精神について


 精神といふ言葉ほど近年しきりに使はれてゐる言葉はないであらう。しかも精神といふものほど近年とみに失はれてゐるものもないやうに思はれる。精神の何であるかでさへ、ほんとには理解されてゐないのではないかと疑はれるのである。早い話が、「精神、精神」といはれるけれども、どれほどひとは精神的になつたであらうか。
 このごろ寄ると触ると話されるのは、食物のこと、燃料のこと、等々である。限りなく同じ話が繰返されてゐる。表面では唯物思想は排斥されてゐるが、実際に人々の心をとらへてゐるのは唯物思想ではないかと怪まれるほどである。他方、いはゆる戦争景気が唯物的な生活態度に拍車をかけてゐるやうに思はれる。料理屋の繁昌、交通機関の混雑などを見ても、それが感じられる。
 物資の不足と兌換券の膨脹とは国民を生活上の唯物主義者にしてしまふ危険があるといはれるであらう。いかなる唯物論者も生活倫理の上におけるかくの如き唯物主義を主張しなかつたのである。
 私はもとより物質を軽んじるものではない。むしろ近年しきりに唱へられてゐる精神主義が、真の精神の何であるかの理解を失はせて、かかる生活倫理上の唯物主義者を作つてゐるのではないかと疑ひたいくらゐである。精神といふ言葉の濫用は危険である。「精神」のインフレは経済上のインフレと同じく悪影響を及ぼすのである。
 物資の不足、兌換券の膨脹、等々は、その本質において何を意味するのであらうか。言ふまでもなく危機を意味してゐる。それは何よりも国際関係における危機の反映である。
 今日、誰も危機について語つてゐる。しかし果してそれが真に危機として切実に、内面的に経験されてゐるであらうか。現在においてもなほ、従来の歴史的事情にもとづいて、いつのまにか常識的になり習慣的になつてゐる例の甘い考へ方をしてゐる者が多いのではなからうか。尤も、そこには日本民族に一種固有な楽天的思想といふものもあるであらう。しかしこれは精神的なものであり、衒ひ気のない自然な、純で謙抑な形のものであり、近年の風潮とは反対のものである。むしろ危機の自覚の乏しいところから、このごろの倫理的に唯物的ともいはれる傾向が生じてきてゐるやうに感じられるのである。
 危機の自覚はもとより悲観主義といふ如きものではない。それを悲観主義と同じにしか見ることができないやうな浅薄な物の見方においては、真に精神的なものは理解されないであらう。寧ろ危機の経験の中からこそ個人にとつても、民族にとつても、真に精神的なものが現はれてくるのである。真の精神的価値は悲劇的なものの経験を通じて生れてくるといはれるのも、そのことを意味してゐる。
 危機は我々の前に横たはつてゐる。今日、精神について語る者は従来の甘い見方をすてて、それを真に危機として自覚しなければならぬ。危機をいかに経験するかといふことが、各個人の、また民族の精神の問題を決定するのである。
 危機といひ、悲劇といふものは、否定的なものである。自己否定を通じてでないと、精神といふものは出てこない。近年あらゆる方面に見られる単純な肯定論が精神を失はせてゐるのではあるまいか。
 精神といふものは種々の面から規定されるであらうが、今日特に強調されねばならないのはその厳しさであると思ふ。厳しさのないところに精神はない。精神は危機の経験を通じて現はれてくるといふのも、そのことを意味してゐる。精神は否定を通じて出てくると考へられるのも、そのためである。
 かやうな厳しさは先づ自己批評の厳しさである。クリティカルといふ語が批評的といふ意味と共に危機的といふ意味を含むやうに、危機的といふことと批評的といふこととは結び付いてゐる。危機は烈しい批評的精神を要求するのであり、厳しい批評のないところにおよそ精神といふものは生れない。
 近年、批評といふものが排斥されて、創造といふものが強調されてゐる。けれども批評と創造とは抽象的に分離すべきものではないであらう。批評なしには創造もないといふことは、何物も無いところで創造することができず却つてつねにただ一定の与へられた歴史的状況の中においてのみ創造することができる人間的創造にとつての約束である。何よりも自己批評の厳しさがなくては、いかなる真の精神的なものも創造することができないであらう。批評といふものが排斥されるに従つて、自己批評までもが忘却され、かくして真に精神的なものが喪失してゆく危険がありはしないかと惧れられるのである。自信をそこなはないために批評を禁ずるといふやうなことは、自信と独善との混同である。
 すべて精神は厳しいものである。例へば科学的精神といふものがこれである。科学はあらゆるものを、それ故に自己自身をも、どこまでも客観的に、それ故に一種非情な仕方で見てゆくのである。科学的精神のこの非情な厳しさが理解されなければならぬ。
