パスカルの人間観
「自己を識らねはならぬ。それが真理を見出すに役立たないにしても、それは少くとも自己の生活を規整するに役立つ、そしてこれよりも正しい何物もない」とパスカルは書いてゐる。もしもひとが自己の生活を偶然に委ねることを欲しないならは、自己を識るといふことはあらゆる人間に必要である。自己認識或ひは自覚は一切の正しい生活の出発点である。
然らば人間とは何であるか。
「人間は天使でもなければ動物でもない」とパスカルは云つてゐる。「人間は自分が動物に等しいとも天使に等しいとも信じてはならぬ、また彼はその一方のことにも他方のことにも無知であつてはならぬ、却つて彼はその一方のことをも他方のことをも知らねばならぬ。」従来の哲学の或るものは人間が動物であるかのやうに考へ、また或るものは人間が天使であるかのやうに考へ、それぞれ原理として来た。それらはいづれも一面的であつて真でない。人間の真はその全体性において初めて捉へられることができる。しかも全体性における人間は天使でもなければ動物でもなく、天使であると同時に動物である。かくして人間とは矛盾の存在である。
人間に固有なことは彼が自己意識或ひは自覚を有する存在であるといふことである。「人間はひとつの蘆、自然のうち最も脆きものに過ぎぬ、しかし彼は考へる蘆である」といふのはパスカルの有名な言葉である。人間を圧し潰すためには全字宙が武装するを要しない、一滴の水も彼を殺するに十分であらう。しかしながら、宇宙が彼を圧し潰すやうな場合にも、人間は彼を殺すものよりも遙かに貴いのである。なぜなら彼は自分が死ぬること、そして宇宙が彼に対して圧倒的であることを識つてをり、しかるに宇宙はそれについては何も識らないから。自覚によつて人間は動物から区別され宇宙のうちひとり卓絶する。自覚的であるといふことは人間の偉大を意味してゐる。しかしかやうな自覚において知られるのはほかならぬ人間の悲惨である。何故に我々は一つの球を投げ一匹の兎を迫ふといふが如きことにすら熱中するのであるか。かくも小さな事柄が我々の心を紛すに足りるといふことは我々の状態が如何に惨めであるかを語つてゐる。「僅かなものが我々を慰めるのは僅かなものが我々を悩ます故をもつてである。」人間はまことに果敢無いものであり、人生は不幸に満ちてゐる。かくも不幸な自己について考へることを避けるために人間は様々な慰戯を工夫する。慰戯の現実の理由は人間の状態の悲惨である。パスカルが慰戯といふのは単に遊戯や娯楽のみでなく自己の悲惨から眼をそむけるために人間が営むすべての活動を意味してゐる。世間では真面目な活動と見られるものの背後にも自己の悲惨について考へることから心を転じようとする無意識的な動機が隠されてゐないと云へるであらうか。そしてあらゆる騒ぎの後に我々を待つてゐるのは不幸の絶頂であるところの死である。しかるに人間が悲惨であるといふことは他方また人間の偉大を示すものでなけれはならぬ。毀された家は悲惨でない、なぜならそれは自分が悲惨であることをみづから識ることがないから。人間のほかに悲惨なものは存しない。死も動物にとつては自然に過ぎない。「動物にとつては自然であるものを我々は人間にあつては悲惨と呼ぶ。」彼の悲惨を悲惨として感じることはただ自覚を有する人間にのみ許されてゐる。「人間の偉大は彼が自己を悲惨なものとして自覚するところに偉大である。」
人間は悲惨であると同時に偉大である。しかも「悲惨は偉大から従つて来、そして偉大は悲惨から従つて来る。」自己の悲惨を自覚することは偉大なことであると同時に、自己の悲惨を自覚することは悲惨なことでなければならぬ。ここに我々はパスカルの自覚の性質を知り得るであらう。
自覚は近代哲学の大いなる原理であつた。デカルトのコギト・エルゴ・スム(私は考へる、故に私は在る)といふ命題も自覚を表はしたものである。自覚はデカルトにとつてそれから確実な明晰判明な他の認識が導き出さるべき基礎を意味した。デカルトの自覚は知的な直観である。これに反してパスカルの自覚は情意的な直観である。偉大と悲惨とは人間のかやうな情意的な自覚に基いた価値的な規定である。理性は物の価値を定めることができないとパスカルは云ふ。情意的な自覚によつて識られるのは人間の存在の確実性でなく、反対にその不確実性である。人間は天使でもなけれは動物でもないといふのは、人間は偉大であると同時に悲惨であるといふことであり、人間が矛盾の存在であることを意味してゐる。「彼が自慢するならは、私は彼を貶しめる。彼が卑下するならば、私は彼を賞める。私は彼につねに言ひ逆つて、かくして遂に彼をして自分が不可解な怪物であることを知らしめる。」更に人間の情意的な自覚は理性の客観的な認識が無用であり不確実ですらあることを識らしめる。「苦悩の時にあたつて、外的事物の知識は道徳の無智について私を慰めないであらう」とパスカルは書いてゐる。彼の人間観は人間に関する客観的な知識であるのでなく、飽くまでも情意的な自覚を基礎とする人間の主体的な自己理解である。
パスカルは人間を「中間者」として規定した。人間は天使でもなけれは動物でもなく、天使と動物との中間者である。しかしこの中間者といふのは客観的な量的な意味のものでなく、主体的な性質的な意味のものである。それは人間が矛盾の存在、弁証法的な存在であることを意味してゐる。
パスカルの問題は「自己」である。この自己はまたキェルケゴールの「単独者」の概念に通じてゐる。人間が単独者であるといふことは死の不安において最も顕はになる。パスカルは云ふ、「我々は我々と同様の者の社会のうちに安らふことで好い気になつてゐる。彼等は我々と同じに悲惨で、我々と同じに無力で、我々を助けないであらう。ひとは独り死んでゆくであらう。」人間は死すべき存在である。我々はこの悲惨な自己を見詰ることを避けるために、自己から社会のうちへ逃れてゆく。悲惨と偉大との矛盾は何処に説明と解決とを見出すのであらうか。原罪説はそれに説明を与へる。即ち人間は偉大なるものとして創造されたのであるが原罪によつてこの本性を破壊して悲惨なものとなつたのである。そして神と人間との統一であるところのキリストは人間の両重性に対する象徴であり、キリストによる救済に於てこの矛盾は解決を見出し得るのである。かやうにしてパスカルの人間観はキリスト教における原罪説の神話に現実的な、体験的な解釈を与へたものと考へられる。
デカルトとパスカルとは自覚を出発点とした近代哲学の二つの型を示してゐる。もしドイツ哲学のうちに例を求めるならばフッセルの現象学はデカルト的立場を、ハイデッガーの現象学はパスカル的立場を継ぐものと見ることができる。デカルトの自覚もパスカルの自覚も行為的な、社会的な自覚でない。そして現代における彼等のドイツ的継承者たちの立場も同様である。