大学改革の理念


 教育の改革は今日の課題である。その中において特に高等教育の改革は重要な意義を有してゐ
る。なぜなら改革の理念はここにおいて最も明瞭に現はれるものである。低度の学校においては、
その教育の理念は教師には知られてゐるにしても生徒には知られてゐないのが普通であるに反し
て、高等の学校においては、それは畢に教師のみでなく畢生によつても自費され得る筈であり、
また自費されねはならないのである。自分の学ぶ学校の教育の理念を自分でも自覚してゐる学生
にして眞に畢生の名に催するのである。
 教育制度の改革は何等孤立した間超でない。それは今日の杜曾における仝憶の改革の問題につ
ながつてをり、或ひは寧ろこの牡曾における改革の一般的な必要が教育制度の改革をも要求して
ゐるのである。とりわけ高等教育機関に就いては、杜曾における諸々の改革において指導的地位
大挙改革の理念
二二五

                                             二二六

に立つべき人間を養成すべき機関として、その改革が問題になるであらう。かやうにして今日に
                                                                         ll_
おける教育改革の問題は、畢に個々の制度の部分々々の改革に関するのでなく、根本において教
育の理念そのものに関してゐる。近代牡曾の原理である自由主義の行詰りが一般に感ぜられてゐ
る、それに柏應して従来の教育に封する新しい理念が求められてゐる。今日における教育改革の
問題は、畢なる制度の問題でなくて一つの世界観的な問題であり、制度上の改革も一定の世界観
的な基礎を必要としてゐるのである。
 そのことは例へはドイツにおける教育改革論において明瞭に認めることができる。高等教育機
ム関の改革即ちあのHon訂nFuT押乳○【mはそこでも久しい間の問題であつた。そしてナチスに至
つて現はれたのは、アドルフ・ラインのいはゆる「政治的大挙の理念」であるハAdo−f印鑑ロ,
望のld籍dの【匂○−it訂cFのロ亡已≦川【Sit仙芦−器▲ご。ラインに依ると、各々の時代には、その時代
の意味に相應して、その時代のタイブを表現する一定の大学のタイブが存在する。即ち十四世紀
から十七世紀まで、「神学的大挙」のタイブが存在した。次に十入世紀及び十九世紀において現
はれたのは、「哲学的・人文主義的大挙」のタイブである。しかるに今や廿世紀において形成さ
るべきものは、ラインに依ると、「政治的大学」である。そのことは軍に、政治の為に特珠な専
門の学校を設立するのが肝要であるといふが如きことを意味するのではない。政治は現代の運命
である、「政治一般はドイツの運命である」とラインは云つてゐる。一時代の問題を畢に特殊な
専門の学校或ひは特殊な教課 − 「政治講座」、「政治教育週間」、等 − によつて解決しょうと
することは全く不十分である。本来の意味における政治は、信仰或ひは宗教と同しやうに、何等
専門ではないのである。政治は特殊的な専門に止まるべきものでなく、却つてu已≦川【SitPS即
ち仝憶とか綜合とかを意味する大学(亡已詔邑t賢)の規定的な原理でなければならぬ。同様の
思想はまた例へはハンス・フライエルによつて述べられてゐる(H旨SF蒜笥【.ロa∽PO−itiscF仲
Sのm認t男Eiロ<orscEP杓−N亡【亡已完Sit賢等軋○【m−−欝∽.)。フライエルに依ると、大学の攣
化は人間泣に彼の教養の理念の欒化を含んでゐる。従つて大挙の改革は新たに現はれた人間遊に
彼の教養の理念に造を開くことであり、この理念によつて導き入れられるものである。そしてヘ
ルデルからフンボルトに至る人文主義的教育の理想に代つて今日現はれたのは、自己の民族のう
ちに根差し、自己の囲家の歴史的運命に、責任ある者として結び付けられてゐることを自覚して
ゐる「政治的人間」の教育の理念である。あらゆる眞の教育理念がさうであるやうに、この政治
的教育の理念は、理論的に案出されたとか哲学的に演繹されたとか教育学的に薔見されたとかい
大挙改革の理念
二二七

                                             二二八

ふものではない、それは現賓の必要から、運命の打撃に封する男らしい答として生れたものであ
る、とフライエルは云つてゐる。かくの如き、教育の政治主義的理念は、今日のいはゆる仝燈主
義囲において廣く主張されてゐるところである。そこに見られるのは即ち政治の優位の思想であ
▲る0

