東洋的人間の批判


 ヒューマニズムは固より日本のみの問題でないと共に、それは特に日本に於ける問題である。この点について阿部氏は正鵠を得た見解を述べられてゐる。氏はヒューマニズムがこの国に於て特別に問題になる理由を、現代日本の喰違ひの状態に求められる。即ち西洋に於てヒューマニズムのアンチテーゼとして現はれた種々の思想が日本にも一通り行渡つた後に逆に、この国に於てヒューマニズムが新たに問題にされるやうになつたところに、日本に於けるヒューマニズムの特殊な意義がある。そこに、阿部氏によれば、我が国に於て現在なほ、かのルネサンス的ヒューマニズム、封建的なものに対して人間性の解放と合理性の要求とを掲げたヒューマニズムが最も必要とされる理由が有する。我が国に於ては実際多くの封建的なものが今もなほ克服されずに残つてゐる。勿論、既に一日アンチ・ヒューマニズムの洗礼を受けた人間は、ブルジョワ的・個人主義的なルネサンス的ヒューマニズムに最早満足することができぬ。森山氏の力説される如く、現代ヒューマニズムはそれとは本質的に違つたものでなければならない。かくて一方ルネサンス的ヒューマニズムになほ現実的語義が見出され、他方既にそれを越えた新しいヒューマニズムが要求されてゐるところに、阿部氏の云はれる通り、現代日本に於けるヒューマニズムの複雑な、一義的に限定し難い意義がある。
 然るに注意すべきことは、今日我が国に於てヒューマニズムの問題が特に主体的な問題として提起されてゐるといふことである。森山氏が「個人的な」動機について語られてゐるのもそれである。それは岡氏が「身辺的問題」とか「一身上の問題」とか云はれるものであり、私自身は従来それを「主体的」といふ言葉をもつて現はして来た。ひとは主体的な問題を通してアンチ・ヒューマニズムに対し、或ひはアンチ・ヒューマニズムのうちに、ヒューマニズムの問題を発見した。具体的に云へば、ひとは就中、社会情勢の変化に基くマルクス主義の停頓によつて、一層切実にはマルクス主義的運動に於ける自己の蹉跌によつて、ヒューマニズムの問題に出合つた。そこに客観的な問題のほかに主体的な問題が存在することを知らねばならなかつた。かくて一方広義に於ける不安の文学、他方また広義に於ける転向文学がヒューマニズムの問題提出の契機となつたのである。森山氏は死の思想との訣別について語られてゐるが、訣別があるためには先づ邂逅があつたのでなければならぬ。ヒューマニズムの問題はかくの如く差当り消極的に提出された。けれども、そのことは決してヒューマニズムそのものの消極性を意味するのではない。ヒューマニズムが主体的な問題を通して見出されたといふことは、それが何よりもモラルの問題として現はれたといふことからも知られるであらう。森山氏が地球の死滅といふ限界的な観念と対質することによつて文学のレーゾン・デエトルを追求されてゐるのも、主体的な問題の立て方である。日本に於てヒューマニズムが特殊な必要を有するといふことですら、阿部氏の文章からも察せられる如く、主体的な問題の方面から自覚されたことである。即ちかかる必要の理由とされる封建的なものの残存といふことですら、日本の社会の客観的な研究によつて見出されたといふよりも、先づ「個人的な」乃至「身辺的な」問題として見出され、そこから初めて客観的にこの統合を観察するといふ方向に向つたのである。ヒューマニズムは固より単に主体的な問題でない。併しながら科学的真理を尊重し、客観的なものに殉ずるといふ態度ですら、我々にとつては新たに主体的に確立されることを要する事柄である。社会の反動的変化によつてにせよ、一身上の蹉跌によつてにせよ、自己を反省することを余儀なくされた者は、新しいと思つてゐた人間のうちに意外に多く古い人間の要素の存在することを発見せねばならなかつた。ひとは自己のうちに伝統的な東洋的人間に出合つたのである。科学的認識に曇りがないとしても、人間的信念に揺ぎが生じたのである。かやうにして東洋的人間の批判は我が国のヒューマニストにとつて、ヒューマニストたるモラリストにとつて今日特に重要なテーマである。阿部氏が森山氏の所謂死の思想を伝統的な東洋的自然主義の意味に転釈されてゐることも、この点から見て興味が深い。森山氏の云はれる自己の再生と生長とを欲するヒューマニストは、我が国にあつては、死の思想或ひは不安の思想に対し人間の再建のために戦つた西洋の新しいヒューマニストと同じ問題を有すると同時に、更に東洋的人間の批判といふ課題を負うてゐる。現代日本に於けるヒューマニズムが複雑で、一義的に限定し難いのもそのためである。


