政治の貧困

 

 本来からいへば、私など、政治について論じなくても好いのだし、また論じたくもないのである。それは私の素質にも気質にも適したことであるとはいへない。その私どもに政治について論ぜざるを得ない衝動を起させるほど政治の貧困が感じられる。
 時評といふものも、それがどんな種類のものであらうと、実は、私はあまり書きたくないのである。私には他にもつと適した仕事がある筈だ。時評を書くことは一切やめてしまはう、と幾度考へることか。
 しかるに社会の現実に解れると、これで好いのか、これで好いのか、と思はざるを得ず、またしても筆をとらねばならぬ気になるのである。そしてそのあらゆる場合において政治の貧困といふことに突き当る。
 だから私の批評の出発点はいつも常識なのである。私は嘗て専門の評論家にならうと考へたことがない。私は単に一社会人として、一国民として、一インテリゲンチャとして、常識の立場から物を云つてゐるつもりである。かやうな常識が意義を有するほど今日の日本は政治的に貧困であるのであらうか。
 貧困はもちろん政治にのみ関してゐない。文化にしても決して貧困が感ぜられなくはないであらう。この方面においてもなほ常識の意義があるのである。私は常識に止まることが好いと考へてゐるのでなく、できるなら常識以上のところで物が云ひたいと思つてゐる。
 しかしどんな問題でも、いろいろ議論をした末、結局イロハに還つて来るといふのが実際の状態なのではなからうか。
 現代の特徴として政治の優位と云ふことがいはれてゐる。あらゆるものが政治に従属することを要求されてゐる。政治の優位は今日の現実の中から生れた一つの現実である。この現実は好むと好まざるとに拘らず存在するのであつて、問題は、この現実を回避することなく、却つてこれを発展させることである。政治の優位が真の優位であるためには、政治に指導性がなければならない。しかるに政治の貧困といふのはその指導性の欠如にほかならない。
 かやうにして一方では政治の優位が現実であり、他方では政治の貧困が現実である。この現実の喰ひ違ひがすべての政治的焦躁の原因である。
 政治の優位があつても政治の貧困が現実でないならば、今日の如き焦繰はないであらう。また政治の貧困があつても政治の優位が現実でないならば、今日の如き焦燥はないであらう。二つの現実の交錯のうちに今日の政治的焦躁の特徴的な性格がある。
 ともかく政治の優位は現代の現実である。してみれば、政治の貧困を救ふことがこの現実に対する唯一の方法であり、そのことによつてのみ政治の優位に伴ふ種々の弊害も初めて除き得るのであつて、この弊害の除去は政治の優位を抽象的に否定することによつては却つて不可能であるといはねばならぬ。
 政治の貧困をなくするためには、先づその原因を知ることが必要である。その原因を明かにするためには、今日の政治の現実を批評することが必要である。批評の仕事が縮小されることは、政治の優位を示すことであつても、政治の貧困を救ふことにはならない。批評の機能は今日においても縮小さるべきではない。しかるに現在ともすれば新秩序とか創造とかといふ名において批評の機能が抑止される傾向が見られるのである。新秩序といひ創造といつても空無から出てくるのでなく現実の中から出てくるものであるとすれば、現実に対する批評は新秩序の創造のために欠くことのできぬものでなければならぬ。
 批評といへば、ただ他から批評されることのやうに考へて、好まない者が多い。特に人の上に立つてゐる者においてさうである。しかし批評は根本において自己批評でなければならぬ。自分で自分を批評してゆくのを怠らないことが何よりも大切である。官僚独善などの独善といふことも自己批評が足りないところから生ずるのである。
 もちろん自分で自分を批評するといふだけでは不十分であつて、自分の気付かないこと、自分で考へ及ばないことも多い。そこで他の批評がなければならぬ。
 けれども自分で自分を批評する意志のない者は他の批評に耳を傾けることがなく、従つて自己批評があらゆる有意義な批評の前提である批評家の無力といふことがよく云はれるのであるが、それは単に批評家の無力にのみ依るのでなく、政治家や官僚に自己批評的なところが足りないことにも依るのである。政治の貧困はそのやうにして生じた批評の貧困に基くことが尠くないであらう。
 今日の最も重要なことは、国民の意識を昂揚し、国民の力を完全に発揮させることである。最も恐しいのは国民のサボタージュである。それは消極的なものであるだけ恐しいのである。その気分の少しでも起ることがないやうにし、反対に国民の力を積極的に働かせるためには、政治が真の指導性をもたねばならず、そしてそのためには政治において輿論を重んずることが大切である。