 尤も、政治といふものを極めて一般的に理解するならば、どのやうな時代における教育の理念
も、政治的に規定されてゐないものはないと云ひ得るであらう。自由主義の大挙において政治の
‥普遍的な支配が存在しないといふことも、自由主義の政治思想そのものから従つてくることにほ
かならないのである。自由主義の教育も決して政治を重祀しなかつたのでないことはイ軒リスや
フランスにおいて明かに見られるところであつて、ただドイツにおいてはその自由主義の特殊な
敏速或ひは未蓉達の事情に相應して、文化主義的な人文主義的教育の理念が現はれたのである。
・文化主義は特殊的にドイツ的なものであつた。この文化主義が批判に出合はねはならなかつたの
は嘗然であつたと云へるであらう。その教育理念は、既に十九世紀の後半において、ニーチェが
『我々の教育機関の清爽に就いて』(Zi仲tNSn訂−亡仲b巧diのNuk亡已t亡ロS巧巧望−d亡口的SPロ・
箆已tのロ、−∞ご−qN●)を書いた頃、ドイツにおいても最早や根砥のないものとなりつつあつた。人
ヒE」転軒■
文主義の乃至自由主義の教育理念は批判されねばならぬとしても、しかしそこから政治主義の教
育理念が主張されることは正常であらうか。政治的大挙の理念は、「文化」の代りに「政治Lを、
「ワァイマール」の代りに「ポッツタム」を置かうとするものではなく、「文化」を「政治」の方
面から把握することを学び、かくして文化に聯関と形態とを輿へようとするものである、と云は
れてゐる。それは文化に封する政治の優位を説く政治主義である。どのような時代の教育理念も、
臨に述べた如く、政治的に規定されてゐるのは事賓であるとしても、そのこととかやうな政治主
義とは同じでない。自由主義の政治思想は却つて文化に自由を輿へ、その自律を認めるところに
あると考へられるから。従つてそのやうな政治主義はただ一定の政治思想、つまり仝膿主義の政
治思想に立つて初めて主張されることである。この仝慣主義の世界観が果して安富であるか否か
が問題である。
 敢曾における自由主義の行詰りは従来の自由主義的な大挙の行詰りとなつて現はれてゐる.大
挙とは元来 亡已≦川rSit琵 即ち仝債或ひは綜合を意味してゐる。ドイツの古典的な人文主義的大
単において「哲撃Lが主要な位置を占めたのもそのためである。哲学は特殊科挙に封して仝憶の
拳と見られた。しかるに自由主義の行詰りと共に大挙の統一的な理念は失はれて、大学は現在
大挙改革の理念
ニ二九

「専門化された諸科挙の曹貨店」の如きものとなつてしまつてゐる。
二三〇
形は綜合大挙であつても、
各科の間には何等の本質的な聯閲も統一も存しない。政治的大挙の主張が、かくの如き現状にあ
る大挙に封して統一的な精神と形態とを輿へょうとするものである限り、それは正しいと云はね
ば鬼らぬ。次に自由主義の行詰りと共に大学における学問の研究がまた非現貨的なものになつた
といふことも事賛である。学問の専門化といふことは現貴からの辞離に封する辟護に過ぎず、学
問の自由といふことも現資の回避の為めの口資に過ぎないやうになつた。大挙の拳闘は非現賓的
となり、紅曾に封して指導性を有するどころか、牡曾とは没交渉であり、囲家に封して無責任な
ものとなつた。かくの如き傾向から大挙を再び現貨に結び付けようとするものである限り、政治
的大挙の理念は正しいと云はねばならぬ。
 かやうに政治的大挙の理念のうちには正しいものが含まれてゐるにしても、我々はそれに全く
同意し得るであらうか。それは政治主義であり、自由主義に封する統制主義である。それは政治
的統制によつて一挙に、大挙に統一を輿へ、その学問を現賓に近づけ得るであらう。しかしなが
ら、もしそのことが外部のカによつて行はれるとすれは、その統一は外面的に止まり、学問の府
として大挙に要求されるやうな内面的な統一は得られないであらうし、
その現賓との接近も寧山間
の本質に相應するやうな内面的な関係を有することができないであらう。そこに内面的な聯関が
き・ぎ.・き・i〜ll一ll一一ll
存在しなけれはならぬ限り、政治的大挙の主張も「政治」でなくて「哲学」であり、一定の世界
観に基くものでなければならぬ。フライエルが、哲学的であつた人文主義的大挙の理念に反封し
ながらも、哲学への意志は、大学にとつて本質に合したものであるのみでなく、絶封に軟くべか
らざるものである、と云つてゐるのは常然である。我々の問題はその哲学であり、その政治主義、
葺・1−fI‡
統制主義、その仝饅主義の哲学が果してそのまま承認され得るか香かといふことである。

