文化政策論


      一

 我が国の政治に新しさを齎らすものは何よりも文化政策である。なぜならこれまで我が国の政治には文化政策と称するに足るものが殆んど全く存在しなかつたのであり、従つて文化政策を重んずる政治はそれだけで従来の政治に対して或る新しさを示し得るからである。これは既にしばしば述べてきたことであるが、いま私はこれを更に強調して繰返したいと思ふ。今日我が国の政治は新しい出発をしようとしてゐる。新しい政治は、ドイツの例に俟つまでもなく、文化政策に力を致さねばならぬ。しかも我が国においては特にこれによつて政治の新しさを国民に示し得るといふ特殊の有利な事情さへ存在してゐる。そのやうに従来日本の政治には文化政策の貧困があつたのである。
 ここに政治の新しさといふのは先づひとつの心理的問題である。今日の政治的問題は或る意味においてかやうな心理的問題であると考へることができる。国民の心理を掴むことは政治家に必要な条件であるが、我が国の政治家に乏しいのはこのいはば心理学者の資格である。官僚政治といはれるものの欠陥も、それが政治における心理的問題に対して無理解になりがちな傾向をもつてゐることに由来する。新しい政治家は藝術家でなければならぬなどといふのも、彼がかやうな心理学者でなけれはならぬことを意味してゐる。最近軍部では国民の士気作興について政府に要請するところがあつた。これは極めて注目すべきことである。国民の士気作興のために考へねばならぬことは多いであらうが、ともかくそれが士気作興といふ言葉で表はされるやうに、そこには或る心理的問題が横たはつてをり、文化政策のあづかるべき役割はその場合大きいであらう。文化政策の意義を理解するためには、先づ政治における心理的問題の重要性が理解されねはならぬ。
 この時局において文化政策の如きは不急の事業であると言ふ者があるかも知れない。それは政治における心理的問題の重要性を理解しないのみでなく、文化の意義をも理解しない意見である。文化を単なる贅沢、単なる装飾の如く、要するに不急のものの如く考へる風をなくすることが、それ自身文化政策の目標である。例へば藝術の起原を労働に結び附ける学説には異論があり得るにしても、音楽や歌謡が仕事の能率を高めるといふことは、工場においても農園においても実証されてゐる。文化政策の実行は生産の向上のためにも必要である。尤も、これまで文化といはれたものに単に消費的なものが尠くないことは事実である。さうであるとすれば、それに対して生産的な文化を新たに作ることに努力するのが文化政策の重要な目標でなければならぬ。しかし他方このことをもつて文化の実用化をのみ目差すことは間違つてゐる。藝術の起原を遊戯から説明するが如き学説には異論があり得るにしても、あらゆる文化には何等か遊戯的なところがある。それ故に文化は我々の生活を明朗にすることができるのである。ただ実用化を目的としては、真に実用になる文化を作るといふ目的も達せられないであらう。現存の諸事情は国民の物質的生活の縮小を余儀なくしてゐる。もちろん我々はどこまでもこれに堪へてゆかねはならぬ。しかしながら物において貧しくなるからといつて、心までも貧しくせよといはんばかりの手段に出るのは、正しくない。我々は小乗的な道徳主義が屡々かかる消極的なものになつてゐるのを見出す。人を追ひ詰めてはならない、何処かに余裕を残しておかねはならぬ。健全な娯楽の必要は今日痛切である。たとひ物において貧しくとも心を裕かにするといふのが文化政策である。文化を贅沢物乃至装飾品のやうに考へることは、それを一部の特権者のものであるかの如く見做す思想と結び附いてゐる。新しい文化政策はかやうな思想を克服して、文化に国民的基礎を与へることでなけれはならぬ。すべての文化は国民的基礎の上に立つことによつて生産的なものになり得るのであり、反対に一部の特権者に属することによつて単に消費的なものに墜落し得るのである。
