青年知識層に与ふ
             − 愛国心と民族的使命について−

           一

 今日わが日本は嘗てその歴史に見なかつたやうな重大な時期に際会してゐる。このことは他から教へられるまでもなく誰もみな知つてゐる、よし知らないにしても誰もみな感じてゐる。そして誰もみな他から求められるまでもなく国を憂へてゐるのである。その愛の深い者ほどその憂もまた深いであらう。現在、この時期において、愛国心が自己のうちに燃え上らないといふことは不可能である。仮にもし誰かが自分は愛国心を有しないといつたにしても、我々はそれを容易に信ぜず、むしろ彼を一個の偽悪家に過ぎないと看做すであらう。愛国心は愛国主義とも区別されねばならぬやうな自然の感情である。誰も愛郷心を有する如く愛国心を有してゐる。愛国心を口にする者がその感情において必ずしも深いわけではない。深い愛は却つて最もしばしば沈黙する。もちろん自分のうちにある感情はつねに自分に意識されてゐるとはいへないであらう。愛国心も特に掻き立てられねばならぬ必要のあることがある。その場合如何にしてそれを掻き立てるかが問題である。更に一層重要な問題は、各人のうちに燃え上つてゐる、乃至各人のうちから掻き立てられる愛国心が、今日如何なる形をとらねばならぬかといふことである。
 愛国心については、日本の国民はとりわけ好都合な条件を具へてゐる。わが国は歴史的にいつて、一方すぐれて民族的融合を示してきたと共に、他方その国民が自国の外に分散することなく生活してきた。このやうな事情は日本人の愛国心の強さの基礎となつてゐる。愛国心は社会学的に見ると、愛郷心と同様、共同社会(ゲマインシャフト)的感情に属するといふことができる。それは特に民族といふ共同社会に根差した感情である。共同社会といふのは自然的感情によつて結ばれたすぐれて有機的な社会であるが、愛国心はかやうな社会を結ぶ感情であり、またかやうな社会の感情的表現の一つである。愛国心はデマインシャフト的感情に属するから、社会がゲマインシャフトに対するゲゼルシャフト(利益社会或ひは集合社会)の性質を担ふに従つて、おのづから弱められてくる傾向を有してゐる。それ故に愛国心の昂揚を必要とする点から考へても、今日の社会からその利益社会的諸害悪を除くことが要求されてゐる。ゲゼルシャフトは近代資本主義社会によつて代表される。従つて資本主義の諸弊害を是正することが国民の愛国心を掻き立てる上にも必要であり、愛国心はこの点に向つて発動しなけれはならぬ。尤も、社会のゲゼルシャフト化は歴史の必然に属したのであつて、これによつて社会は封建的なものから近代化されるに至つたのである。今日ただ単にゲマインシャフト的なものを強調することは封建主義に逆転することであり、単なる非合理主義に転落することである。来たるべき社会は近代的ゲゼルシャフトを自己のうちに止揚した新しいゲマインシャフト、真の共同社会でなけれはならない。社会のゲゼルシャフト化は何よりも合理的文化を発展させたといふ功績を有してゐる。かくして愛国心も今日においては単に非合理的な感情に止まることができないであらう。愛国心もまた合理的なものにならなければならない。もちろん愛国心は元来民族といふ共同社会に深く根差した自然の感情である。抽象的な合理主義の詭弁によつてこれを抑止するといふのでなく、この感情に合理性を与へ、これを合理的方向に導くことが必要なのである。そのことは特にインテリゲンチャと呼ばれる者にとつてさうでなければならぬ。
 今日国民の愛国心の発揚が必要であることは言ふまでもないであらう。このとき同時に要求されてゐるのは、すべての国民の愛国心の完全な発揮が可能になるやうな社会的条件を調(ととの)へることである。そのために先づ必要であるのは、既に述べた如く、純真な愛国心の昂揚を妨げ得るやうな今日の社会における利益社会的諸弊害を除くことであり、社会を新しい共同社会に向つて改革することである。ただ徒らに愛国心を説いても空虚である。大切なことは愛国心が革新の熱情と結び附くことである。愛国心は、その根源が共同社会的なものであるやうに、協同主義の原理に立つ社会革新の意欲となつて現はれなければならぬ。愛国心が元来ゲマインシャフ的感情であるところから陥り易い封建主義の反動性に対して警戒し、近代的ゲゼルシャフトの長所を自己のうちに反省し自己のうちに活かした協同主義の精神に覚醒することが必愛である。現在すべての運動は愛国運動でなければならぬとすれば、かくの如き協同主義違動こそ真の愛国運動である。