浪漫主義の擡頭  9.11.8〜11 都新聞

 さきほどから文壇の一角において浪漫主義の叫びがあげられてゐる。林房雄氏、亀井勝一郎氏などの名が先づそれに関聯して考へられるであらう。このやうな叫びは今度やや具体的な文学運動の形式を取らうとしてゐる。『コギト』十一月既にはそれの宣言とも見られ得る『日本浪漫派』の広告文が掲げられた。この宣言の署名人、近く発刊されるといふこの新雑誌の同志には、亀井氏を初め、保田與重郎、中島榮次郎、中谷孝雄、神保光太郎、緒方隆士の諸氏がある。あの同人雑誌『現実』の一部が『日本浪漫派』に変るわけであらう。我々はかかる題名変化のうちに最近の文壇の動きの一徴候を認めることができる。従来全く圧倒的であつたリアリズムに対して、ともかくもロマンチシズムを名乗る者が現れて来たのである。
 林氏や亀井氏などには左翼的傾向の人の中でも元来性格的に浪漫的なところがある。またコギトの基調は、唯それがこれまで公然と主張されなかつたといふだけで、もともと浪漫主義であつた。時には文壇の風潮に押されて保田氏その他がリアリズムを唱へたことがあるにしても、その理論の実質はいつも浪漫主義を多く出なかつたのである。 へルダーリン、ノヴァリス、シュレーゲル、シェリング、等、ドイツの浪漫主義者の紹介と研究とはこの雑誌の特色をなし、その功績に属すると見られてよい。然しながらこの系統の浪漫主義と、亀井氏などにおいての如くプロレタリア文学の系統から来た浪漫主義とは、それほど無雑作に結び付き得るかどうか、既に一つの問題であらう。
 右の日本浪漫派の宣言によると、この運動は今日瀰漫せる「平俗低調の文学」に対する挑戦である。それは市民的根性に対する「藝術人の根性」の擁護である。また曰ふ、「日本浪漫派は今日の最も真摯な文学人の手段である。不満と矛盾の標識である。」更に曰く、「日本浪漫派は、今日僕らの『時代の青春』の歌である。僕ら専ら青春の歌の高き調べ以外を拒み、昨日の習俗を案ぜず、明日の真諦をめざして滞らぬ。わが時代の青春!この浪漫的なるものの今日の充満を心情において捉へ得るものの友情である。藝術人の天賦を真に意識し、現在反抗を強られし者の集ひである。日本浪漫派はここに自体が一つのアイロニーである。」と。これらの文章のうちに言ひ表されてゐるのは、一、俗人根性に対する藝術的天才性の高揚、二、散文的精神に対する詩的精神の強調、三、浪漫的アイロニーの主張、等々である。然るにかくの如き提唱は実は就中かのドイツ浪漫主義の藝術論殆どそのままの繰返しであつて、遺憾ながら新味に乏しいと云はねばならぬ。それにしても、このやうな提唱にも今日の文学の状況において何か新しい意義が認められるであらうか。
 この頃の文壇における一つの顕著な現象として指摘され得ることは、とりわけ若い世代の批評家たちの間に見られる主観主義的傾向である。客観的な基礎付けや論理的な聯関には無頓着に、ただ自己の「心情」を主観的に語ることが彼等に喜ばれる。この人々の文章が難解であるといふのも、彼等が意識的に或は無意識的にアイロニーを好むからにほかならない。アイロニーは諷刺やユーモアとしはしば混同されてゐるが、夫らは性質的に違つたものであつて、互に明瞭に区別されねばならぬ。先づこのアイロニーの本質を究めることが、浪漫主義の意義を明かにするために必要である。主観性とアイロニーと浪漫主義とは密接につながつてゐる。若い世代の思考のうちにアイロニーが顕著であるところから見れば、今日浪漫的傾向は、理論の上ではともかく、精神的態度の上では存外広く行き亙つてゐるとも云はれ得る。
 諷刺の基礎にはリアリスチックな、客観的な、社会的な見方がある。このことは、少し以前文壇においてリアリズムの気運が全盛であつた丁度その時分に、諷刺文学の問題がたびたび議論されたことからも知られるであらう。然るにアイロニーは主観性の規定である。キェルケゴール、此性格的には浪漫主義者でありながら浪漫主義克服の為に苦闘した詩人的思想家の言葉によれば、「アイロニーは主観性の最初の、最も抽象的な規定である」。そのことは、あのソアラテスのアイロニーによつて有名なソクラテスにおいて、主観主義の立場が初めて人類思想のうちに現れたといふことが示してゐる。近代哲学においてカントに始まる主観主義は放胆なフィヒテを俟つて完成され、そしてフィヒテの後、彼の影響のもとに、シュレーゲル、ティークなど浪漫主義の文藝家は、アイロニーを一つの立場にまで高めた。かかる歴史的聯開から見ても、アイロニーが主観性の規定であることは明瞭である。