 文化政策は重要であるが、それは文化主義といふが如きものであつてはならぬ。経済や政治の諸部門における政策から離れて文化政策を考へることは抽象的である。文化政策は綜合的な政策の一部でなけれはならぬ。かやうに政策の綜合性を要求することが真に文化的といふべきである。しかしまた他方、政策綜合化或は一元化といふことで、文化政策が文化政策として有する特殊性や独自性が否定されてはならない。真の綜合はその中に含まれるものの特殊性や独自性を殺すことでなく却つて活かすことである。文化政策の如きにおいては殊にその特殊性や独自性を認めることが大切である。ところで文化主義が更に陥る誤謬は、文化を実生活から抽象して考へることである。かやうな文化主義はもちろん東洋の伝統から遠く離れてゐる。日常性を重んじ、文化を生活的にするといふのが我々の古い伝統である。文化政策の対象となるのは、文学や美術の如きもののみでなく、また生活文化でなければならぬ。文化とは、言葉の定義に依れば、与へられたもの、自然のものに働き掛けて人間が作り出すところの一切のものである。人間は環境から働き掛けられ、逆に環境に働き掛ける、そこに形成されるものが文化である。文化は人間の外部に作られるのみでなく、人間自身もまた文化的に形成されるものである。彼は文化的環境から形成されるものとして文化的なものである、そして彼は自己自身であるところの自然(人間的自然)に働き掛けてこれを形成してゆく。ギリシア人が文化の重要な要素と考へたギムナスティケー(体育)もかかるものとして文化に属してゐる。文化政策といへば、文学や美術のことをのみ考へる文化人の陥り易い偏見が先づ訂正されねはならぬ。今日重要な文化政策の対象といへば寧ろ厚生に関することであり、また特に科学であり、教育であり、宗教である。かやうにして文化政策が文化主義の抽象性に陥らないためには文化の綜合的な概念が確立されねばならぬ。その基礎において綜合的な文化政策は可能になるのであり、その綜合性が今日最も必要なのである。個々の文化部門に対する政策もかかる綜合的な見地のもとに定めらるべきものである。

       二

 文化政策にとつての一般的な前提は政治の文化性である。政策の主題ともいふべき政治に文化性がないならば、文化政策は考へられない。自己自身に文化性をもたぬ政治によつて適切な文化政策が立てられようとは思へず、仮にかやうな文化政策が立てられたにしても、孤立的抽象的であつて現実に効果を挙げ得ないであらう。政治の文化性はいはばその中において文化政策が生長し得る雰囲気或は環境である。これまでの日本の政治に文化性が乏しかつたことは屡々指摘されてきた。今日の文化政策は、大政翼賛会の岸田文化部長が種々の機会に力説してゐるやうに、政治の文化性に対する要求から始まらねばならぬ。それは単に文化のために必要なことでなく、むしろ政治そのもののために、その明朗性と魅力とのために必要なことである。政治の文化性の有無はあらゆる処に現はれる。政治が文化性を担ふことによつて、従来とかく政治に対して冷淡であつた文化人をして政治に眼を向けさせ、かくして文化政策の遂行のために彼等を協力させ得るに至るのである。大臣の演説のうちにも、官庁の達示のうちにも、宣伝ポスターの標語のうちにもそれを認めることができる。これらの場合問題は言葉に関係してゐる。新しい政治には新しい言葉がなけれはならぬ。新鮮で平易で明朗な言葉が求められてゐる。この点で新体制において考へ直さねばならぬものがあるであらう。そもそも新体制の魅力の一部が「体制
といふ言葉の新しさになかつたといへるであらうか。政治そのものが広い意味においては文化に属することを想起すべきである。哲学者があらゆる対象を自然と文化とに区分するとき、政治は疑ひもなく文化に属してゐる。もとより政治には単なる文化とは異るもの、野蛮ともいひ得る力が必要である。文化人の好みに適すると否とに拘らず、その必然性が理解されねばならぬ。我々は文化的な、余りに文化的な政治の弱さを知つてゐる。けれども文化を単に弱々しいものと考へることも同じやうに間違つてゐる。「知は力なり」といはれる如く、文化もひとつの大きな力であり、この力を利用することなしには政治は真に強力になり得ない。文化政策に熱心であることは政治が自己を強力にするために必要である。単なる力に依る政治が持続し得ないことは歴史の証明するところである。政治が文化に属することは、政治が技術であることからも理解されるであらう。政治は力であるにしても、自然的なものでなくて技術的なものである。その文化性の欠乏は政治における技術性の欠乏を意味することになるのである。