愛国心はその本質において新しい共同社会への思慕でなけれはならない。次に考ふべきことは、今日もし何人かにおいて愛国心がなほ燃え上つてゐないとすれば、それは時局の重大性に対する認識の不足に基いてゐる。今日の現実を深く認識すればするほど、国を憂へる心はいよいよ高まらざるを得ないであらう。ただ徒らに愛国心を叫んでも愛国心は掻き立てられるものではない、今日の現実について正しい認識を与へることが国民の愛国心を掻き立てる所以である。認識によつて消滅するやうな感情は浅薄な感情に過ぎないであらう、真の愛は認識と共に却つてますます深くなるのである。現実を蔽ひ隠すことによつて愛国心を掻き立てようとする者は自己の愛国心が未だ真に深くないことを示してゐるものといばねばならぬ。現実についての正しい認識の上に立つことによつて愛国心はその価値を発揮することができる。認識を回避するやうな愛でなくて認識の根源となるやうな愛、認識によつて消滅するやうな愛でなくて認識と共に強化されるやうな愛、それが真の祖国に対する愛でなければならない。眠れる愛国心を呼び覚ますために日本の現実についての認識が必要であり、また燃え上る愛国心を正しい方向に導くためにもその認識が要求されてゐる。愛と認識との統一は認識を単にいはゆる認識にとどめないであらう。認識はその場合単なる現実の認識からイデー(理念もしくは理想)の認識となる。そして愛国心もまたそのときイデーを含むものとなるのである。今日青年インテリゲンチャに向つて愛国心を説教する者は多い。しかし私は青年インテリゲンチャ諸君に愛国心が欠けてゐるとは信じないのである。むしろ私は諸君に対していはうと思ふ、 ― 諸君は諸君のうちなる祖国愛の感情を湧き上がらせるために先づ日本の現実を深く認識することに努力すべきである、それがインテリゲンチャの名に値することである、そして諸君は現実の認識の中からイデーの認識を得て来なけれはならない、それが特にこの時代における青年インテリゲンチャに求められてゐることである。しからばイデーとは如何なるものをいふのであらうか。


       二

 現代の国民主義の思想家は国民或ひは民族を神話と見てゐる。国民的神話には、ロベルト・ミヘルスがいふやうに、「何処から」の神話と「何処へ」の神話、言ひ換へると、起原の神話と使命の神話とがあるであらう(ミヘルス著『愛国心』一九二九年)。しかしながら「何処から」の神話即ち国民的起源の神話と、「何処へ」の神話即ち国民的使命の神話とは、歴史的意識の本質に従つて、一つに結び附き、前者はつねに後者に影響され、後者を反映し、また前者は後者の立場から絶えず新たに解釈されるのである。かやうにして今日わが日本の「肇國の精神」といはれるとき、それは単に日本民族の過去における起原に関するものでなく、むしろその未来における使命に関するものである。歴史的意識における過去に対する未来の優位に従つて、起原の神話に対する使命の神話の優位が存在してゐる。もちろん歴史的時間における未来は遠い彼方をいふのでなく却つて現在のうちに喰ひ入つてゐる未来であり、この現在において未来はまた過去と結び附くのである。使命の神話は現在の行動の神話にほかならない。愛国心は、愛郷心と同じやうに、これを分析すれば、極めて種々の要素を含んでゐるであらう。しかし愛国心はその本質において何よりも自己の民族の使命に対する自覚でなけれはならぬ。国民的使命の自覚によつて、もと自然の感情であつて道徳的には無記であるところの愛国心は、道徳的価値を担ふものとなるのである。実際、すべての真の愛国者のうちに働いてゐるのは自己の民族の使命に対する自覚である。国民的使命に対する自覚として愛国心は統一され且つ強化されることができる。何故にこの使命の意識は神話と呼ばれねばならないのか、何故にそれはイデー ― 歴史的イデーと考へられてはならないのか。使命の観念は目的の観念を含む、それは一つの民族のうちに形成され、その民族が負はされてゐると信ぜられる歴史的課題の観念であり、従つてイデーと呼ばれ得るものである。自己の使命の自覚を有することによつて民族はイデー的統一となるのである。へーゲルは民族の概念にはそのうちに活動する必然的なイデーの存在が前提されると考へた。使命の神話は単なる神話に止まることなくイデーに高まらなけれはならない。ただこの場合イデーの意味を正しく理解することが必要なのである。
