論壇時評 1935.12.6,7

 政府は國體明徴問題の善後策として教学刷新評議会を作つた。之がどのやうな仕事をするのか、まだ判然としないが、この評議会に委員を送ることを拒絶した政友会では、来議会でも國體明徴問題を捉へて政府弾劾をやる肚であるらしい。國體明徴問題がかくの如く政治問題となつけゐるやうに、所謂教学刷新も単に國體明徴に関係したことでなく、一般的な思想問題として甚だ重要な意義をもつてゐる。
 森戸辰男氏の『教学刷新と大学の自由』(中央公論)は、この問題を研究の自由の見地から批判した熱情溢るる論文である。森戸氏の云はれる如く、近年における大学の自由の弾圧は、実践運動から学問研究へ、マルクス主義から自由主義へと、次々に移行し、深刻化した。かくて顛落の過程を辿ることを余儀なくされた大学は、森戸氏の言葉によれば、今や単なる「職業学校」となり、また「修業道場」と化したのである。それでは大学は現在奪はれた自由を快復し未だ残された自由を防衛するために立上ることができるか。森戸氏はその希望を述べてゐられるが、それが実現されるであらうとはあまり信ぜられてゐないやうである。私もまたそれに対して多くの期待をもち得ないことを遺憾に思ふ。
 そこで森戸氏は、大学における研究の自由の縮減が特定の社会情勢の反映である以上、大学の自由は根本的には社会において獲られねばならず、従つて大学の構成員は社会人としてこの重責を負はねばならぬと述べられてゐる。これは全く重要な見解である。然るにそのことは同時に、今日においては大学顛落の問題も、もはや別に取立てて論ぜねばならぬほど特殊の重要性を有する問題でなく、むしろ一般的な思想問題、社会間題の一つに過ぎぬことを示すものである。それは確に取上げられねばならぬだけの意義をもつてゐる。けれども森戸氏が左翼の大学顛落論…今日大学を特別に問題にしてゐるのは左翼でなくて右翼である…に反対されることによつて、この問題が何か格別に重要なことであるかの如き感を読者に抱かせるとすれば、それは正しくない。第一に現在では、社会の文化的水準が高まることによつて大学の社会的文化的位置が変つてゐる。大学がその本質であるべき研究の自由を失つてゐるとすれば尚更である。学生は大学以外において多くのものを学ぶことができ、また学ばなければならぬ。学問が大学のうちにのみあつたのは昔のことである。研究の自由が奪はれ、且つ「教授の階級性」(森戸氏)に基いて彼等の学問にも制限があるとすれば、新らしい社会の指導力となり得る思想は今後却つて大学以外から生れて来るやうに思はれるのである。また我が国の歴史を見ても、官学から好い学問が出たことはむしろ稀であつて、立派な学者、優れた思想家は多く民間にゐた。かかることから考へても大学顛落論は現代の思想問題、社会問題として何等特殊の重要性を幻想せしめるものではあり得ない。
 大学ばかりでなく社会においても言論の自由は縮減されてゐるのである。そのことは現在の北支問題について見ても明瞭である。この問題は今月の論壇の最も重要な問題であつて、各誌ともこれを特輯としてゐる。『中央公論』では五人、『改造』では二人、『日本評論』ではまた五人がこの問題について執筆してゐるといふ風である。かくの如く各誌とも力を入れてゐるに拘らず、我々が最も知りたい点については殆ど何等突込んだ説明も批判も聴くことができない。エチオピア問題の場合には少くとももう少し自由な意見を聴くことができた。現に今月の『改造』の山川均氏の「ムッソリニは倒るるか?」にしても、遙かに自由で批判的である。
 『日本評論』には「文芸の地位」についての特輯があり、菊池寛、近松秋江、杉山平助、武者小路実篤の諸氏が執筆されてをり、別にロマン・ローランの一文の翻訳を掲載してゐる。各人各様の性格、物の見方が現はれてゐて面白い。ただ問題が『文藝懇話会』あたりのことから出た故か、ロマン・ローランを除き、諸氏がたいてい、文学者の社会的地位といふものを常識的に政治家や官吏などの権力や位階等と同じやうに見てゐる。もしそのやうなものだとすれば、「賢者とは動章を嘲笑するもののことではなく、内心で嗤ひながら勲章を侃用することの出来る人間のことを云ふ」といふ杉山氏の意見も面白いであらう。諸家の云はれるが如く文学者が政治家や官吏から保護を受けるといふことは強ひて避くべきことではないにしても、「いかなる時代が来ても為政者にとつて文学者の存在はさうありがたいものではないのだ。時にありがたい文学者もあるかも知れないが、それは偶然で、又すぐはなれる」(武者小路氏)といふのが特に現在の社会情勢では当然であるとすれば、今日為政者の保護を期待し得るのは、如何なる種類の文学者であらうか。
 しかし文学者、一般に精神的文化に従事する者にはもつと本質的な意味における社会的地位、即ち大衆とのつながりにおいて決定される社会的地位といふものがある。この点においてロマン・ローランの見解は流石に立派で、本質的なものを捉へてゐる。先づ形式的に考へても、明治以来文学者の社会的地位はともかく向上してゐるのであつて、これは大衆の文学に対する理解の向上のおかげである。現に松本学氏と菊池寛氏との社会的地位はどちらが上であらうか。だから「文学そのものがよくなると同時に今の為政者、政治家の中に文学の分る人が出なければいけないと思ふ」といふ菊池寛氏の意見は、大衆に文学の正しい理解を普及し得る為政者、よい文学が生れる社会を作り得るやうな政治家が出なければならぬといふ意味でなければならない。ロマン・ローランの言葉によれば「真の藝術を享楽すべき民族の創造」が重要であり、また「大衆に理解されるべき藝術の創造」が重要である。「社会の形勢に追随する」ことによつてでなく、真に大衆性を有する作品を作ることによつてのみ、文学者の社会的地位は向上し且つこの地位を歴史において永く保持し得るのである。