正義感について
道徳の頽廃はいつの時にも恐しいのであるが、とりわけ戦時においては恐しい。道徳的頽廃は内部から来るものであつて、単に外的な力、取締、強制、弾圧等ではどうにもできないものである故に、それだけ一層恐しいのである。
その頽廃のうちでも特に恐しいのは自覚されない頽廃である。即ち道徳感が衰弱し或ひは喪失して、現に明白な頽廃の事実が存在するにも拘らず、それを覚らないでゐたり、或ひはその重大性に気附かないでゐるといふのは、最も恐しいことである。
道徳感は良心といふものであるが、二重の現はれ方をする。それは一方自己自身において現はれると共に、他方社会に対して現はれる。前の場合は誠実といふものであり、後の場合は正義感といはれるものである。自己自身において良心的であり、誠実であるだけでは足りない。道徳の現状を顧みて特にその必要が感じられるのは、社会的良心としての正義感の昂揚である。
世の中にどんな不正が行はれてゐようとも、自分だけ清くしてをれは宜いといつた態度がある。良心的と称する者の多くがこのやうな態度をとつてゐるのが、今日の状態ではなからうか。彼等は世間の不正や不義に対して努めて耳を塞ぎ、目を蔽ひ、自分自身に閉ぢ籠らうとする。勢ひ彼等は逃避的或ひは韜晦的になり、自己満足に止まるのである。自分では良心的なつもりでゐるこのやうな人々の態度に対して、正義感は憤りを感じ、それはほんとに良心的ではないと考へるのである。そこに正義感の特質が現はれる。即ち正義感は個人的良心でなくて社会的良心である。この正義感が、ともかく良心的な人々をそのやうに逃避的或ひは韜晦的にしてゐる社会の不正や不義に対して、更に一層大きな憤りを感じることはいふまでもないであらう。
正義感は韜晦することを知らない。それが本来社会的である所以である。言葉においてか、行動においてか、正義感は必ず外に現はれるのである。正義感は単なる内面性に止まるものではない。たとひそれが自分の不利になり、身の破滅を招きさへすることがわかつてゐるやうな場合でも、正義感は自己に隠れることが出来ないのである。正義感は決して功利的ではない。世の中に多くの不正が存在するにも拘らず、良心的と称する者が沈黙し逃避するのは、その良心がなほ打算的で、保身術をのみ考へてゐるためではなからうか。そしてそのために世の中に不義がいよいよはびこることに対して正義感は憤るのである。
正義感は自分を隠さないやうに、他が自分を隠すことを許さないであらう。時世に便乗してひそかに私利をはかるといふが如きは、もとより正義感の見逃し難いことである。自分の考へてゐること、感じてゐること、信じてゐることを隠して、徒らに追随的或ひは迎合的であるのは、真に国を思ふ所以ではない。そのとき正義感は各人が良心的で、真実を披瀝することによつて国家のために尽すべきことを要求するのである。かくて社会的良心はまた個人的良心を離れて存在することができぬ。自己自身において良心的でなくて他に向つて正義振るといふことは、真の正義感の許さないところである。
東亜新秩序の建設は国際正義の実現にほかならない。この崇高な任務を果すべき国民において正義感の昂揚は最も大切である。正義感は先づ怒り或ひは憤りとなつて現はれるであらう。正義感には何のたくらみもない、それは直接に怒りとなつて発する。正義感のこのやうな性質は、それが功利的なものでないことを示してゐる。功利的な立場から考へると、怒ることほど損なことはない。功利的な人間は、いふこと、なすことに何かたくらみがあつて、直接的でないのがつねである。
今日我々は何かこのやうな怒りの乏しいことを感じないであらうか。もちろん、どのやうな怒りでもが正しいのではない。けれども怒りの欠けてゐることは、しばしば、正義感の衰弱を意味するのである。たとへば、現在なほ闇取引は跡を絶たない。しかも、仲間が闇取引を行つてゐることを知りながら、これを怒る者が余りに少いのではなからうか。その一人が摘発されて罰金を課せられるやうなことがあつても、彼は「一寸怪我をしまして」といつて平然としてをり、仲間の者もこれを憤ることが稀である。この怒りの欠乏は正義感の衰弱を意味してゐるであらう。
尤も、怒りは情念のうち特に直接的なものであつて反省的なところを持たない故に、理由のない怒りも多いであらう。道徳において反省が大切であることはいふまでもない。しかしながら反省は、しばしは、人間を功利的にする。功利的な立場から怒らないのは、正義感の衰弱或ひは欠乏によるものである。正義感に発する怒りは憎みと区別されねばならぬ。正義感は怒るけれども、憎むことはない。憎みは多くの場合怒りのやうに直接的でなく、却つて術策的である。憎みは正義感のやうに直接的に外に現はれることなく、たいてい内心に隠され、隠されることによつて術策的になる。