 政治が文化性を担ふためには政治家が文化についての理解をもつてゐなけれはならぬ。それと共に必要なのは、文化人がまた政治に対する理解をもつといふことである。これまで文化人は、政治家に向つて文化に対する理解を要求するばかりで、自分が政治についての理解をもたうとする努力が足りなかつたのではなからうか。政治と文化との間に相互理解が成立しなければならない。政治家が文化に関心をもつことは必要であ&が、文化政策の樹立や実行にあたつてはやはり文化人の協力を求めることが大切である。専門家を尊重することを忘れてはならない。官庁で作つた文化映画が失敗してゐる原因の一つは、吏が文化人の真似をして専門家を尊重しないためであるといはれてゐる。文化の綜合化を力説することは大切であるが、そのために専門家といふものの意義がなくなるのではなく、真の専門家の意義は今後むしろ益々重要である。文化の綜合性は真の専門家の協同によつて生ずるのである。或る科学者に文化映画について相談したら、シナリオまで書いて寄越したといふが如きは笑ふべきことである。我が国の文化の欠陥の一つは真の専門家が少いといふことであり、この「政治的」時代において危惧すべきことはそれが益々少くなりはしないかといふことである。文化人が政治に関心をもつことは大切であるが、そのために文化人としての特色を失つてしまふやうなことがあつてはならぬ。大政翼賛の趣旨は皆が政治家気取りになることではなくて、各自がそれぞれ職域において奉公することである。徒らに政治的になつて、自己の職能における個人的完成を怠るやうなことがあつてはならないのである。
 文化に対する愛があらゆる文化政策の基礎であることは言ふまでもなからう。これなくして如何なる真の文化政策もあり得ない。文化に対する愛なくして単にこれを利用しようといふが如き政策は、真の利用価値ある文化を作ることができぬ。もちろん、愛のみでなく理解が必要であり理解によつて愛も深まるのである。文化についての理解のないところに真の文化政策があり得ないことは明かである。私は今ここで文化とは何かといふ問題を論ずることはできないが、文化政策の問題を考へるに差当り必要なものとして、その一二の根本的性質を顧みなければならぬ。
 先づ文化は公のもの、公共的なものである。それは如何なる人の手によつて作られるにしても、作られるや否や、彼から離れて公共的なものになる。それは甲のものでも乙のものでもないところのいはば第三の世界に入るのである。哲学者は文化は意味とか価値とかを担ふものであると言ひ、この意味とか価値とかは超個人的なもの、或は客観的なもの、或は超越的なものであると述べてゐる。かくの如き意味とか価値とかが文化に本質的な公共性を構成するのである。次に文化は公共的なものとして人と人とを結合する。独立な人間と人間とは文化を媒介として結び附き、互に関係する。そのことは何よりも言語において明瞭に理解されるであらう。言語は国民文化の最も根本的なものである。文化は或る第三の世界に属するものとして人と人との結合を媒介するのである。人間を結合する力としての文化、言ひ換へると、社会形成力としての文化の意義が認められなけれはならない。人と人との結合は文化を媒介とすることによつて公のものとなり、そこに真の協同が成立する。文化の有するこの性質は協同性と呼ぶこともできるであらう。文化のかくの如き一般的性質は今日の文化政策において特に顧みられねばならぬ。先づ必要なことは、文化の公共性を阻害してゐる閉鎖性の克服である。当然公共的に享受さるべき文化財が個人或は一部の者によつて閉鎖されてゐる場合は尠くない。技術の公開の如きもかくの如き見地から考へることができる。すべての文化をしてその本来の公共性を発揮させることが文化政策において必要である。文化の公共性に基く真の協同が行はれるために、特に現在も我が国の文化界の到る処に存在する派閥、この封建的閉鎖性が解消されねばならぬ。あらゆる文化人に公人としての自覚を喚び起させ、彼等をその職能に従つて新たに組織することが文化政策の重要な目標である。文化の再編成とは元来かくの如きことをいふのである。協同性が欠けてゐるといふことは我が国の文化界の弱点の一つであり、そのために文化の進歩が阻まれてゐることは大きい。最も公共的であり得る筈の科学の領域においてさへ研究の協同の精神が十分でない。あらゆる封建的閉鎖性を克服して真の協同組織にまで再編成し、組織の力によつて文化の発達を促進しなければならぬ。文化政策の目的とするものは協同の喜びである。かやうにして全文化界に明朗性が現はれ、文化の公共性の土台において各人が結合し協同すると共に、彼等の業績における明朗な競争が行はれる。協同と競争とは相容れないものでなく、ただその競争の性質が従来の自由主義的のものとは異つてくるのである。文化政策が政治に明朗性を齎らし得るといふのも、文化の本質的な協同性と公共性とに依ってである。