       ニ

 先づ政治教育一般について云へば、その思想の如何を間はず、我が囲においては政治教育の不
足が感ぜられる。日本の知識階級はおよそ政治的教養に乏しく、政治と教養とは何か反封するも
のであるかのやうにさへ考へられてゐる。それは我が囲の現賓の政治に知的なところが少く、思
才・き‡11音
想性が足りず、知識階級の興味を煮き得ないことにも依るのであるが、また逆に我が囲の知識階
育一ll▲.き■
級に政治的教養が欽けてゐるところから政治が思想性の乏しいものになつてゐるといふこともあ
るのである。いはゆる政治的大挙の理念には賛成し得ないにしても、一般に政治教育の我が歯に
大挙改革の理念

おいて特に必要であることは認めなければならぬ。人間の本質的な規定としての政治存在性につ
いて一層深く考へられ、教養における政治の重要性が理解されねばならぬ。政治教育の蓉達は政
治の進歩のために要求されてゐる。この鮎において現存の教育制度には改革すべきものがあるで
あら、つ0

 攻に大挙の統一性と綜合性についても、現在の制度には改革を要するものがある。我が囲の大
挙は法科は官吏の、文科は教員の養成を目的とするといふやうに、元来、職業的専門家の養成を
主要な目標としてきた。政治教育の不足沌これと関係してをり、また大挙に理念的なもの、「哲
拳」の故乏してゐたのもそのためであると云へるであらう。綜合大挙の形式は具へてゐても、綜
合の資質は殆ビ存しなかつたのである。専門的研究はもとより必要であり、これなしには学問の
進歩はあり得ない。けれども専門的分化は仝澄の聯関のうちにおいてその意味を自覚しなければ
壬▼i■・i
ならず、専門的知識は一般的教養を基礎として眞に活かされ得るのである。特殊科挙の理念的統
一と専門的研究の綜合的聯関の見地において、我が囲の高等教育には制度上においても改革を要
するものがあるであらう。
 改革の目標として今日考へられてゐるのは自由主義的教育の克服といふことである。生態主義
に立つ「政治的大学」の理念はその露骨な例である。従来の日本の教育も一般的には自由主義的
であつた。そしてその改革は仝憶主義に依らねはならぬと主張する者が多いのである。確かに、
我が囲の従来の教育には自由主義に伴ふ弊害が認められる。その是正の必要なことは云ふまでも
ないが、しかしそれと共に、杏それ以上に考へねはならぬことは、我が国の教育にはなほ多くの
封建的遺物が存在してゐるといふことである。このものの弊音は自由主義の弊害よりも更に大き
く、その難から考へて我が国の大挙においては自由主義の善いところがまだまだ活かされねばな
らないのである。さうでないと、仝饅主義といつても封建主義に逆縛する危険があり、現にその
傾向が見られなくもないのである。従つて我が囲における教育の改革は、杜曾の他のすべての方
面における改革と同様、二重のものでなけれはならぬ。即ちそれは一方残存せる封建的なものを
∫I▼
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清算することであると同時に、他方自由主義を超えた一層高い原理に到達することである。この
新しい原理はただ軍に自由主義に封立するものであることができない。自由主義は抽象的である
と云はれるが、仝慣主義も、それが自由主義に抽象的に封立するものである限り、自由主義と何
様抽象的であると云はねばならぬ。しかるに政治的大挙の理念に見られるやうな仝饅主義の教育
思想は、すべての文化を政治に従属させてその自律性を認めることなく、学問研究の自由を否定
大挙改革の理念