 第一に、使命の思想はつねに特定の主体と結び附いてゐる。使命を有するものは自己を「選ばれたるもの」と考へるのが普通である、それ故にもしイデーが単に普遍的なものを意味するとすれば、使命はイデーでなく神話であるといはれるであらう。しかし他方いかなる使命も単に特殊的なものとしてでなく却つて普遍的なものとして主張され、まさにかかるものとしての使命が考へられるのである。特定の主体はその使命を負ひ、その使命を実現することによつて普遍的意義を有すると信ぜられてゐる。かやうにして一つの民族の使命は、その民族に固有のものであつて同時に普遍性を具へてゐるもの、即ち特殊性と普遍性との統一である。歴史的イデーといふのはかくの如きものでなければならない。第二に、使命の思想は特定の主体に結び附いてゐるやうにつねに実践的なものである。それは単に知的な表象でなく、感情的・運動的な要素を含んでゐる。それは社会学者のいはゆる集合表象として形作られるのである。それだからもしイデーがただ客観的なもの、単に概念的なものを意味するとすれは、使命はイデーでなく神話であるといはれるであらう。使命は客観的な理論のことでなく、むしろ主体的な希求を現はすものである。祖国に対する愛 ― 愛の働きは希求である ― なしに祖国の使命の意識は生れず、使命の意識はむしろその愛の表現である。しかしながらこの主体的な希求が同時に客観的な意義を有すると信ぜられるところに使命のイデー的性質が存在し、歴史的イデーといふのはかくの如く主観的なものと客観的なものとの統一である。第三に、使命とは何時か何者かによつて実現されることを無関心に待つてゐるやうなもの、それを現実に負ひそれを実現すべき主体の存在とは無関係に考へられるやうな哲学者のいはゆる理想、規範、義務の如きものではない。使命のあるところつねにそのために特定の主体が召されてをり、現在の行動が促されてゐる。もしイデーが単に永遠なものを意味するとすれは、使命は却つて「選ばれた」瞬間に関するものであり、その限りイデーでなく神話であるといはれるであらう。しかしながらこの選ばれた時間におけるものが同時に永遠の意義を有すると信ぜられるところに使命のイデー的性質が見られ、そして歴史的イデーとはかくの如く瞬間的にして同時に永続的なものをいふのである。要するに使命は運命であり、運命がイデー化されたものである。
 愛国心はまさに民族的使命の自覚として単に特殊的に止まらない普遍的意義を得ることができる。ただ固有のものであつて普遍性を有しないものは使命の名に値せず、使命として自覚されることもないであらう。かくして愛国的であることと世界的であることとは一致し得ないことでなく、国民的であることと人類的であることとは相容れないことではない。むしろ民族的エゴイズムや偏狭なショーヴィニズムこそ却つて民族の使命の思想と一致し難いものである。シュリイ・ブリュードムはそのフランス的立場を次のやうに歌つてゐる、「私は私の祖国にそれを溢れ超えるこころを捧げる、私は私がフランス的であるのを感ずれば感ずるほど愈々多く私が人類的であるのを感ずる。」そしてアルフレット・ドーヴェはそのドイツ的立場をまた次の言葉で現はしてゐる、「近代的人間の心臓は全世界のために搏つことができるし、また搏たねはならぬ、だが彼の腕は依然としてただ民族と祖国のために打たねばならぬ。すべては人類のために、しかしすべては国民によつて!」と。世界主義は根差しなき人間の無感情を意味する場合がある、けれどもそれはまた屡々最も高い道徳を生ずることができるのである。愛国的であることと人類的であることが単純に排斥し合ふかのやうに考へるのは形式論理に過ぎず、かくの如き形式論理によつてはおよそ如何なる歴史的なものも理解することが不可能である。あらゆる歴史的なものは特殊的であつて同時に普遍的である。それだからまたそれぞれの国民の歴史における最も輝かしい文化の時代は国民的に分離的でなくて結合的であり、綜合的であり、従つて国際的であつた。イギリスにおけるエリザベス時代がさうであつたし、フランスにおけるルイ十四世時代がさうであつた。またドイツの最大の詩人ゲーテは、自分はシェークスピアとスピノザとに最も多く負うてゐる、とエッケルマンとの対話の中で語つてゐる。我々は手近にわが国における明治時代の文化について同様にい言ふことができる。