 文化の公共性と協同性とは、すべての文化が国民のものとなるべきことを要求する。啓蒙や普及が文化政策の重要な部門であることは言ふまでもない。それは広く教育の問題に関係してゐる。文化の普及において先づ注意すべきことは、それが俗流化に陥らないことである
啓蒙と俗流化とを明確に区別し、真の啓蒙に努力しなければならぬ。文化においてはつねに質が問題であるといふことを忘れてはならない。次に考ふべきことは、単に成果を普及するに止まらないで、方法について啓蒙するといふことである。今日最も必要とされてゐるのは科学の普及であるが、その場合にも知識を単に知識として詰込むのでなく、科学の方法を掴ませることが大切である。重要なのは単なる結果でなく、結果に対する過程であり、方法であり、科学的精神である。これは従来の我が国の教育の欠陥に鑑みて特に強調されねばならぬ。更に考ふべきは生活化といふことである。科学においても科学の生活化が肝要である。科学の生活化のためには科学的知識のみでなく、技術や機械が国民の日常生活の中に持ち込まれねばならぬことは言ふまでもないが、それのみでなく科学的な物の見方、考へ方が国民生活の全領域に行き亙り、これによつて生活の科学化即ち合理化が起らなければならぬ。科学の生活化と生活の科学化とが伴はなければならぬ。かやうにして科学的文化の普及は国民生活を明朗にすることができる。科学的文化の特色は実にそれが有する合理性によつて生ずるこの明朗性である。科学の滲透するに従つてあらゆるものは明朗になる。明朗な政治、明朗な思想、明朗な生活を求めるためには、それらに科学性を与へねばならぬ。一般的な文化政策の上から特にこの点に注目することが肝要である。
 ところで科学の普及において特にその方法の啓蒙を重要視するのは、いはば国民のすべてが科学者になり、どのやうに小さなことにおいても各自が発見的或は発明的になることを欲するためである。単に科学や技術の場合についてのみでなく、あらゆる文化について、その普及は国民を単に文化の受用者にするといふことでなく、また彼等をめいめいの範囲における文化の創造者にするといふことでなければならぬ。およそ文化の本質に関する考察においては享受の立場でなく創造の立場に立つことが大切であるが、文化政策もまた同様に単なる享受の立場からでなく、創造の立場から樹立されねはならぬ。どのやうに小さなことについてであれ、すべての国民に創造の喜びをもたせることが文化政策の目差すべきことである。かやうにして「国民的天才」が掻き立てられ「国民文化」といふものが形成されるに至るのである。国民文化の形成にとつて文化の普及の必要なことは言ふまでもないが、その普及が単なる享受或は受用の立場に止まることなく、創造乃至生産の立場に立つことが大切である。もちろn、国民文化といふものも少数の優れた文化人によつて初めて顕現するものである。しかしそれら少数の選ばれた者を支へる国民大衆が存在しなければならぬ。一人の大藝術家の背後には無数の小藝術家が存在し、一人の大科学者の背後には無数の小科学者が存在する。かくして国民文化の発達は可能になるのである。かやうな仕方で文化が国民の間に行き亙ることによつて、国民文化といふものに必要な国民的基礎が与へられると共に、またまさにその国民的性格が与へられるのである。文化の国民的性格は、文化が上層に留まることなく、国民の間に深く滲透してゆくことから作られてくるのである。文化人と国民との間に存在する距離が克服されなければならない。文化人が国民の間にあつて異国人のやうに存在する状態がなくならなければならない。両者の間に通ずる言葉が生れなければならぬ。すべての文化人が公人として自覚するといふことは国民の一員として自覚することでなけれはならぬ。今日なほ文化人のうちに巣くつてゐる特権意識、この封建的残存物が克服されねばならぬ。