 輿論を尊重することは自由主義である、しかるに自由主義は誤つてゐる、故に輿論などを顧慮する必要はない。かういふ単純な論理が今日実際に案外広く行はれてゐるのではないであらうか臥例へば−すべての理論は抽象的である、しかるに今日最も重要なのは具体的な政策である、故に理論などは問題でない。また例へば ― あらゆる理想は非現実的である、しかるに今日の問題は現実である、故にすべての理想は排斥されねばならぬ。等々。
 かやうな単純な考へ方が行はれてゐる限り、政治の貧困は実にどうにもならないことである。そこで常識から、輿論と指導性の関係についての、理論と政策の関係についての、理想と現実の関係についてのイロハ的説明から始めねばならなくなつてくる。
 そしてたいていの者がそのやうな説明から始める元気をなくして、黙つてゐるのほかないと考へるやうになるのである。いつも方法論のイロハから説明せねばならないのでは、うんざりしてしまふ。
 国民の緊張が足りないといふことが相変らずいはれてゐる。そして国民を緊張させるのには日本が一度空襲でも受けて戦争を身近に感じさせなければ駄目だといつたやうな意見をよく聞くのである。しかしそんなことで国民を緊張させることができると考へるのは、政治をいろいろ間違つた方向へ導くことになる。そのやうな焦躁が実は最も恐しいのである。
 国民を緊張させるには空襲は必要でない、もつと事実を知らせることが必要なのである。
 事実をありの儘に知れば誰も戦争を身近かに感じるやうになるに違ひない。しかし単に事実を
知らせるだけでなく、政策を具体的に知らせなければならない。政策のほんとの在り場が分らな
いやうでは、真の協力は期待されない。
 国民を緊張させるには国民に希望を与へることが大切であり、それには内政上の改革を行つてゆくことが最も必要である。東亜の新秩序といつても、一般国民には何か遠いことのやうに考へられるのは已むを得ないことであるから、それを身近かに感じさせるためには国内改革が行はれなければならぬ。国内改革が着々進んでゆくことが国民に希望を与へて国民を緊張させるに最も肝要なことである。
 今日の日本にとつて外交が重要な問題であることは云ふまでもない。それは支那事変の処理に極めて大きな関係を有してゐる。ただしかしそのために内政の改革を忘れたり怠つたりするやうなことがあつてはならない。殊に事変の処理が長期建設といふ性質を有する以上、一国民をひつぱつてゆくには国内改革の実行が何よりも必要である。東亜の新秩序は先づ日本において具体化されなければならない。しかるに果して内政の改革は着々と進捗してゐるのであるか。
 例へば、あのやうに久しい問題の官更制度の改革はどうなつてゐるのか。或ひはまた、あのやうに急を要する問題の物価対策はどうなつてゐるのか。内政の改革は国民精神総動員の成功にとつて前提であるといひ得る重要性を有してゐる。
 国民精神総動員の運動は瑣末主義に陥つてゐるとの非難が絶えない。もちろん我々は、小さなこと、形式的なことを決して軽んじるものでない。学生の断髪、パーマネントの粛正など、我々は敢て反対するものでない。要求されてゐるのは、問題の根本を忘れないことである。全国民「一日戦死」の気持で生活する筈であつた事変記念日に東京近郊の温泉場が却つて繁昌したといふのは何故であるか。消費節約があれほど喧しく云はれてゐるにも拘らず、デパートの売上が却つて増加してゐるのは何故であるか。かやうな事実は決して国民全般に関することでなく、むしろ主として軍需工業関係者に関することである。
 精神動員を最も必要とするのは彼等であるが、しかしそれは単に精神の問題でなく、むしろ根本においては経済的関係の問題である。この根本問題の解決にまで進むのでなければ精神動員は完全であることができぬ。
 国民の一部に甚だしい景気偏在がある限り、国民精神総動員の完璧を期することはできない。それのみか、今後かやうな状態が発展してゆけば、それが国民思想悪化の原因とさへなる危険が存するのである。
 小さなことはどうでも好いと云ふのではない。瑣末なことのために重大なことを忘れないやうにすること、単に現象のみを迫つてその原因を除くことを忘れないやうにすることが大切なのである。現象の後ばかり追つてゐるやうな統制は真の統制でなく、現象の先廻りをするところに政治の計画性がある。統制は組織的体系的でなければその真の意義を発揮することができぬ。しかるに統制を組織的計画的に行ふにはその基礎として思想が必要である。種々の現象をその原因から矯正するには理論がなければならぬ。かやうにして政治の貧困は思想の貧困から生ずるのである。