 しかるに民族的使命の自覚は民族に対する愛なくしては起り得ないであらう。使命の思想は単に客観的な認識であるのではない。祖国に対する深い愛がその使命の認識の根柢になければならぬ。愛は希求であり、憧憬である。そして祖国愛といはれるものは普通に回顧的(リトロスペクティヴ)な希求であり、過去に対する憧憬である。愛国心が伝統主義や保守主義の形をとつて現はれ易い傾向があるのもそのためである。しかしながら希求は本来単に回顧的でなく、真に行動的な希求は却つて展望的(プロスペクティヴ)であり、或ひはむしろ希求は愛として過去と未来とを結び附ける現在的な媒介者である。起原の神話が回顧的希求を現はすとすれは、使命の神話は展望的希求を現はし、それらは希求そのものにおいて相互に煤介されるのである。起原の神話と使命の神話とが結び附き得るやうに、祖国に対する愛と人類に対する愛とは結び附き得るものであり、およそ人類に対する愛なくして民族が何等かの使命を感ずるといふことは不可能である。愛国心はヒューマニズムと相容れないものでなく、むしろヒューマニズムの根柢において初めて愛国心は民族の使命の自覚となつて現はれ得るのである。そしてともすれは回顧的憧憬に陥り易い愛国心を現在の現実に連れ戻し使命の自覚に促すためには知性が働かねはならぬ。
 使命の神話そのものもまた、単に神話に止まらないで論理化され、知識化されることを希求してゐる。なぜなら使命の神話は本来人類に対するもの、世界に対するものである故に、その使命を弘布し実現するために、その神話は他の民族にも理解され、世界的に承認され得るものとなることが必要であるから。今日、日本民族の「世界的使命」について語られるやうになつたのも偶然ではないであらう。すべて戦争は一定の仕方において国と国とを分離させると共に、他方一定の仕方において国と国とを結合させるものである。それに応じて戦争は民族に固有の使命を自覚させる機会となると共に、その使命が同時に世界的なものであるべきことを自覚させる機会となるのである。今日わが民族の使命は東亜における諸民族にとつて理解され得るものとなることを要求されてゐる。一民族の内部においては神話的なもので足りるにしても、他の民族の間に弘布され彼等の信従し得るものとなるためには、神話的なものは合理化され組織化されることが必要である。これはキリスト教神学の発達の歴史において最も明瞭に認められるところであつて、キリスト教はその宣布と神学的合理化のために異教徒のであつたギリシア人の哲学を利用したのであり、また利用しなければならなかつたのである。わが民族の使命はもと神話的なものであるにしても、今日世界的な言葉で語られることが必要になつてゐる。
 嘗て世界大戦の当時、世界の諸国はそれぞれ自己の使命が世界的意義を有することを宣明するに努めた。一九一四年ドイツ人は世界の救ひのために「ドイツ的秩序」(レオポルト・チーグレル)を齎すといふ使命の実現を意識しつつ、熱情をもつて戦場に出たといはれてゐる。かやうにそれぞれの民族が自己の使命を世界的なものとして宣伝するといふところから考へても、戦争の世界的意義が知られると共に真に世界的意義を有する使命は単なる神話に止まることなく、その客観性が世界史そのものの客観的認識に基いて明かにされねはならぬことが知られるであらう。日本民族の使命といつても抽象的に語らるべきものでなく、世界史の現在の段階に相応して具体的に把握さるべきものである。そしてすでに日本民族の世界史的使命といふ以上、日本は単に日本の日本としてでなく、世界における日本として把握されねばならず、従つてわが民族の使命の現実的把握とその歴史的実現とのために、我々は最も世界を知らなけれはならないのである。世界を認識せよといふことは世界主義に加担せよといふことと単純に同一でなく、むしろそれはわが民族の使命の自覚の立場において最も重要なことである。世界の現実についての正確な認識を拒絶する者は、愛国心を独善的なショーヴィニズムに陥らせるものであり、これを使命の自覚の立場におかないものといはなければならぬ。もとより歴史において如何なる世界的意義を有するものもつねに一定の民族の活動を通じて実現される、民族の媒介なしに世界的なものが直接に実現されると考へることは抽象的であらう。しかるに他方において、民族的なものが世界的なもの、人類的なものになるためには、個人の媒介が必要であることを歴史は示してゐる。個人が盲目的に民族のうちに埋没してゐる限り、その文化は世界的意義を有するものとなり得ず、民族のうちにおける個人の自覚、その自律的な活動を通じて民族的文化は世界的意義を有するものとなり得るのである。かやうにしてまた民族的使命の自覚といはゆる民族主義の立場とが同じでないことは明かであらう。民族的使命の自覚は先づ自己の民族に対する自覚として、従つていははリトロスベクティヴ(回顧的)な希求として、民族主義的なところを有しなけれはならないが、その使命として自覚されるものにおいては必ずしもいはゆる民族主義の主張と同じであり得ないのである。