 いまキュルケゴールは種々なる意味で現代人の意識の一標識となつてゐるが、彼がアイロニーの概念について書いた文章は、最近我国に現れた浪漫主義の心理を理解する上にも役立ち得るであらう。彼はその中で云ふ、アイロニーは否定性である、なぜならそれは唯否定するのみであるから。それは無限である、なぜならそれは此のもしくは彼の現象を否定するのでないから。それは絶対的である、なぜならアイロニーがその力において否定するものは実は存在しないところの、より高いものであるから。アイロニーは無を建てる、なぜなら建てらるべきものは、その背後にあるのであるから。またアイロニーにおいて主観は消極的に自由である、なぜなら主観に内容を与ふべき現実はそこにないのであるから。主観は与へられた現実がそのうちに主観を縛る束縛から自由である、主観は消極的に自由であつて、かかるものとして浮動的である。このやうな自由、このやうな浮動が人々に或る感激を与へる、なぜなら彼等はいはは無限の可能性に酔つてゐるのであるから。キュルケゴールがアイロニーを説明したこれらの言葉は、今日の日本の青年浪漫主義者の心理をかなり適切に説明してゐないであらうか。
 この人々は現状に対する反抗者である。このことは誰も尊敬をもつて認めなければならぬ。彼等のアイロニーはそこから生れる。然しながらその反抗は具体的な、限定された現実に対するものではなく、寧ろ無限定な反抗であるといふことがその特徴である。それは無限なる否定である、なぜならそれは無限定であるから。現実は狭隘卑小なものとして感ぜられるが、如何なる原因に限定されてさうであるのかは客観的に考察されることなく、それ故に現実と云つても無限定なものに過ぎない。彼らの戦ひは一定の戦線といふものをもたぬ。然しフロントをもたない戦ひは戦ひと云はれ得るであらうか。そしてこの人々はただ彼等の主観性をもつて戦ふ。そこでは「良心」といふ、この最も主観的なものが問題にされる。良心といつても客観的原理としては無内容であり、従つてこの人々は「夢」について、また「憧憬」について語る。「我が時代の青春の歌」とは「無限の可能性」に対する陶酔にほかならないであらう。無限定な現資に対せしめられるのは無限の可能性といふ主観的なものである。
 我々の時代は混沌として行方を知らぬやうに見える。其方向を客観的に指示すると称した諸主義、諸原理も信頼するに足らぬかの如くである。しかも現実の状態は我々の反抗せざるを得ないものである。そこから浪漫的アイロニーが出て来る。然し彼等の夢や憧憬が真に詩的で明朗であるかどうか、問題である。
 代表的な浪漫主義、十九世紀のドイツの浪漫主義は、詩的浪漫主義、憂愁の浪漫主義、悲劇的浪漫主義といふ三つの様相もしくは段階を有すると云はれてゐる。詩的浪漫主義者は自己の主観性に逃れ、何等かの部分的想像から宇宙を築き上げる。憂愁の浪漫主義者は自己の主観性に引寵り、一切のもののうちにおける異郷性を痛ましく体験する。悲劇的浪漫主義者は実存に向つて努力する、彼は詩的浪漫主義者の逃避と憂愁の浪漫主義者の受動性とに対して戦ふ。言ひ換れは、彼は彼の浪漫主義を否定し、彼の浪漫的運命を克服しようとするのであるが、それが成功するものでない限り、彼は悲劇的浪漫主義者たらしめられる。ストリンドベリイも、ニイチェも、ドストイエフスキーも、キュルケゴールも、このやうな悲劇的浪漫主義者の一面を有したと云はれよう。
 ところで今日我国の浪漫主義的現象を観察するとき、これら三つの様相は種々なる程度で新しい形態を取つてゐる。ここではもちろんこの国の一般的精神的状況に相応していろいろ混淆してゐる。然しコギトの人々の浪漫主義はどちらかと云へば詩的乃至憂愁の浪漫主義であり、そして此頃の若い世代の思考におけるアイロニーといふものに大きな影響を与へたと思はれる小林秀雄氏などは、その浪漫性の方面からすれば、悲劇的浪漫主義に近いとも見られなくはなからう。更に新しい傾向としてプロレタリア文学から出た浪漫主義は新しい詩的浪漫主義とも云ふべく、殊に亀井氏の場合の如くマルクス主義の社会的階級的見地から離れるとき、それはやや純粋な詩的浪漫主義となるであらう。
 かの「文藝復興」の声によつて藝術の解放が求められた。それによつて準備されたのは藝術家の主観性の解放である。ところが皮肉にも、或は意味深くも、かかる文藝復興の声と共にリアリズムの主張が圧倒的な勢力を占めることになつた。文藝復興といふ語がそれ自体或浪漫的なものを現し、それまで支配的であつたところの、プロレタリア文学の正統的と称せられる純粋な客観主義の主張に対して、主観性の解放を意味するとしたならば、その場合リアリズムは決して単なる客観主義のことではあり得なかつた筈である。それにも拘らず、リアリズムといふ標語に圧迫されてこれまで主観性は十分に主張されず、また尊重され得なかつた。リアリズムの散文的精神によつて「詩的精神」は抑圧され、その写実的精神によつて藝術の「創造性」の理解は制限され、藝術の主導的能力が美挙第一課の教へる如く感情乃至「想像力」であることが蔽ひ隠され、このやうにして作品は低調なものになつて行くやうに感ぜられるところがあつた。かくて今文藝復興の声によつてその解放を準備された主観性が一つの立場にまで高められて浪漫主義の提唱となつたといふことにも理由がなくはなからう。