正義感がつねに外に現はれるのは、公の場所を求めるためである。正義感は何よりも公憤である。そしてそれは、その憤りが公の立場におけるものであることを意味するのみでなく、同時にそれが内心に止まらないで公に表現されることを意味してゐる。正義感はすべての事柄が公明正大であることを要求する。それは闇取引とか賄賂とかに対して憤るのみでなく、阿訣、追随、嫉妬、陰謀等すべて公明正大ならぬものを敵とするのである。
しかし、どのやうな道徳も単に感情的でなく、理性的でなければならぬとすれば、正義感においても正義とは何かについての認識が必要である。その認識に欠けてゐる場合、正義感の現はれは場所違ひになり、従つて正義でないことになる。今日しばしば見られる瑣末主義の正義振りの如きはその例である。もちろん、極めて小さなことに至るまで正しく行為されるといふのは望ましいことである。しかし小さなことに拘泥して大きなことを忘れ、個人の私生活にまで干渉しながら国家の重大問題については深く考へるところがないといふが如きは、正義感の許さないことである。正義感は物事の大小と軽重、重要性の程度或ひは比例に対する正しい感覚である。易きについて難きを避け、弱き者をいぢめて権力者には媚びるといふが如きことは、正義感に反するのである。
正義の徳は、社会の徳であると共に個人の徳である。それは個人の徳から社会の徳への推移点にあるといふこともできるであらう。従つて正義感は個人と社会との接触面においても最も強く現はれる。もし個人が社会のうちに全く埋没してしまふならば、正義感はなくなつてしまふ。そこに現在の全体主義的風潮において正義感の失はれる危険がある。正義感は人格的意識として没人格的な無責任に対して憤る。全体主義の美名のもとに、何か全体といふものに責任を名はせることで安心して附和雷同的な言動の行はれることがないやうに、正義感の昂揚が必要である。もとより正義は単に個人の徳でなく、社会の徳である。即ちそれは一人の個人において実現されるものでなく、全体のうちにおいて初めて実現されるものである。正義感が自分自身に止まらないで社会に向つて叫ぶといふのも、元来正義は全体のうちにおいて実現される徳であることを示すのでなければならぬ。正義感が極めて厳格であつて、一人の不正者をも許さないといふのも、正義のこのやうな本質に基づいてゐる。
正義は社会の諸関係のうちにある。単に自分を清くするだけでは足りない。自分を清くするといふことは、社会の諸関係のうちに正義が実現されるために先づ必要な条件として要求されるのである。他に対して要求することを先づみづから実行しないといふことは正義に反する。正義は社会のうちにおける正しい関係、正しい比例、正しい一致或ひは調和を意味してゐる。それは全体の中で各々の部分が占むべき位置を占め、尽すべき任務を尽すところに生ずる。その全体の関係が正義なのである。かやうに正義は全体のうちにおいて実現されるものである故に、全体の立場が正義感の基礎でなければならない。正義は全体の立場から規制的に働く道徳的理念である。それは元来個人主義的なものでなく、協同体の道徳的表現である。各自が自己の責任を分担しつつ国民が全体として協同することによつて正義は実現される。
正義は協同の原理である。殊に戦時における国民的団結にとつては正義が重要である。戦争によつて一人の成金の生ずることも許されない。時局に便乗して自分の立身出世をはかるが如きことは許されない。寡きを憂へず斉しからざるを憂ふといふ正義感が戦時生活の基礎でなけれはならず、これによつて国民的協同は可能になるのである。戦時においてはとかく正義が毀れ易いものである故に、それだけすべての国民において正義感の昂揚が必要である。戦時における道徳の頽廃は何よりも正義感の衰弱から生じる。戦時の要請はすべての人にともかく外面だけでも整へるやうにさせるであらう。
従つて戦時における道徳的頽廃は外部にはなかなか現はれないで、内部に生じるものである故に、それだけ一層危険なのである。外からは何等無秩序に見えないところに隠されてゐる内的無秩序に対して正義感は敏感に憤る。個人と社会との接触点において正義感が強く働くことによつて、全体のために個人が無価値にされることなく、個人のために全体が破壊されることのない真の協同が可能になるのである。
ところで正義は全体のうちにおいて実現されるものである故に、その実現は国家の力に俟たねばならぬ。正義の政治なしには正義の徳は実現されることができない。正義の政治はあらゆる方面における正義の前提である。それ故に正義感は何よりも正義の政治を要求するのである。政治における正義を顧みないで、ただ個人の道徳をのみ問題にするといふことに対してはむしろ正義感は反撥を感じるであらう。
正義の戦争を行ひつつある国家は国民の正義感の昂揚を要求してゐる筈である。内において正義によつて結合した国民であつて外に対して正義の戦争を行ひ得るのである。