人間再生と文化の課題

 

 各々の時代の文化にはそれぞれ一定の中心問題があるとすれば、現代文化の中心問題は如何なるものであらうか。私がここで問うてゐるのは特にいはゆる精神文化についてであり、しかも種々の精神文化に共通の基本的なテーマについてである。かやうなテーマは、種々の精神文化に共通のものであるといふ理由ですでに、我々の生の歴史的聯関の中から生れ、これによつて動機附けられてゐるのでなければならぬ。哲学や藝術の如きものについてその生の動機をたづねるといふことは、或る人々を不快がらせるかも知れない。しかしながら哲学や藝術に従事するといふことも生のひとつの在り方である限り、それには当然、生の聯関によつて規定された動機がある筈である。純粋に知識のために知識を求めたといはれるギリシア人においても、この純粋な観想(テオリア)が人間的生の最高の形式と看做され、観想にたづさはることは非実践的であることを意味しないで、むしろそれが実践の最高の実現にほかならないと考へられた。アリストテレスは政治学の中で、自己目的的な観想は単にひとつの行為であるのみでなく、最もすぐれた意味において行為するといはれるのは「思惟の棟梁たち」であると述べてゐる。かくて純粋な観想、従つて叡智(ヌース)にあづかることが人間の持続的な生活形式(ヘクシス)として可能であるか否かが、アリストテレスの倫理学の根本的なテーマであつた。その生の動機を問ふことは藝術や哲学を不純にすることでなく、その存在理由を自覚することである。しかもそれらにとつて自己の存在理由を自覚することは今の時代において歴史的に課せられた特別の要求となつてゐる。蓋し時代は行動を必要とする、あらゆるものが政治的実践的であることに関心してゐる。このとき精神文化に従事するといふことは、およそ如何なる意義を有し得るであらうか。そのレーゾン・デエトルが問はれなければならない。しかもかやうにそのレーゾン・デエトルを問ふといふことは、今の時代において哲学や藝術の如きものが人間そのもののレーゾン・デエールとなり得るか否かを問ふことである。
 現代文化の課題は明瞭である、文化活動は政治闘争の一翼である、文化的課題は政治的目的に従属しなければならぬ、  ― 嘗てかやうなテーゼが掲げられた。そして政治と文化、特に政治と文学の問題が盛んな討論の中心題目となつた。当時マルクス主義者によつてなされたかやうな問題提出は、我々の時代における哲学や文学、更に哲学者や文学者の存在理由をあからさまに問題にしたといふことにおいて重要な意義を有した。政治と文学といふ尖鋭化した形で提出された問題の一般的本質的内容は、この時代における文学の存在理由にほかならない。ただそれは政治と文学といふやうな特殊の形で提出されるとき種々の偏向に障る危険があつたのである。文化の存在理由はその時々の政治的任務に従属することに有するに過ぎぬであらうか。すぐれた作品は単に或る時代、或る社会の一時的な要求に応ずる以上の内容をもつてゐる。さもなければ、それが社会時代の変化を越えて永続するといふことは不可能である。尤も、かく言ふ場合、誤解が生じないために、あらかじめ次のことを注意しておかねばならぬ。第一に、作品の永続性は、作品が一個の生命あるものとしてそれ自身の運命と歴史を有することを否定するものではない。永続的といつても、それがあらゆる時、あらゆる場合に同じ高さの評価を受けるといふことではない。むしろ種々の運命の変化の中で結局自己を推持し自己を主張するといふことが生命あるものの特徴である。歴史から抽象された永遠は真の永遠ではない。作品の永続性には、それが絶えず蘇生し、経えず更新するといふことが含まれる。「最上の作品とは自己の秘密を最も永く保つてゐる作品である」とヴァレリイもいつてゐる。第二に、すぐれた作品は或る階級、或る社会の一時的な要求に応ずる以上の内容を有するといつても、それがつねにただ特定の歴史的情況において生れるものであることを否定するのではない。