        三

 さてここに私が愛国心について述べたのは、今日、青年インテリゲンチャにとつてモラルの問題が特に重要であると考へたからである。愛国心は諸君のモラルの基礎でなけれはならない、だが愛国心は何よりもわが民族の使命の自覚となつて現はれなけれはならない、もとよりまた祖国に対する愛なくしてはこの使命の自覚も生じ得ないのである。もし諸君のうち誰かにおいてなほ愛国心が燃え上つてゐないとすれば、それは時局の重大性について認識を深めることによつて
き立てられなければならない。愛は認識によつて深められ、認識は愛によつて高められることが大切である。とりわけインテリゲンチャはその名に値するやうに祖国に対する愛情を認識によつて裏打ちしなければならない。それが民族的使命の自覚に必要なことは既に述べた通りである。
 聞くところに依ると、この事変下において驚くべく多量の書物が消化されてゐるといふ。これはまことに喜ぶべきことであるやうに見える。しかし私は問ひたい ― それらの書物はいつたい如何に読まれてゐるであらうか、と。インテリゲンチャは知識を有しなければならず、多くの知識を集めなけれはならないことは言ふまでもないであらう。けれどもインテリゲンチャとは単に多くの知識を有する者のことでなく、却つてインテリジェンス(知性)を有する者のことである。知性といふのは方法であり、また良き判断力である。読書においても良き判断力をもつて本が選ばれ、そして読まれなけれはならず、読書も方法的でなけれはならぬ。ただ多くのことを散漫に知つてゐるだけでは役に立たず、却つて有害でさへあり得る。現象に追随することなく、自己の本質的な意欲に従つて自主的に読書されることが望ましいのである。知識は方法的に求められることによつて組織化され体系化されて理論に統一されねはならぬ。インテリゲンチャとは単に多くの知識を有する者のことでなく、理論によつて武装された者のことである。この時代はつねに明るいとはいひ難いであらう、諸君の感情は時に暗くならざるを得ないであらう。このとき我々を引立たせ、我々に光を与へるものは知性であり、我々が頼り得るものは理論的意識である。
 しかしながら認識の根柢にはモラルがなければならぬ。今日の青年インテリゲンチャに求められてゐることは、我々の民族の世界史的使命の自覚から出番して、この使命に合理的基礎を与へ、この使命の実現が可能になるやうな手段の体系を見出すために、方法的な理論的な研究に従事するといふことである。わが民族の世界史的使命の自覚はモラルに属してゐる。しかるに知的探求においてもその根柢にはモラルがあるといふことは、今日殆ど全く忘れれられてしまつてゐる。認識の根柢にはモラルがあり、一定のモラルを有する人間のみが一定の認識に達し得るといふこと ― これは極めて古いそして今日再び新たに理解し直されねはならぬ一つの根本的な命題である。学問を我々の使命に結び附けるといふことは学問を単に有用性に従属させることではない。わが民族の使命は世界史的意義を有するものとして単なる有用性を超えたものでなけれはならない筈である。ところで認識の根柢にもモラルがあるといふことは、認識するものが純粋な思惟の如きものでなく具体的な「人間」であるといふこと、従つて科学や哲学において「科学者」や「哲学者」が問題であり、彼等の人間としての在り方が問題であるといふことを意味してゐる。かやうな見方はヒューマニズムの精神に通ずるものである。そこからしてまた、インテリゲンチャにとつて必要なのはインテリゲンチャとしての自覚であると共に人間としての自覚であるといふことが従つてくる。知識人はその理智のために感情の重要性を忘るべきではない。ただ、その感情を知性によつて正しく指導し形成してゆくことが要求されてゐるのである。