 現在問題の統制といふことを考へてみても、今日の思想が単なる非合理主義、直観主義、神秘主義であり得ないことは明かである。
 必要なのは、組織された思想、体系化された思想である。「思想」は日本独自の日本主義であつて、統制の原理は外国の全体主義の模倣に過ぎないといふやうなことであつてはならぬ。
 政治の貧困は、一方では神秘的な高所の思想を振りまはし、他方ではしかし瑣末なことをのみ喧しく云ひ、いはばその中間に位置する思想が存在しないことから生じてゐる。現実を処理し得る思想の在り場所がはつきり認識されねばならぬ。現実的な思想は神秘的な高所にあるのでもなく、瑣末な事実のうちにあるのでもなく、いはばその中間にあるのであつて、かやうな思想が今日なほ明瞭でないのである。国民精神総動員に思想がないといはれるのも、かやうな場所にあるべき思想の欠陥を意味して冬る。「どうにかなるだらう」といつたやうな安易なことでは最早やどうすることもできぬ。この無思想を克服して現実的な思想を確立することが必要である。
 最近次第に気付かれるやうになつてきたと思はれるのは理論蔑視の傾向である。支那事変は理論から始つたといふよりも、むしろ行動が理論に先んじたのである。そこで事変の初期においては事変の意義を閘明するあらゆる理論が歓迎された。しかるに事変が現在の段階まで発展してきたとき、理論蔑視の傾向が生じつつあるやうに見えるのは如何なる理由に依るであらうか。
 理論蔑視の傾向と共に現はれてきたのは或る現実主義である。現実主義はそれ自身一つの理論、一つの思想であることができる。しかし今の場合はさうでないやうに思はれる。
 現実を口にするといふことは、無思想、無確信の表明であり、或ひは事大主義の、或ひは現状維持の別名であることもできる。今の場合現実主義はかやうに理解されて好いのであらうか。
 机上の空論の排斥さるべきことは云ふまでもない。しかし理論がおよそ理論として有する一般性、抽象性の意味を理解しないで、机上の空論の名のもとにあらゆる理論を否定するやうなことがあつてはならぬ。理論は広く且つ遠く見渡すところから抽象的と見られる性質を具へてゐる。それは空論性ではなく、かやうな見通しとして理論は実践に必要なのである。しかるに単に一局部の現実を基礎にする意見は、一見甚だ現実的であるにしても、その現実が立つてゐる広い且つ遠い聯関を無視する故に、一個の机上の空論である。極めて現実的に見える議論が実はしばしば机上の空論に過ぎないことに注意しなければならぬ。
 従来支那事変に関して理想が力説されてきたのに、この頃になつて理想論が次第に影をひそめつつあるやうに思はれるのは如何なる理由に依るのであらうか。理想は机上の客論に過ぎぬ場合がある。しかしまた理想は現実を発展的に見ることによつて捉へられるものであり、現実を発展的に見る限り理想を含まぬ現実はないとも云ひ得るであらう。
 政治における理論も理想も今日決して不要になつたのでなく、却つてその必要は増してきてゐるのである。理論の抛棄、理想の否定は確信の喪失を現はし、敗北主義の一種であることができる。現実主義のうちに知らず識らず敗北主義が忍び込むことのないやうに今日特に警戒を要するのである。
 知識人は理論の担当者であり、理想の擁護着でなければならぬ。知識人は時局に対する協力を表明して来た。それは全く正しいことであつたのである。
 しかしこれ迄知識人の時局に対する協力といふものは、時の政治家に対する協力、個々の権力者に対する協力に止まることが多く、そのことが却つて知識人同士の協力を阻害してゐた場合が尠くなかつた。必要なのは知識人同士の協力である。
 知識人同士が協同して時局の真に要求する理論を発展させ、理想を昂揚することに努力することが大切である。国策に協力するといつても、彼等同士の間では個人主義が支配し、互に他を排斥するといふやうなことは社会的地盤を欠いた知識人の無力を示すものにほかならない。政治にあいて理論抛棄、理想否定の傾向が現はれて来る場合、かやうなインテリゲンチャの利己主義が激しくなる傾向があることに注意しなければならぬ。
 現実が困難になればなるほど理論が重要になつてくる。そのとき理論否定の現実主義が生ずることは危険である。現実主義はあらゆる種類の非合理主義になることができる。現実が困難になるに従つて政治が非理論的になるとすれば、それは政治の貧困といふに止まらない危険性を胚胎してくることになる。政治に思想は要らないといつたやうな思想の危険性について考へてみなければならぬ。あらゆる思想に比して無思想は一層危険である。