                                            二三四
し、個人を軍に仝憶の造兵であるかの如くに考へ、かくしてただ抽象的に自由主義に封立するこ
とによつて、それ自身抽象的な思想に止まるやうに思はれるのである。眞に自由主義を超える思
想は、軍に針由主義を香定するので軋く却つてこれを止揚したもの、音ひ換へると、これを一層
高い立場において杏定すると共に肯定し、これを自己のうちに高めることによつてこれを含むも
のでなければならぬ0逆に考へると、政治の優位を畢純に否定することは自由主義の抽象性であ
る、政治の優位は今日の歴史的現賓の中から必然的に生じたものであり、現質的であらうと欲す
る如何なる思想もその必然性を承認しなけれはならぬ。しかしまた政治の優位は文化の渦律性を
畢純に否定するものであつてはならない0文化が政治的にならねはならぬとすれば、逆に政治も
文化的にならねばならないのである。
我が囲の大挙は嘗て十分に自由主義的であつたことがなかつた。そのためにその教育に統一的
な理念が故けてゐたこと1自由主義もそれ自身一つの統一的な理念である1、またそのため
に政治教育が足りなかつたこと1なぜなら自旬主義こそ政治教育の普及を要求するものである
1は、既に述べた通りである0我が国の大挙には寧ろ封建的なものが多く残存し、これが先づ
克服されねはならぬ○学閥はその一つの例である0学閥は学問上の見解の相違から生ずる「撃
渡」の如く公共性を有するものでなく、一つのギルド的存在である。それを結ぶものは親分子分
の関係である。教授の地位なども学問上の能力や業績によつて決定されないで「人間的な、除り
に人間的な」関係によつて決定されることが砂くない。学者としての「適格性」の如きは第二義
的な問題となつてゐる。学問におけるデモクラシーは認められず、封建的な身分意識が強く支配
し、研究に封する良心と情熱は制限されてゐる。そして今日のやうに政治が学問に干渉し、「思
想」上の適格性が喧しく云はれるやうになると、封建的な事大思想から積極的に時世に阿る者、
或ひは滑極的に封建的な明哲保身のイデオロギーに従つて沈款を守る者が檜してくる。いづれに
しても、自己の学問と思想とに忠賓であるといふ、眞理を愛し眞理に殉ずるといふ、ヒューマニ
ズム、人格主義が映けてゐる。特に学生に封しては、その個性を見出してこれを蓉挿させるやう
な教育、その自尊的な研究を誘導し、進展させるやうな組織が足りない。それらの、遊にそれら
に頬する諸故障は自由主義の未蓉達に基くのであつて、その、改革は自由主義の正しい意味を理解
することによつて行はれ得るのである。さもないと、全饅主義といつても、現にその例が砂くな
いやうに、封建的なものの〜復活となつて、それらの諸故障を寧ろ助長する結果になるであらう。
 もちろん個人主義的な自由主義の弊害はいろいろ現はれてゐる。例へは、それは教師にあつて
大挙改革の理念
二三五

                                             二三六

は、自己の地位を守ることにのみ汲々として、同僚の運命、畢生の運命や仝憶の学園の運命に対
しては冷淡な利己主義となり、またそれは畢生にあつては、自己の成績と就職のことのみを考へ
て、同窓の運命、教師の運命、そして仝慣の学園の運命に封しては無関心な利己主義となつてゐ
る0かくの如き態度は仝憶主義的な自費によつて改められねはならぬであらう。その場合指摘さ
るべきことは、今日自由主義の弊害は、直接に学問と研究に関する方面においてよりも生活と経
済に関する方面において最も甚だしいといふことである。
右の例も根本においては経済生活に閑
係してゐる。しかし特にその弊害が著しいのは私立の学校の経営においてである。私立の学校の
多くは自由主義的経済の督利主義に立つてゐる。教師の待遇は悪く、学生の薦めの研究設備、保
健施設等の薔達の如きは殆ビ願みられない。学校自身が誰の眼にも明かであるやうな営利主義を
探りながら、畢生に封して如何に仝憶主義の道徳を説いたところで、果して徹底的な教育が行は
壬−111一1−
れ得るで卦らうか。現在最も改革を要するのは、この自由主義的営利主義の学校経営である。そ
してそれはその性質上政治的な干渉に期待され得るものであるから、政治主義の改革を考へる者
は、先づそこから著手すべきであらう。
 今日の政治主義の教育思想は、その統制主義の立場から、学問研究における自由の要求を自由
主義の思想にほかならないと排斥してゐる。しかるにこの場合にも先づ考へねばならぬことは、
我が国の大学には果して研究の自由に対する眞賓の要求が存在したかといふことである0外に向
っては研究の自由を主張しながら、内においては自己の封建的なものによつてみづから研究の自
由を束縛してゐたといふことがないであらうか。研究の自由といふ標語はしばしば自己のギルド
的特権を擁護するために利用されてゐたやうに思はれる○研究者はそのギルドの内部において認
められるやうな題目について、その親方に気に入るやうな仕方で勉強する0彼等は自分たちの仲
間でしか通用しない青菜を仔細らしく語り、彼等の学問は一般杜禽とは固より、他の専門の研究
家とも関係のないものになつてゐる○この傾向は政治が学問に干渉していはゆる思想閏超が喧し
くなると共に一層助長され、かくして研究の自由は今日の困難な現資の間超を岡避することの自
由となつた。大挙の拳闘は杜曾と囲家に封して責任を名はぬものとなり、それがアカデミツタな
態度であるかのやうに考へられてゐる。しかし研究の自由は現賓を回避する自由であることを許
されない。大学の学問も時代によつて課せられた現資の問題の解決に身をもつて努力しなければ
ならぬ。抽象的に自由な研究即ち歴史の現葺から任意に涛離した研究に眞の自由があるのではな
i一l一一一一I∫‡・一1・−II・−}一1−・_〜・1I一一l一I‡■
く、眞の自由は歴史的に必然的な問超をその態度において自由に研究するところにあるのである0
きl一一llilI
大挙改革の理念
二三七