 次に国民文化の発達にとつて重要なのは地方文化の発達である。文化が大都市、特に東京に集中してゐるといふ我が国の現状は決して幸福なものではない。地方文化の発達を図るといふことは今日の文化政策における緊要な目標の一つである。しかるに地方文化を発達させるといふことは大都市の文化、東京の文化をただ地方に撒布するといふことであつてはならぬ。かくの如きは要するに既に言つたところの、文化の普及を単に受用の立場から考へて創造乃至生産の立場から考へないものである。それぞれの地方にそれぞれの個性のある文化の発達することが望ましいのである。文化の大都市における偏在は文化を単に消費的な性質のものにする危険をもつてゐるのであつて、生産的な文化が生れるためにはかやうな偏在が匡正されねはならぬ。文化が上から下へ、中央から地方へ浸み入ることによつて文化の国民的性格が明かに形成されてゆく。地方文化の発達を困ることにおいて文化政策は国土計画と提携しなけれはならず、文化政策はその場合むしろ国土計画の一部分である。



       三

 今日我が国の文化政策における重要な目標の一つは文化の綜合的聯関の問題である。すべての文化はその構造上相互に密接な聯関に立つてゐる。この構造的聯関がいきいきと働くことによつて各々の文化は互に強め合ひ、その発達を助け合ふのである。しかるに我が国の文化の諸部門の間にはかかる綜合的な聯関が甚だ不十分である。綜合大学と称せられる所においてさへ綜合性の実が極めて乏しい。かやうな状態の原因をなしてゐるのは残存せる封建的閉鎖性であつて、専門家的精神といふものではないのである。真の専門家は他の専門の者から刺戟され示唆されることを欲するであらうし、専門は全体の中の専門として意義があるといふことを理解してゐるであらう。この問題は単に学者の間のみのことではない。例へば画家と文藝作家との間に密接な関係があるであらうか。作家と国文学者との間にさへ殆ど全く連絡がないのである。かやうな状態は速かに改善されなければならぬ。文化政策の任務は文化人の間の横の連繋を図ることである。これによつて文化人の陥り易い独善的傾向を破ることは健全な国民文化の発達にとつて必要である。それは相互の理解を深めて無用の摩擦を防ぎ、やがて思想の統一にも役立ち得るであらう。
 文化政策が思想政策と密接に関係することは言ふまでもないが、思想政策について注意すべきことは、思想政策が単に思想政策として抽象化しないことである。従来かやうな抽象化が見られたのは、文化政策が甚だ貧困であつて、そのために思想政策は文化政策から遊離せざるを得ない状態にあつたためであらう。思想といふものは元来抽象的にあるものでなく、文化のうちに具体化されてあるものである。かくの如きものであつて初めて国民的思想といひ得る。思想政策は文化政策との関係において具体化されねばならぬ。これまた文化の綜合的聯関の問題の一つの場合である。
 しかるに文化政策の統一化にとつて障害となつてゐるものに行政機構があるといふことは、ここで一言注意しておかねばならぬ。文化政策といへば、誰もが先づ文部省を考へるであらうが、実際においては現在文部省の司つてゐる部分は比較的少いのである。文部省は主として学校行政に当つてゐるのであつて、教育においても今日特に重要な職業教育は商工省の管轄になつてゐる。理化学研究所の如きでさへ商工省の管轄下にあるといふことである。ラヂオは逓信省に属してをり、文化政策に密接な関係のある厚生部門はもとより厚生省に属してゐる。そのほか地方文化は農林省に属してゐる。かくの如き状態においては綜合的な統一的な文化政策の樹立や実行は困難であるといはねばならぬ。行政機構を改革して文化省ともいふべきものが作られることは文化政策の進展にとつて必要であらう。
 文化政策の綜合性が要求されるのは文化の計画性のためである。文化統制とは文化計画のことでなければならぬ。統制といふものは文化の自由主義的無政府状態を克服してこれに計画性を与へるための手段に過ぎないと考へることもできるであらう。計画性が完全に実現されるならば、統制はもはや統制といふものでなくなり、統制と自由とは一致するであらう。それ故に文化人にありがちな、統制に対する無用の恐怖をなくして、真の計画性の実現のために協力することが我々の任務である。統制に対してサボタージュすることでなく、それに協力して計画性の速かに実現するのを期することが真の自由を得る道である。自由とは単なる肆意、単に主観的なものではない。秩序のないところに真の自由はなく、文化政策の根柢にあるのは秩序への意志でなければならぬ。自由主義の文化の行き着くところにおいて人々は自己を超えたもの、客観的なものの権威に対する感情を喪失した。かくて生じたものは自己自身の心の無秩序である。主観主義的な自由主義はその究極するところにおいてニヒリズムに落ちて行つた。ニヒリズムは現代における広汎な現象である。それは外に見えるよりも遙かに深いものである。このものを如何にして克服するかといふことが現代文化の最も本質的な問題である。かかる現代の精神的状況に対する洞察が完全な文化政策にとつての前提である。かくてまた文化統制といふものは単に外的な問題でなく、実に一つの内的な、精神的な問題である。
