現象学は明日の科学か


 現象孝は明日の科学だといはれる。現象学は今やフッサールからハイデッガーへ転向しつつある。物そのものへといふのが現象学のモットーだ。だが問題は物そのものが何であるかといふにある。フッサールはそれを純粋意識として見出し、ハイデッガーはそれを現実的存在として把握する。前者は意識の本質を研究し、後者は人間の存在の状況を分析する。一は理性の現象学であり、他は理性なき存在の現象学だ。人間的自己の本質を理性として、神的な永遠なものとして前提する多くの哲学に今やハイデッガーの現象学は対立する。だが彼の人間は宗教的なそれであり、いはば「原罪」によつてもともと自己疎外を完成してゐるところの、従つて人間種族の始つて以来変ることなきものと考へられた人間である。だが我々は一層現実的な、歴史的な人間の存在の状況の研究を要求する。それは特に現代的な、即ち「商品」に於て自己疎外を完成せる人間の状況の分析を要求するといふことだ。かかる現象学は明日の科学ではなからう。それは今日の科学だ。しかしそれは明日のための科学である。

 1930.1 改造