けれどそれが大衆の側においては知られてゐないといふ点で、宣伝は神話や伝説の形成と類似するであらう。宣伝とはいはば近代的な神話乃至伝説の形成の近代的な方法である。しかし神話や伝説が民衆の間から自然生長的に生ずるに反して、宣伝においては宣伝者自身が同様のものを目的意識的に作り出さうとする。そこに両者の差異がある。民衆の間に自然的に生長しつつある神話乃至伝説を計画的に養ひ育てるといふ場合、宣伝の効果は遙かで大きいであらう。宣伝の意義を理解するためには神話や伝説の意義を理解しなけれはならぬ。前者も後者と同じく社会統制の機能を有し、何よりもそのために必要とせられるのである。統制の時代がまた宣伝の時代であることは、われわれの目前に見る通りである。統制が必要である限り宣伝も必要である。
 宣伝は神話や伝説の形成に類似するものとして単に知的なものであり得ないであらう。しかし他方それは単に大衆の情意に訴へるものであると考へるのも間違つてゐる。かくの如きはむしろ煽動のことである。宣伝は扇動とは異なり一層知的なものでなけれはならぬ。煽動が瞬間的な効果に集中するに反して、宣伝は一層持続的な効果を求める。従つて宣伝は間に合はせにでなくて平素から行はれることが大切である。宣伝は知的なものであるといふ点において啓蒙に近づく。上手な宣伝はそれの宣伝であることが分らないやうにするといふことからも、宣伝は少くとも外面上は啓蒙の形をとることが必要であらう。けれども宣伝と啓蒙とは混同されてはならぬ。啓蒙が主として知的啓蒙であるに対して、宣伝は一層情意的な、一層暗示的な形をとる。啓蒙は大衆の間に批判的精神を喚び起すに反し、宣伝は却つてかやうな批判的精神を抑へて統制を行ふことを目的としてゐる。啓蒙の結果は神話に対して破壊的に働くに反して、宣伝の意図はむしろ神話を養ひ育てること、新しい神話をそれ自身の仕方で作り出すことにある。
 神話をただ過去の時代のものと考へることは間違つてゐる。ナチスの指導者の一人ローゼンベルクの『二十世紀の神話』は全くの宣伝の書である。宣伝と啓蒙とは相反する作用をなし、歴史は両者を共に必要とするのである。他の宣伝を無力にするには啓蒙は重要な手段である。また先んぜられた他の宣伝に対抗するための自己の宣伝は一層多くの啓蒙的要素を含まねばならないであらう。しかし啓蒙だけで宣伝と同じ致果が得られるやうに思つてはならぬ。すべてかやうなことは今度の事変における対外宣伝についても考慮すべきことであらう。
 著述家は読者を頭において書かなけれはならない、これは一つの平凡な規則である。けれども我が国の著述家にあつてはこの平凡な規則の行はれてゐない場合が案外多いのではなからうか。
 日本人が宣伝下手であるといふこともそれと同じ事情に基いてゐる。宣伝とは自分の行動を社会的に評価することである。人間の実践は本質的に社会的である限り何らかの宣伝はつねに必要であるといへるであらう。思想も行動的である場合宣伝的であることを要求される。
 宣伝の反対は独善である。宣伝下手といはれる日本人には独善的なところが多いのではなからうか。宣伝がつねによいとはいへないが、しかし独善の弊害もなかなか大きい。独善は封建的なものである。独善的なところがあつては近代的な宣伝には成功し得ない。宣伝するためにはともかく大衆の中へ降りて来なければならぬ。大衆といふものが発達するに従つて宣伝も重要になつて来るのである。
 独善的態度の拠りどころが「心情の倫理」であるとすれば、政治の倫理はかやうな心情の倫理に止まり得ない。心情の倫理の立場から宣伝を軽蔑するのは政治の本質の理解の不足に基くといへるであらう。政治的動物としての人間はつねに宣伝的である。
 宣伝が大衆の心理を掴まねはならぬことはいふまでもないであらう。この心理は社会的、歴史的に制約されてゐる。それはその国の政治、知的教養の水準、特に習性的になつた思惟や感情の傾向などによつて規定されてゐる。従つて我々が外国に対して宣伝を行ふ場合には、それぞれの国において宣伝の方法を別にしなけれはならぬのは当然である。民主主義国に対する宣伝と独裁国に対する宣伝とはおのづから異ならねばならぬ。宣伝は普遍的な論理に訴へる以上に大衆の現実に有する心理に食ひ入ることが大切である。宣伝される内容が普遍性を有するものであるにしても、宣伝そのものはそれぞれの場合に特殊的なものでなければならない。
 宣伝とは誇張することだと考へて宣伝を嫌ふ者があるのは単純に過ぎるであらう。宣伝は啓蒙とは異り情意に訴へる点がある限り誇張も必要である。しかし宣伝においては煽動とは異り一層持続的な効果が求められる限り誇張することは却つて反対の結果を招くことがある。宣伝は大衆の中へ中へと降りれば降りるほど有効である。宣伝される内容が純粋に非合理的なものであるならば、宣伝はもとより成功しないであらう、しかし宣伝は合理的なものをただ合理的に伝へるだけでは足りず、むしろどこからともなく大衆の間に神話が出来てくるのに似たところをもたねばならぬ。
 かくして宣伝の意義と必要とを理解するためには、最も基本的には、自分を社会においてあるもの、世界においてあるものとして把握することが必要である。かやうな社会乃至世界の感覚或ひは意識なしには宣伝は理解されない。しかもそこでは大衆といふものの重要性がつねに理解されてゐなければならぬ。固有の意味における宣伝とは政治的存在としての団体が一方自己自身に対し他方その政治的環境に対して自己保存乃至主張のために行ふ社会統制の技術の一つである。