ゲーテは、「唯一の永続力ある作品は折にふれての作品である」といふ意味深い言葉を語つた。一般にただ折にふれての作品があるのみである、なぜならすべての作品は、それが作られた場所と瞬間とに依存してゐるから。自己の生活する時代に対して生きた聯関を含まないやうな作品は時代を越えて永続する力を有しない。時代とのつながりが深く達すれば達するほど、作品は永続性を有し得るのである。第三に、我々は作品の永続性をいはゆる普遍人間性から説明することに対して注意しなければならぬ。人間は本質的に歴史的であり、人間性も歴史において変化する。もとよりその変化の中から共通普遍のものを抽象してくることは不可能でないにしても、かかるものは我々の歴史的生活とはかかはりのないものである。真の永遠が時間の単なる無際限を意味しない如く、真に人間的なものは単に同一不変に止まるものではない。ゲエテが永生の観念を活動の観念によつて基礎附けようとした如く、普遍人間的なものも歴史的行為の立場から捉へられねばならぬ。そして歴史的行為はつねにただ個別的な行為があるのみである。
 かくて真の文化は単に或る社会、或る時代の一時的な要求に応ずる以上の内容をもたねばならず、しかも永続的価値とか普遍人間性とかいふものも歴史から抽象して理解し得ないとすれば、現代文化の課題は如何なるものであらうか。マルクス主義の立場から論ぜられた文化の政治への従属の思想は、この時代における文化のレーゾン・デエトルを問題にしたといふ点においてのみでなく、また如何なる文化も歴史の現実の瞬間と結び附かねばならぬことを自覚させたといふ点において、重要な意義を有した。しかしそれが文化の課題を単にその時々に変化する政治的行動に従属させようとした場合、政治主義への偏向に陥らざるを得なかつた。政治的任務は本性上総えず変化する。しかるに政治的問題の変化のうちにこの変化を通じて、或ひはこの変化の根柢に、つねにより永続的な、より人間的な問題が含まれてゐる。このものが文化の基本的なテーマとして現はれなければならぬ。ゲーテは事物の永続的な諸関係を取扱ふことによつて自分のうちに永遠を作り出すと語つてゐる。永続的な人間的な問題といつても、現在の歴史を、その社会的政治的問題を、離れて存在するのではない。けれどもそれはすでに外面から見ても、政治的問題に比して遙かに永続的な性質をもつてゐる。現代の政治的諸関係を通じて現はれるかくの如き永続的な問題を私は「人間再生」といふことに見出し得ると信じる。ジードは先般パリで開催された国際作家会議の席上で、「今日は人間を、新しい人間を獲得することが先づ緊要であるLと述べた。この言葉は、文学はもとより、あらゆる精神文化の今日の課題を適切に言ひ表はしてゐると思ふ。「私はソヴェートの新しい文学の中にみごとな作品を見た。しかしソヴェートが目下作りつつある新しい人間、私達の期待する新しい人間が、形をとつて現はれてゐる作品はまだ見たことがない。今はまだ闘争、養成、生産を描いてゐる。未来を告げる作品、大きな飛躍の作品、その中で作者が現実を追ひ越し、これに先行し、これを嚮導し、道を拓くやうな作品の生れることを私は信頼をもつて期待してゐる。」といふジードの言葉もまた注目すべきであらう。もとより闘争、養成、生産などを描いてはいけないといふのでなく、むしろそれは要求されてゐる。しかしそれがただそれだけに終らないで、その中から新しい人間性が発見され、新しい人間が形成されることが必要である。政治的なもののうちにおいて、そしてつねに政治的なものとの関聯において、より永続的な人間的な問題を掴むといふことが文化にとつては大切である。この頃プロレタリア人道主義といふやうなことが論ぜられ、新しいヒューマニズムの問題が起つてゐるのも偶然でなく、我々の立場から見て興味深い事青である。ひとはソヴェートと我が国とでは事情が違つてゐると言ふかも知れない。なるほど政治的問題は異つてゐるが、政治的問題の根柢に持続する人間再生の問題は同じである。ヒューマニズムといつても、抽象的に普遍的な人間性が問題であるのでなく、あらゆる人間において同一不変に止まるものが問題であるのではない。現代ヒューマニズムの根本問題は、現代といふ特定の歴史的時期に相応する人間再生の問題でなければならぬ。