      二

 私は東洋的人間の批判と云ふ。それは勿論、日本人の他の東洋人に対する特珠性を無視することでないやうに、東洋的人間と西洋的人間との差異を絶対化することではない。かくの如きは却つてヒューマニズムと相容れないことである。併し少くともヘレニズムとキリスト教とが異るほど西洋的と東洋的とは異るであらう。そして例へばジードが譲ることのない誠実をもつてキリスト教的精神と対質してゐるやうに、我々は東洋的自然主義と徹底的に対質することを要求されてゐるのではないか。云ふまでもなく、我々は伝統的な東洋的人間が変化しないものであるとは信じない。却つて人間を生成するものと考へるところにヒューマニズムの立場がある。阿部氏が引用された本(『新しき糧』)の中でジードは書いてゐる、「人間は、初めつから今日ある如きものではなかつたといふ事実が、同時に、何時までも今日ある如きものではあるまいといふ希望を与へる。…商工業の進歩だとか、殊に美術の進歩なぞといふことは何と馬鹿らしいことだ!大切なのは人智の進歩だ。殊に僕にとつて大切なのは、人間そのものの進歩だ。」我々は東洋的人間、我々日本人の新たなる生成を問題にし、この生成の原理をヒューマニズムに於て見るのである。かかる人間の生成の思想そのものが既に東洋的自然主義のうちには存しないものであらう。固より我々が全く西洋的人間になつてしまふと云ふのではない。西洋的人間と云つても、固定したものでなくて可塑的なものである。私の意味するのは、我々がヒューマニズムによつて鍛錬された我々自身の中から新たに生れて来ることである。人間の形式に於ても、その素材である人間の吟味が大切である。然るに素材としての人間も単に自然的なものでなくて歴史的なものである、従つて単なる質料でなく、既に伝統の形相によつて形成されてゐるものである。我々が東洋的人間を問題にし、日本的性格を問題にするのはまさにそのためであつて、決して単なる伝統主義の立場に於てであるのではない。仮に民族的性格の差異は将来消滅するものであるとしても、実践の現実主義は現在それを問題にすることを要求するのである。
 東洋的と西洋的との差異の多くは封建的と近代的といふ発展段階の相違に還元し得るであらう。併しその凡てがさうであるかどうかは、なほ疑問である。そこに西洋のヒューマニズムが我々東洋人にとつては無限定的に問題になり得る一つの理由がある。ともかく、かのマルクス主義文学の流行期が一先づ過ぎた後に於て、我が国の文壇で問題になつてゐる多くの事柄が東洋的自然主義対ヒューマニズムの問題にその根柢を有することは注目に使する。例へば何故にこの国に於て文学の思想牲が特別に問題になるのであるか。また何故に私小説が、作品の社会性が、短篇か長篇かといふことが日本に於て特別に問題になるのであるか、また何故に日本にはこれまで情事小説はあつても恋愛小説はなかつた〔中村武羅夫氏〕と云はれるのであるか。これらの問題のうちに我々は東洋的自然主義対ヒューマニズムの問題の自覚を認めることができる。更に例へば、浪漫主義の支持者萩原朔太郎氏が何故にヒューマニティの擁護者たり得るのであるか。日本には従来純粋な客観主義もなかつたやうに純粋な主観主義もなかつたのではないか。客観主義の有しないところに主観主義の生れやうもないのであり、その逆も云ひ得る。かくて主観主義としてはヒューマニズムを代表し得るのである。日本的思想の特性は寧ろ主観的即客観的、動即静といふが如き「即」といふ字をもつて現はされる考へ方であり、そこに私はこの自然主義の一つの本質を見てゐる。即ち「即」といふ以上、過程的でなく、その意味に於て時間的でなく、従つてまたその意味に於て歴史的でない。東洋的思想のうちにヒューマニズムの思想を敲き込んだ最初の哲学と云つてもよい西田哲学に於てすら、なほ欠乏してゐると思はれるのはかくの如き過程的・時間的・歴史的見方である。
 右に述べた如く、現代日本のヒューマニズムは岡氏の批判される通り無限定である.岡氏がこれに対し限定への要求を掲げられることは尤もである。それは限定されねばならぬ。私自身それを如何に限定するかは、最近他の場所で詳説するつもりである。ただ岡氏が無限定と云はれることのうちには日本の特殊性が無視されてゐはしないかと考へる。無限定と見えるヒューマニズムも伝統的日本的なものに対しては限定されてゐる。そして両者の対質のうちに日本に於けるヒューマニズムの重要な課題がある。勿論、今日の日本は昔のままでないことはこの国に於けるファシズムたる日本主義そのものですらが事実に於て証明してゐることである。従つて我々はヒューマニズムを単に伝統的日本的なものに対して限定することのみに留まり得ない。しかもマルクス主義にとつてヒューマニズムはその前提でなければならぬ。言ひ換へれば、マルクス主義はヒューマニズムを弁証法の真の意味に於て止揚するもの、即ちそれを廃すると共に保有し且つ高めるものでなければならぬ。さもなければ、最近ソヴェート・ロシヤに於ける憲法改正の如きも単なる後退乃至妥協としてしか考へられないことになるであらう。マルクス主義は単なるアンチ・ヒューマニズムであり得ない。マルクス主義の内部に於てもヒューマニズムの力説されることが必要である。そのことはヒューマニズムの伝統に乏しい日本に於ては特に必要である。他方マルクス主義ですらもが、転向その他無数の問題を通して日本的性格とヒューマニズムの問題に絶えず出合つてゐるのである。併しヒューマニズムはファシズム及びマルクス主義に対し「第三の思想」としての積極性を主張し得るかどうか。現代ヒューマニズムの限定の問題は必然的にここまで進められねばならぬであらう。