 かくて正しい意味における英雄主義や浪漫主義が今日の青年インテリゲンチャに求められてゐる。祖国と人類とに対する愛と犠牲の精神が求められてゐる。この時代は転換期とも、革新の時代とも、新秩序創造の時代とも呼ばれてゐる。これらの言葉はいづれもこの時代の浪漫的性格を語るものである。青年知識層は青年にふさはしい時代の浪漫的性格を認識し、溢るる熱情をもつてこの時代と一つに活きなければならぬ。自己が時代と一つのものであるといふ確信を獲得するに至るまで深く時代の中に入つてゆかなければならない。時代は理性と共に熱情を要求してゐる。理性の哲学者へ−ゲルでさへその歴史哲学の中でいつてゐるやうに、如何なる大いなることも熱情なしには成就され得ないであらう。けれども熱情が永続的に働き、正しい方向に働くためには、理性が加はらなければならない。否、自己のうちの熱情を掻き立てるためにも認識は必要である。革新の時代といはれ新秩序創造の時代といはれる現代の歴史そのものの浪漫的性格を深く認識することによつて自分の熱情が掻き立てられねはならないのである。
 更に、認識の根柢にモラルのあることが今日新たに理解し直さればならぬやうに、知識と道徳との統一についての古典的な思想が今日また新たな立場から理解し直されることが必要である。人間の行為は歴史的行為であることを考へるとき、行為はすべて制作の意味を有してゐる。あらゆる行為は制作であり、経済的物貨の生産に関はらない場合においても、社会の制度や精神的文化を、更にまた人間を、自己の人間竝びに他の者の人間を形成するであらう。ところで制作は技術を必要とし、技術は知識を前提してゐる。人間のすべての行為が本質的に技術的であることを理解するならば、知識が道徳にとつて欠くことのできぬものであることが理解されるであらう。知識を除いて現実の歴史的行為の道徳は考へられない。しかるに技術は科学を前提するにしても科学とは異る構造のものである。科学の求めるものが「法則」であるのに対して、技術の求めるものは「形」である。技術的に作られるものはすべて形を有してゐる。法則が一般的なものであるのに反して、技術的な形は一般的なものと特殊的なものとの統一である。また科学が客観的なものであるのに反して、技術において求められるのは人間の主観的な意欲或ひは目的と客観的な自然の法則との統一である。技術的に作り出される形は主観的なものと客観的なものとの統一としての形である。そして今日特に要求されてゐるのはかやうな形の思考、形の構想である。近代文化が科学に定位をとつて法則の思想に支配されてゐたのに対し、新しい文化は技術に定位をとつて形の思想に導かれねばならぬともいひ得るであらう。もとより技術にとつて科学は前提であり、技術は科学に媒介されることによつて成立する。形の哲学は科学を軽蔑するどころか大いに尊重するのである。しかし技術的な形は単に客観的なものでなく、主観的なものと客観的なものとの統一である。我々の歴史的行為はすべて技術的であるといふことは、それが形を作るものであるといふことであり、この形は社会的歴史的現実についての科学的な認識に我々の主体的な意欲乃至目的が加はることによつて、両者の統一として、我々の実践を通じて作り出されるものである。歴史的イデーといふものもかやうな形として考へられるのである。例へば今日東亜の新秩序といはれるものは一つの歴史的イデーであり、形である。これを作り出すためには歴史の現実について科学的な研究の遂げられる必要があることは言ふまでもない。しかしそれだけでなく、この客観的な認識に我々の意欲乃至目的が加はり、その統一として作り出されるものが東亜の新秩序といふ形である。歴史を単に客観主義の立場から、従つてまた単にいはゆる科学主義の立場から考へようとすることは間違つてゐる。歴史は人間がそのうちにゐて働き、人間が作るものである。そして歴史とは形の変化である。しかるに形が出来てくるためには人間の意欲が加はらねばならず、そこに歴史におけるモラルの問題が存在してゐる。もし我々の意欲が不純なものであり、またそれが客観的な法則と全く相反するものであるならは、形は完全に作られることができず、却つて我々の意欲は粉砕されねばならぬであらう。東亜の新秩序の建設を目差す日本民族はその意図において飽くまで道徳的でなけれはならない。今日必要なのは「創造的知性」であつて「批評的知性」ではないといはれてゐる。創造的知性とは如何なるものであらうか、 ― 新しい形を構想し得るものである。これに反して単に批評的な知性はたとひ科学的であり理論的であるにしても、形を、新しい形を構想し得ないものである。創造的知性は単に客観的な能力でなく、感情や意欲と深く結び附いたものであり、或ひは知的要素と感情的要素との統一としての構想力でなけれはならない。この革新の時代において求められてゐるのは、革新が単なる破壊でなく同時に建設でなければならぬ限り、このやうに新しい形を構想し得る能力である、単に理論に止まることなく、理論から新しい形を作り出す発明的な能力である。