二三入
永遠の問題といつても抽象的に存するものでなく、歴史を通じて輿へられるのであり、永遠の眞
lI・1・11一・・1一II・11111I}I
理といつても抽象的に逢せられるものでなく、現資の問題の解決を契機として現はれるのである。
かやうに歴史的現賓と情熱的に封質するといふ意味においては大挙は政治的でなければならぬと
云ふことができ、その限りにおいて政治的大挙の理念には正しいものが含まれてゐる。その見地
から我が国の大挙教育には改革すべきところがあるであらう。しかしまたそのやうに政治的にな
ることによつて大挙がただ一時的な問題にのみ没頭することは間違つてゐる。大挙の研究はつね
に本質的なもの原理的なものに向はねはならぬこと、眞に歴史的なものは、永遠なもの々時間的
なものとの統一であること、かくして例へば古典の研究は今日の問題の研究にとつても大切であ
ること等は忘れらるべきではない。また大挙は政治的意義を有する問超に対してもその研究にお
いて自主的でなければならない。自主的でなく、ただ時流に追随し迎合するといふことは無責任
といふことと同じであつて、
仝憶主義がかやうな無責任な人間を作り易いことに注意しなけれは
ならぬ。
自由と責任とは離すべからざるものである。研究の自由とか批評の自由とかが無責任な
研究や無責任な批評を生じてゐるとすれは、それは自由主義の意味が正しく理解されてゐないた
・貢i一▼i一lllI
めである。自由の道徳と責任の道徳とは自由主義において一つのものである。
\▼
 大挙の学問は歴史的現賛の課する間超と情熱的に封質すべきであるといふ意味において大挙は
政治的でなけれはならぬと云ひ得るにしても、問題の研究そのものは飽くまで自由でなければな
らない。その鮎において近頃の政治主義が研究の自由を否定するのは誤つてゐる。間超は我々に
とつて必然的に輿へられる、しかしその研究においては我々は飽くまで自由でなけれはならない.
なぜなら研究の自由がないならば、客観的な認識に達することは不可能であるからである。客観
的な認識は正しい賓践にとつて必要であり、政治が拳闘に自由を認めることは学問をして眞に政
盲壬lI‡
治に役立たせる所以である。客観的な眞理は政治家の主観的な意囲とは濁立に存在するものであ
つて、これに従ふのでなければ如何なる政治的賓践も究極において成功することができぬ。学問
の自律性を認めることは学問の敏速にとつては固より政治の番展にとつても必要である。研究の
1flll一1一一−幸一ll▼
自由を否定することは学問を政治に役立たせようとして結局、拳闘を政治にとつても役立たぬも
のにしてしまふ。文化の自律性を認めない政治は、政治における文化のカを認めない野攣主義で
.′才−
ある。拳間はその間超を現賓の賓蹟から輿へられる、しかし学問は青践の主観的な意図を一旦香
定して客観的な立場に身をおくことによつて認識に到達し得るのであり、かやうに一旦賛践の立
場を香定することによつて拳闘は却つて眞に斉蹟と結び付き得るのである。理論と賛成との正し
大卒改革の理念
二三九