 中世から近世への推移を劃する時期がルネサンスと呼ばれる如く、現代もルネサンスとして特徴附けることができる。或ひはむしろ現代を一つのルネサンスとして意識するといふことが今日のヒューマニズムの本質に属してゐる。あの時代に、ルネサンスといふ言葉を最初に用ゐた人々は、単にギリシア的・ローマ的文化の再生を、死んだ文化の復興、破壊された世界の再興を考へたのではなく、自分自身のことを、自分の現在のことを、自身の人間的再生、彼等の人間性の革新を考へたのであつた。現代のルネサンス的理念においても、近代的文化の頽廃を見て、これを復活させ再建するといふことが問題であるのではない。あの時代の人々が中世的人間に近代的人間を対立させた如く、今日の文化の課題はその近代的人間に対して更に新しい人間のタイブを創造するといふことである。しかるに我が国では、マルクス主義によつて提出された政治と文化の問題が、その後の政治的情勢の変化のために、また文化そのものにおける政治主義的偏向に対する反動の結果として、人々の意識の中心から遠ざかるに従つて、もはや現代において文化的活動に従事することの存在理由について殆ど反省も自覚もないといふ状態が来たかのやうに思はれる。かやうにして、文化は次第に時代との生命的な聯関を失ふ危険にあるのである。
 ところであのルネサンスの場合ヒューマニストたちは周知の如くギリシア文化の復興に熱心に努力した。しかるに現代においても、少くとも哲学に関していふと、或る意味もしくは或る方向におけるギリシア哲学の復興が今日の哲学に課せられた一つの重要な任務ではないかと私は考へる。近代哲学は、近代的世界の原理である個人主義と結び附いた主観主義によつて ― この主観が個人的自我であらうと、超個人的自我といふものであらうと、多くの差異をなさない ― 救ひ難い陥穽に陥つてゐる。かかる主観主義に対立させられた客観主義も、抽象的に主観主義に対立するといふ理由によつて、同様に欠陥をもつてゐる。近代の主観主義の哲学は自己の立場からギリシア哲学を単なる客観主義であるかのやうに非難する。しかしながら実をいふと、ギリシアには近代的な意味における主観主義が有しなかつたやうに、近代的な意味における客観主義も存しなかつた。抽象的な主観主義と抽象的な客観主義とは表裏をなし、元来同じ根のものである。今日ハイゼンベルクなどの新物理学の立場において、近代的な自然の概念は狭きに過ぎ、むしろギリシア的な自然の概念に還らねばならぬともいはれるやうに、現代哲学もその主観主義、またその客観主義の立場を捨てて、むしろギリシア哲学の立場に還るべきであるともいひ得るであらう。ただギリシア的な自然の概念に欠けてゐる時間と歴史の見方をその中へどこまでも深く喰ひ込ませることが大切である。現代文化の課題を新しいルネサンスとして把握する者は、人間再生の問題をこのやうな立場から根本的に把握しなければならないであらう。