 いづれにしても統制が画一主義の弊に陥らないやうに警戒しなければならない。統一や一元化は必要であるが、それは画一主義と同じではない。画一主義はむしろ我が国の文化政策がこれまで永い間陥つてゐた弊であつて、これを匡正することが却つて新しい文化政策の任務であると言ひ得るであらう。画一主義は文化を貧困にするものであり、
従つて文化政策の本来の意図に反するものである。統一は多様の統一であつて真の統一であり、真に強力になり得るのである。内容のない統一は統一でさへない。文化といふものは実に豊富なものである。その豊富さに対する理解が文化政策の前提である。文化は様々の形、種々の内容を有することによつて、あらゆる人の心に、その隅々にまで喰ひ入り、かやうにしてそれは政治と結び附く場合政治に弾力や柔軟性や余裕を与へ得るのである。画一化は文化的でないのみでなく、真に政治的であるとも言はれないであらう。一即多、多即一の弁証法が文化政策にとつても原理でなければならぬ。いま画一主義の問題に関聯して更に考ふべきことは、文化政策はそれが向ふ対象に従つて分化されねばならぬといふことである。性の別、年齢の差、教養の程度、また職域の相違、地域の別等に従つて、その手段、方法等を異にせねばならず、画一的であつては効果を挙げることはできない。かやうにして文化政策は一般的な国民組織の問題に結び付くのである。その相手を明確にしない文化政策は全く効果に乏しいものである。文化政策の対象は少数のインテリゲンチャでなく、国民である。従つてそれは、国民組織との密接な関聯において展開さるべきものである。文化政策は国民組織の線に沿うて分化されてその中に入つてゆかねばならない。
 今日我が国の文化政策が大陸における文化政策と不可分の関係に立たねばならぬことは、更めて言ふまでもないであらう。それに就いては他の機会にしばしば論じておいた。我々にとつて現在最も重要な関心になつてゐる大陸といふものが国内の文化政策の上でも生かされねばならないのである。日本の文化が大陸性を獲得するといふことは、対支文化政策といふ特殊の見地からのみでなく、世界の文化の将来の動向といふ一般的見地から考へても極めて重要なことであると思ふ。最後に私は外国文化の問題に一言触れておかう。一国の文化の発展にとつて、外国文化との接触は重要な意味をもつてゐる。日本の文化政策は徒らに排外的であつてはならず、否、徹底的に排外的であるといふことは実に不可能なことである。なぜなら、国民文化は生命的なものであり、すべての生命的なものはつねに環境のうちにおいて生きてをり、外国文化といふのは我が国民文化に対する環境の意味のものである。生命的なものは環境から働き掛けられ、逆に環境に働き掛ける、かかる交渉において生命は自己を存続し、発展させてゆく。環境から影響されることによつて自己を解体してしまへば生命はもちろん維持されない。周囲から働き掛けられつつ、逆に周囲に働き掛け、自己を失ふことなく自己を主張し得るものが生命である。国民文化はかかる生命的なものである。外国文化は単に模倣されるために存在するのではない。それはそれ自身一個の個性であり、それとの生命的な交渉が根本的な問題である。外国文化との接触は何よりも自国の文化に批判の機会を与へるのであつて、この自己批判といふものが国民文化の生命、その発展にとつて重要である。すべての生命的発展はそのうちに自己批判の契機を含んでゐる。なほ特に記しておかねばならぬのは、日本文化の発展にとつて満洲や支那における文化の発達が重要な関係をもつてゐるといふことである。
 およそ歴史的生命の法則の理解があらゆる文化政策の基礎である。国民文化の歴史的生命の根本法則としての伝承と創造との関係が文化政策において正しく生かされねばならぬことは敢て附言するを要しないであらう。