 浪漫主義はかくの如き反動として今日或意味、また或必要をすらもつてゐる。然しその意味は消極的に過ぎぬのでないか。浪漫主義は現状に反抗する、そこにその積極性があると云ふかも知れない。けれども反抗さるべき現実の客観的認識が見乗られる限り、反抗はアイロニーとして主観性の内部に留まるのほかない。悲惨なる現実の中にあつてなほ夢み、憧憬しようとする心情の美しさを誰も疑ひはしないであらう。然し問題は、この夢の内容、この憧憬の方向が如何なるものであるかといふことである。それが現実の発展の方向と一致しない場合、浪漫主義は悲劇的浪浸主義とならざるを得ない。また一致する場合、浪漫主義は単なる浪漫主義でなくなつてしまふであらう。そこで我々はもう少し、新しい詩的浪漫主義と時代との聯関を考へてみよう。
 今の時代が転換期であるとすれば、この時代はそれ自身において或浪漫的な性格を具へてゐる筈である。私は嘗てネオヒューマニズムの問題と文学について論じ(『文藝』創刊号)、次の如く書いたことがある。「現代はまことに多くのミュトスを包臓してゐる時代であり、そこに、あらゆるリアリズムの提唱にも拘らず、現代のロマンチシズム的性格がある。このことは如何なるリアリズムの唱道者も見逃してはならないことである。」ここで云つたミュトスは浪漫主義者の欲するやうに「夢」といふ語によつて置き換られてもよい。ただミュトスは個人的な夢のことでなく、本来社会的なものであり、社会的ミュトスとして我々にとつて重要性をもつてゐる。然るに浪漫主義者は藝術的天才性を強調することによつて、その主張のうちには藝術至上主義の傾向が甚だ濃厚であり、夢とか理想とかもそのやうな立場において詩的個人的なものと考へられてゐるに過ぎないのではないかと疑はれる。
 亀井氏は云つてゐる、「ロマンチシズムを妄想であり、観念の遊戯であると見倣す俗見は既に打破られてゐる。それは深く現実に徹しようとする者の情熱の方向であり、現実のなかにただ現実を見るのではなく、その可能性と未来性とを見る、いはばリアリストなるが故にこその夢である。」(『文藝』九月号)。然し現実をその可能性と未来性とにおいて見るといふのは現実を発展的に見ることにほかならず、そしてそれこそマルクス主義の唯物弁証法においてなされてゐることではないか、と反対されるであらう。寧ろ自己の夢を、現実との聯関において規定することなく、もしくは現実との聯関において規定することが不可能であると考へるところに浪漫主義があるのではないか。周囲の現実は夢を許すやうなものでなくて、夢を全くたたき毀すやうなものである、けれど我々の主観はなほ夢みることを欲する、この主観の憧憬に詩的場所を与へるために現実から主観のうちへ逃れようといふのが浪漫主義ではないであらうか。
 ミュトスといふものは決して単に客観的にのみ限定し得ぬものである。その限りにおいて浪漫主義が客観的現実主義に反対することは正しい。またそれが人間性のうちに含まれる憧憬、エロスを尊重しようとするヒューマニスチックな気持乃至態度も我々の同感できることである。エロス、人間のパトスのこの根源的なもののうちから生れるミュトスを単なる妄想と見倣すことには我々も反対する。然しながらミュトスは限定され、形成されねばならぬ。そしてそのためには新しい倫理の確立されることが何よりも必要である。ところが浪漫主義者はその浪漫的美的態度ないし藝術至上主義の自然の結果としてこのやうな倫理の問題を度外視することになる。なるほどこの人々は「良心」と云ふ。けれども良心とは「心情」のことであり、この人々の良心が無限であるのは、この人々の「夢」が無限であるのと同じやうに、それが無限定であるがためにほかならない。倫理の問題を単なる客観主義の立場から見ることは誤つてゐるとしても、社会的現実との聯閥を断念した良心は結局アイロニーの範囲に留まるであらう。
 それにしても、最近の浪漫主義の根柢にもヒューマニズム的要求が新たに動いてゐるのではなからうか。私は浪漫的アイロニーが新しい倫理によつて支配されて行動的になることが必要であると思ふ。ともかく、この頃或は「行動的ヒューマニズム」と云ひ、或は「意志的リベラリズム」と云ひ、ネオヒューマニズムの問題がかなり力強く現れて来たことは注目すべきことであり、興味深き事実であると云はねはならぬ。ネオヒューマニズムの原則の徹底的な論究が今要求されてゐる。