 新しい人間の哲学は何よりも行為の立場に立つことが必要である。従来は美学などにおいても藝術作品を与へられたものとして前提し、それをただ理解或ひは享受の立場から眺め、従つてそれを主としてその心理的効果の方面から研究するといふことに局限されてゐた。フィードレルの如き稀な場合を除いては、藝術も制作即ち藝術的行為の立場から見られるといふことがなかつた。人間の研究においても同様、従来の哲学には人間を行為の立場から考察する見方が欠けてゐた。しかるに実際は、人間は与へられたものであるよりも作られるもの、歴史的行為において作られるものである。我々の存在は固定したものでなく、我々の行為において絶えず作られ、従つてまた絶えず発展するものである。人間が作られるものであるといふには、我々の行為はすべて制作的活動(ポイエシス)の意味を有するのでなければならぬ。単に藝術的活動の如きもののみが制作的活動であるのではなく、人間のあらゆる行為は制作的活動の意味をもつてゐる。行為が制作的であるためには、単に主観的なものでなく、主観的・客観的なものでなければならぬ。物を作るといふことは単に意識の内部において行はれ得ることでなく、それには身体が必要である。しかしまた単に身体的な運動は行為とはいはれ得ないであらう。藝術が「観念の物質化」として主観的・客観的なものであるやうに、人間も主観的・客観的なものである。そして藝術が藝術的活動において作られるやうに、人間そのものも、制作的意味を有しそれ自身主観的・客観的意味を有する行為において作られるのである。作品のうちには作者の人間がおのづから表現されるといふ如きことも、藝術家の人間といふものが制作的活動において作られるものであることによつて可能であらう。このやうに人間を行為において作られるものとして考察することが新しい人間の哲学の立場でなければならぬ。人間再生の問題は、人間を与へられたものでなく行為において作られるものと見ることによつて初めて、現実的意義を有し得るのである。
 いま行為について考へるにあたり、特に主観主義的見方に堕することのないやうに注意することが肝要である。従来の哲学も行為の立場を全く願みなかつたのではないが、その場合多くはカント的乃至フィヒテ的主観主義の見方をとるのがつねであつた。しかるにもし行為の立場が主観主義を意味するならば、人間をその立場から考察することは、少くとも一面的であることを免れ難いであらう。なぜなら具体的な全体的な人間はもと主観的・客観的なものであるから。主観主義の立場において行為を考へることができないといふのは、行為には、為すと共に為されるといふ意味が、作ると共に作られるといふ意味が含まれる故である。言ひ換へると、行為は「行為」であると同時に「出来事」の意味をもつてゐる。もし行為に出来事といふ意味が含まれないならば、行為が歴史的であるといふことは不可能であらう。歴史はその根源的な意味において出変事を意味してゐる。歴史は単なる客観主義の立場からも、単なる主観主義の立場からも考へられない。歴史はどこまでも我々が作るものであると共にどこまでも我々にとつて作られるものである。我々は歴史から作られて同時に歴史を作るものである。
 人間を全体として捉へるには、人間を生れるところから捉へねばならぬ。人間は、彼が生れるところから捉へられるのでなければ、全体的に捉へられることができぬ。人間はつねに主観的・客観的なものとして生れるのである。人間を生れるところから捉へるのでなければ、人間再生も十分に問題とされ得ない。自然(ネーチェア)といふ言葉がもと生といふ意味の言葉とつながつてゐるやうに、物は自然から生れ、人間も自然から生れると考へられる。けれども人間がそこから生れる自然は歴史的自然でなければならぬ。哲学者が「能産的自然」と称したものは歴史的自然と考へられねばならぬ。人間は社会から生れる。社会といふものは人間に対して外にあるのでなく、人間をそのうちから生み、そのうちに包むものである。人間は主観的・客観的なものとし