              二四〇
       −      一一1I‘音一▼書
い関係を把握することは、抽象的に理論の立場を固執する自由主義者にとつてと同様、一面的に
斉践の立場を強調する仝憤主義者にとつても大切である。
 かやうにして研究の自由は認められねはならないけれども、それと同時に必要なことは研究の
共同である。この後の鮎において我が囲の大挙には改革すべきものが特に多いのである。従来研
究の共同が放けてゐたのは、綜合大挙などと構してもその綜合性の理念が明かに自覚されてゐな
かつたことに基いてゐる。また学問の公共性についての意識が乏しく、学問を個人の私有物の如
く考へるところがあつたからである。あらゆる種類の封建的な意識が学問の公共性についての意
識の番達を妨げ、そのために研究の共同が十分に行はれなかつたのである。研究の共同は学問の
きヽき
進歩にとつて必要である。研究の自由も研究の共同がなけれは個人主義の弊害を生じ易い。研究
の共同によつて特殊的なものは仝慣的なものに関係付けられ、研究の自由は現資的になることが
できる。この鮎において自由主義の抽象性は仝憶主義的な観念によつて具慣的にされねはならぬ
と云へるであらう。それはしかし研究の自由を否定することでなく、研究の共同は他方研究の自
由があつて現賓的になり得るのである。自由なもの、濁立なものの共同にして初めて眞の共同で
ある。研究の共同は畢に教師の間のものでなく、また畢生の間のものであり、特に教師と畢生と

の間のものでなければならぬ。教師と畢生との人格的な接購を基礎として、ソタラテス的封話の
展開によつて研究の共同が賓現されなければならない。研究の共同は大学の理念そのものである。
研究の共同こそアカデミーの、亡已完【SitPSとしての大挙の起原と共に本質を規定するものであ
る。ただ研究の自由をのみ求めて研究の共同を忘れることは学校といふ共同饅の意義を理解しな
いことである。我が囲のすべての学校のうちに研究の共同の理念の賓現されることが必要である。

       lニ

 今日の大挙は職業教育の機関になつてゐると云つて度々非難されてゐる。この非難には正しい
ものがあると共に間違つたところがある。大挙は畢なる職業的知識以上に、「教養」を輿へねは
ならぬと云ふのは正しい。教養とは職業人として必要な知識でなく、あらゆる職業人が人間とし
て有せねばならぬ普遍的な知識である。かかる普遍的な知識の学校であることによつて大挙は
亡已完【Sitasの意義を有し得るのである。しかしこの教養は従来の如く軍なる文化主義の立場か
ら考へられてはならない。政治的大挙の思想がたとひ一面的であるにしても主張してゐるやうに、
政治的教養は大挙の努力すべき教養において重要な地位を占めねばならぬ。また従来の人文主義
大挙改革の理念一
二四一