 「科学する心」といふものに甘い考へ方があつてはならない。自己を空しくし、自己を否定して、物をどこまでも客観的にとらへてゆくのが科学的精神である。今日、国民の間に新しい精神が現はれてくるためには、かやうな科学的精神が浸透しなければならない。科学は常識や独断に対してつねに厳しく批評的である。批評を排斥することと科学する心とは一致し難いであらう。科学がいはば客観的な厳し さを示すとすれば、これに対して宗教はいはば主観的な厳しさを現はしてゐる。宗教はまた厳しい人生批評を含んでゐる。それは生死の絶対的な極限に身をおいて人生や文化や社会を厳しく見てゆくのである。今日精神が失はれてゆくやうに感じられるのは、真に宗教的なものの理解が欠けてゐることを意味するのであるまいか。
 尤も、宗教は現在一種の流行となつてゐる。宗教に関する書物など、よく読まれてゐるやうである。しかしながら宗教の厳しさがどれほど深く把握されてゐるであらうか。宗教に名をかりて甚だ甘い考へ方が流布されてゐる場合が少くないのである。
 自由主義文化の一つの特色は非宗教的なところにあると見られるが、自由主義が全面的に排斥されてゐる現在、果して真に宗教的・精神的なものが現はれてゐるであらうか。この点についても、自由主義を排斥する者が精神においては自由主義者以上ではないかと疑はれることが多い。
 求められてゐるのは真に厳しい精神である。その意味で、今日、錬成といふことが言はれてゐるのはまことに結構である。錬成とは厳しさを取り戻して、真の精神を作ることでなければならない。ただ現在の風潮において、それが形式化して、精神を失ふことのないやうに特別に警戒を要するのである。
 錬成の問題を考へるにあたつて先づ理解しなければならないのは精神とは形であるといふことである。精神を何か捉へやうもないものの如く考へることは間違つてゐる。精神とは却つて形である。もちろんそれは、形式化してしまつた形、単なる形式、死んだ形ではなく、生きた形である。錬成が形式化してしまふ危険は大きい。これに対して反対することは正しいが、同時に他方、精神とは形であるといふことを忘れてしまふ危険も存在してゐる。精神の厳しさは形の厳しさにほかならない。
 そこに伝統といふものが考へられるであらう。形は伝統として存在し、伝統の厳しさは形の厳しさである。錬成はつねに何等か伝統につらなつてゐる。今日、錬成が重んじられるやうになつたといふことは、伝統が重んじられるやうになつたことと関連してゐる。
 しかしそのためにまた錬成が形式化してしまふ危険もあるといへるであらう。すでに錬成といふ以上、伝統的な形に対して対立するものがなければならぬ。何等の対立も、それ故に何等の緊張もないところでは、錬成といふものは考へられない筈である。
 伝統に対立するものは創造である。錬成さるべきものが伝統に対して創造的であればあるほど、錬成はますます錬成的である。即ち錬成においては錬成さるべき主体の創造性が認められなければならない。さうでない限り、錬成は形式化せざるを得ないであらう。伝統と創造との間に緊張が存在するところに錬成は存在する。ここにおいて、伝統は創造を通じて生かされ、創造は伝統を介して成就される。
 錬成における創造的な面を理解することは、錬成が形式主義に、悪しき伝統主義に陥らないために大切である。真の錬成は外面的な形式に鋳込むことではなく、新しい形の形成でなければならぬ。
 同じやうに錬成といふ場合、全体と個人との間に緊張がなければならないであらう。もちろん、錬成は個人主義的な立場においては考へられない。今日、錬成といふものが重んじられるやうになつたのは、全体主義的思想と関連してゐる。しかし錬成といふ以止、そこに個人と全体との間の緊張が予想されるのであつて、この緊張がない場合およそ錬成について語ることは無意味である。
 全体的な普遍性に対して個人の特殊性の意義が認められなければならない。さうでないと、錬成は形式主義乃至画一主義の弊害に陥らざるを得ないであらう。普遍性と特殊性との間に緊張が存在することによつて、全体は個を通じて豊富になり、個は全体を介して真の個性となるのである。錬成における個の特殊性、自発性の面を考へることは、錬成が悪しき全体主義に、外面的な形式主義、内容のない画一主義に陥らないために肝要である。
 かやうにして精神といふものは緊張であるといふことができる。精神の厳しさはこの緊張とつながつてゐる。生きた形は緊張である。今日の全体主義的な考へ方は有機的な関係を強調するあまり、このやうな緊張を見逃してゐる。そこに精神の失はれる危険が存在してゐる。
 単に有機的な考へ方では、自然といふものは考へられるにしても、精神といふものは考へられない。緊張のあるところに精神がある。危機の経験において精神が現はれるといふのも、これに依るのである。妥協、迎合、阿訣等が精神を失はせるといふのも、そのことを意味するのでなければならない。