て生れるのであるから、これを生む社会は単なる客体ではなく、主体でなければならぬ。しかも人間は独立なものとして生れるのである。人間は社会から生れたものでありながら、独立にはたらき、逆に社会に作用し、実に社会を作るものである。恰も藝術作品が人間によつて作られたものでありながら、独立にはたらき、逆に人間に作用し、実に人間を作るものであるのと同様である。かやうに独立なものを作る行為であつて創造的といふことができる。私がここで生れるといふのは、単に生理的或ひは自然的に生れることでなく、歴史的に行為的に生れるといふことである。人間は単に在るものでなく、行為において作られるものであるが、行為には為すと共に為されるといふ、作ると共に作られるといふ意味があるところに、或ひは行為は行為であると共に出来事の意味を有するところに、人間は社会から生れるといふ意味があるのである。言ひ換へると、人間の行為はつねに社会的に限定されてゐる。社会的に限定されてゐるといふのは単に外部から規定されてゐることではない。杜社会限定は外延的に、従つて空間的に考へられるにしても、空間と時間とは一つに結び附いてゐる。時間は内面的で、空間は外面的であると考へるところの、カントを初め従来の多くの哲学者において、現代ではベルグソンにおいても見出されるところの偏見が先づ打破されねばならぬ。さうでないと、ゲーテの自然の如き、およそ生む自然は理解されないであらう。内面的といへば空間も内面的と考へられることができ、また外面的といへば時間も外面的と考へられることができるであらう。現代のいはゆる不安の哲学は、空間性を外面的として軽んじ、一面的に時間的であることを特徴としてゐる。人間はもと社会から生れるとすれば、人間を生れるところから捉へる人間再生の哲学が根本的に杜合的な見方を含まねばならぬことは明かである。
 現代文化の課題が人間再生にあるとすれば、その基礎となる哲学は創造の哲学であるといはれるであらう。現代の哲学はフェルナンデスの言葉を用ゐると「認識の哲学」でなくて「創造の哲学」でなければならぬ。創造の哲学は歴史的行為の哲学でなければならぬ。しかるに、現代における創造の哲学を代表するベルグソンの哲学は、歴史的行為の立場に立つのでなく、なほ知的直観の立場に止まつてゐる。ベルグソンは純粋持続或ひはエラン・ヴィタールのモデルを、意識において見た。創造的進化といつても典型的には内面的生活におけるものである。しかるに行為は単に内面的なものであり得ず、つねに身体と結び附いてゐる。行為するとは自己を超越するものに働きかけること、また自己を超越するものから働きかけられることである。ベルグソン的な内在論の立場においては行為は考へられない。彼の哲学が自分の住む世界との乖離を感じる者の逃れてゆく内面的生活の不安を現はすものと解釈されるのもこれに依るであらう。身体をもつて外部の硬い存在を変化する者は幸福である。創造といふのは単に内的な過程でなく、自己の外に独立なものが作られることである。ところで現代の他の代表的な哲学、ニーチェ、キェルケゴール、シェストフ、ハイデッガー等において見られるのは、ニヒリズムである。創造は「無からの創造」の意味を含まねばならぬとすれば、かやうなニヒリズムも何等か創造の哲学とつながりを有すると考へられるであらう。ニーチェはニヒリズムを「デカダンにして同時に端初」といつてゐる。そのニヒリズムは「能動的ニヒリズム」と称せられる。能動の端初にあるものは渾沌である。「我々自身は一種の渾沌である」といひ、かやうな渾沌と虚無とに落ち込むことが新しく生れるために要求される。しかしニーチェのニヒリズムもまた、彼自身の語る如く、人格の分解の体験から生じたものであつて、真に能動的、行為的な立場に立つものではない。彼のニヒリズムも主観的な意識生活の内部に止まり、超越的なものに触れることがない。彼が超人の神話において具象化しようと試みた人間再生の思想は歴史的行為の立場に移されねばならぬ。ニーチェは人間再生の問題に恐るべき真実性をもつて苦悩した悲劇的ヒューマニストであつたが、ニーチェ主義者として出発したジードが、今日、新しい社会から新しい人間の誕生を期待してゐるのは、意味深いことといはねばならぬ。人間は単に内面的に生れるのでなく、社会から生れるのである。しかも社会から客観的に生れるのでなく、彼自身の主体的な歴史的行為において生れるのである。