                                         ニ四二
的な教育思想は職業教育を不常に軽蔑する傾向があつた。職業はすべての人間にとつて本質的な
                                                              有
意味を有してゐる0職業教育は大挙においてもその教育の重要な部分でなけれはならぬ。必要な
ことは一般的教養と職業教育との関係を正しく把握することである。
 先づ普通に職業は専門と考へられてゐる。それは分業の事賓に基き、徒つて技術を中心とする。
職業教育は専門教育であり、技術の教授を目的としてゐる。技術教育は大挙の教育においても決
して軽硯さるべきものではない0教養といつても、専門的技術的知識の基礎を故き、これと内的
に結び付いてゐないならは、畢なるデイレツタンティズムになつてしまふ0いかし他方専門は特
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扶的なものとして仝慣の中においてその意義を自覚することが大切である。一般的教養といふの
はこのやうな仝饅的理念を輿へるものでなけれはならぬ。教養を単なる博識と考へることは間違
つてゐる0博識は仝憶的な立場に立つために必要であるまでである。人文主義の教育においても、
教養の普遍性のもとに元来仝憶的なもの、理念的なもの、哲学的なものを考へたのであるが、そ
れがやがてただ博識を意味するやうに堕落していつたのである。技術は或る意味では手段に過ぎ
ヽ′ll一I    ▲‡
ない。これに目的を輿へるのは仝憶的理念である。
今日の政治的大挙の思想において特に明瞭に
主張されてゐるやうに、大挙は指導者の養成を目的とするものであるとすれは、大挙は理念的な
もの、世界的なものについて教養を輿へなければならぬ。もちろん職業教育は軟くべからぎるも
のであり、かくて大挙は自己のうちに職業と理念といふ二重の性格、二重の構造を統一すること
を要求されてゐる。.
 技術的知識は専門的特殊的知識である。それは特殊的知識として一般的理論的知識と結び付か
ねはならぬ。言ひ換へると、技術的なものは理論的なもの(科挙)と結び付かねばならぬ0技術
は科挙を基礎とし、理論科挙の蓉達は技術或ひは應用科挙の教達にとつて必要である0しかるに
今日の政治主義の教育は政策的なもの、應用的なもののみを重税して、原論的なもの、理論的な
ものを軽視乃至無税する傾向がある。政治主義はすべての学問を勺○−itik(政策)に欒へようと
する傾向がある。しかしかくの如き理論科挙の蔑祀によつては、斉は政策乃至應用科挙の蓉達も
期し得ないのである。もとより、一方技術の番達は科挙の香達に制約されると共に、他方科挙の
教達は技術の番達に制約される。科挙は技術の蓉展によつて新しい閏超を輿へられ、また問題の
新しい解決の端緒を掴み得るのである。技術的なものは賓蹟的なものである。それ故に科学と技
術との関係は、
ヽ‡l■
が大切である。
一般的に云へは、理論と資践との関係であり、この関係の正しく把握されること
大挙改革の理念
二四三

ところで職業教育は技術教育であり、
二四四
技術は或る責践的なものであるとすれば、前に述べた技
音            .ミ‡    −    .1
術に目的を輿へる仝慣的なもの、世界観的なものも何等か賛践的な理念でなけれはならぬ。しか
るに往来の文化主義的な教育は、その教養の理念を賓践と引き離してしまふ傾向があつた。教養
は賓践と没交渉であればあるほビ教養的であるかのやうにさへ考へられた。この鮎で政治的大挙
の思想がその理念において賓践を強調してゐるのは正常である。大挙の統一的な理念は単に教養
的なものでなくて賛践的なものでなければならぬ。それは賓践的道徳的なものであるべきであつ
て、それを政治的といつても、政治は道徳的なものであることが要求されるのである。もちろん
                                                                          喜一▼
大挙が直接に政治的賛践的であることを欲する極端な政治主義は排斥されねばならぬ。大挙は茸
践国債でなく、寧ろ理論囲饉である。
lき
てゐる。
しかしまた理論と賓践とを抽象的に分離することは間違つ
職業はその本質において仝憶のうちにおける分肢である。個人主義的な職業観念に封して、仝
憶主義がこのやうに職業の機能的観念を主張してゐるのは正常である。職業は自由主義の営利観
                  与1−享I‡l
念に絶つて考へらるべきでなく、仝憶のうちにおける分肢として機能的意味に従つて理解されね
ばならぬ。
その限り仝慣主義は正しいが、しかし仝慣主義はその根本の論理である有機憶説に束
縛されて、個人を仝憶の道具と見ることになつてゐる。全慣に封する個人の機能的関係を言ふこ
盲111−喜一11一−長音・
とは正しいが、個人を仝慣の軍なる道具と考へることは正しくない。それでは人格の観念は破壊
されてしまはぎるを得ないであらう。人間はもとより単に自己的でなく、仝慣のための道具或ひ
は手段の意味を有してゐる。人間はつねに一定の役割における人間である。けれども、人間の意
味はそれに轟きるものでなく、人間は他方人格として自己目的の意味を有してゐる。人格とは何
等かの役割における人間以上のものである。人格とは或る内面的なものである。仝饅主義はその
論理の必然性に従つて人間を軍に役割においてしか見ることができず、この人間の人格性を無税
する傾向を有してゐる。畢に機能的に見られた人間は仝饅に縛られて自由であることができず、
しかるに人格とは自費的なもの、自律的なもの、自由なものである。仝慣に封する個人の関係は
機能的にと同時に人格的に考へられねばならぬ。かくして職業もまた軍に機能的にでなく使命的
に把握されることが大切である。職業とは個人の使命である。使命は個人の仝慣に封する関係で
タll▼
あるが、その関係はこの場合どこまでも人格的に内面的に理解されるものである。仝憶主義はこ
れに反して、人間の内面性を抹殺する傾向を有してゐる。それは個人の仝憶に封する責任を説く
ことができるにしても、自己自身に封する責任、自己の人格に封する、自己の良心に封する責任
大学改革の理念
二四五

                                            ニ四六
を明かにすることができない0人間は仝饅に封して責任を有すると同時に自己自身に封して責任
を有するものである0しかも人間は申王的であることによつて仝燈に対して責任みるものとなり
                                         l▼一手▲..1!
得るとすれは、仝憶に封する責任も自己自身に封する責任を離れて考へられないと云へるであら
、ワ0
撃校は職業を教育するのみでなく、人間を教育しなければならぬ。人間の教育には職業的知識
  ▲1−..一−1

以上に一般的教養が必要である0尤も職業人から抽象的に分離された人間といふものがあるので
てゐる0人間の教育においては各人の個性を薔拝させるやうに努めることが大切であるが、その
はない。
人間の教育を主張することによつて職業の教育を軽視する人文主義的教育思想は間違つ
                                                                                                                与
lil一1I‡−
ことはまた仝憶のうちにおける分肢の意味を有する職業の見地においても必要である。
しかるに
仝盟主義は統制主義として董一主義の弊に陥り易く、各人の個性の蓉達を抑麒する傾向を有して
育は人間を華的にすることによつて仝慣の内容を貧窮にする危険があることに注意しなければ
 l
ならぬ0次に人間の教育が畢に知育に止まらず、道徳教育でなければならぬことは言ふまでもな
い0そして造穂教育を排斥すべきものでないことは、職業人から抽象的に分離された人間といふ
ゐる。仝儀は多様なものの統一
Lレて力a意味とむ肴挿すべきであるにも拘らず、仝慣主義の教
ものが存在しないといふことによつて既に明かであらう。近頃の全饅主義が非合理主義として、
その人間教育、道徳教育において、知的なものを排斥しょうとしてゐるのは誤りであると云はね
ばならぬ。道徳も廣い意味においては技術である。具饅的な道徳は人間の歴史的杜曾的生活にお
・ぎ▲王一llI
ける技術を離れてあるのでないことから考へても、道徳には知的なものが必要であり、道徳の理
念は軍に非合理的なものであることができない。人間はつねに歴史的杜禽的に規定された人間で
あり、一定の民族に属し、一定の囲家の囲民である。従つて人間の教育は更に特に囲民としての
教育でなけれはならぬ。人間の教育は園家の使命の自覚のもとに行はれなければならない。自由
主義の教育がその抽象的な世界主義の立場において人間の教育を囲民としての教育から抽象して
考へたのは正しくない。しかし他方今日の仝憶主義も軍なる民族主義の立場に止まつてゐる限り
抽象的であると云ふべきである。人間は囲民であると共に端的に人間である。教育は「善い囲
民」を作ることであると共に端的に「善い人間」を作ることでなけれはならぬ。個人主義といつ
ても軍に個人的な立場に立つてゐたのでなく、カントの哲学などにおいて明かであるやうに、個
…Y
人の根抵に超個人的なもの、人類的なもの、世界的なものを考へたのであつて、ただその人顆と
喜一・i・l一▼さ一−き
lf
か世界とかを民族や囲家を媒介としないで考へたところにその抽象性があつたのである。民族や
大挙改革の理念
二四七

二四八
i.i一一一与.i一.‡
囲家を媒介とすることによつて人類や世界は現賓的に把握されることができる。
しかしまた人顆
ヽ∫一宅l−一‡
や世界を離れて民族や国家を考へることは、
民族や国家を離れて個山を考へる個人主義と同様の
抽象性に障ることである。
人間は民族的であると同時に人顆的である。政治の理想は→善い囲
                                                                      ヽf
民」であることと1善い人間」であることとが一致し得るやうな政治を行ふことである。教育の
理想は「世界的日本人L
を作ることであると共に「日本的世界人」を作ることである。しかもそ
れらのことは凡て歴史的に把握されることが必要である。大挙における教育は日本の世界史的使
命の自覚のもとに立たねはならぬ。
ノ革宵