日支を結ぶ思想


 支那事変を契機として日本の思想にも飛躍的な発展が要求されてゐると思ふ。その著しいものは従来いはゆる日本主義の発展である。日本主義の擡頭は事変前のことに属し、その意味においてそれは事変前の思想である、と云ふことができる。かやうな日本主義は民族主義として自己を主張してきたのであるが、事変の発展は日本主義が単なる民族主義に止まることを許さなくなつた。今日要求されてゐるのは日支両民族を結ぶ思想である。事変の発展は支那における民族主義の強化を促し、三民主義といつても特にその民族主義の要素が前面へ押し出されることになつたのであつて、必要なのはこの民族主義を超克し得るやうな思想であり、いはゆる東亜協同体の理念もかやうなものとして考へられる。
 そのことから今日革新の原理として度々語られてゐる全体主義についても深く考へ直さねばならなくなつてゐる。全体主義は西洋のファッシズム国から来た思想であるが、民族主義であることを特色としてゐる。そのいはゆる全体は民族を超えた何等かの全体を謂ふのでなく、却つて民族を意味するのである。我々はもちろん全体主義が個人主義や自由主義に対して勝れたところを有するのを正直に認めなければならぬ。けれども全体主義が民族主義である点において我々は全体主義に止まることができないであらう。たとひ全体主義といふにしても、それは東亜協同体といふが如き全体を考へての全体主義でなけれはならぬであらう。


       二

 自由主義は合理主義であると云はれるが、その抽象的な合理主義に対して全体主義は民族といふが如き身体的なもの、感性的なもの、直観的なものを基礎としてゐるところに現実的な力を有してゐる。しかるに我々にとつて全体主義は単なる民族主義であることができないとすれば、いま東亜協同体といふが如き一層大きな全体を目標として全体主義を考へる場合、それは何等かの生物学的なものを基礎にするのでなく、寧ろ文化の伝統といふが如きものを基礎としなければならぬ。伝統といふのは自然的なもの、身体的なもの、感性的なものになつた文化のことである。それはパトスのうちに沈めるロゴスのことである。かやうにして全体主義が生物学的な根柢から文化的根柢へその基体を移されると共に、全体主義の思想そのものが現在の非合理的なものから合理的なもの、知性的なものに変らなければならぬ。それは従来の自由主義の抽象的な合理主義に対して具体的な合理性を確立しなければならぬ。
 全体主義に向けられる論理的非難は、それがけつきよく部分の独自性を否定してしまふといふことである。全体主義が論理的にかやうな弱点を有する限り、これによつて東亜協同体といふが如きものを考へる場合、その中において日本が日本として有する独自性も支那が支那として有する独自性も、考へられなくなるであらう。しかるに必要なことは、東亜協同体といふ全体を考へるにしても、その中において日本が日本の独自性を失はないことは固より支那に対しては支那の独自性が認められることであらう。即ち部分はどこまでも全体の中に包まれながらどこまでも独自のものであるといふ論理が要求されてゐる。そしてこの論理を移して考へるならば、一つの全体国家の内部においても個人の独自の自律的な活動が認められるといふことにならねはならない。そこには従来の全体主義の論理とは異る論理が必要である。

        三

 東洋文化の伝統といふ場合いつも考へられるのは「無」の思想である。今後の思想のうちにこの無の思想が何等かの仕方で生かされねはならぬといつても、特に注意すべきことは、東洋的な無の思想がアナーキズムの傾向を多分に含んでゐるといふことである。我々は東洋的なアナーキズムを超克しなけれはならず、一般にただ単に過去の伝統に還ることは無意味である。東洋的なものを重んずることが封建的なものに固執することにならないやうに絶えず注意しなけれはならぬ。すべて過去は現在によつて復活させられるものであるとすれば、如何なる現在の立場から過去を復活させるかが問題である。この現在の立場はつねに進歩的なものでなければならぬ。東洋のルネサンスについて語ることは好い。しかしルネサンスは体なる過去の再生でなく、現在における新しいものの創造の立場からの過去の復活でなければならぬ。そして東洋のルネサンスにおいて問題になるのは矢張り新しいヒューマニズムであると思ふ。従つて東洋文化の復興といつても、そのヒューマニズム―西欧のヒューマニズムとは必ずしも同じでない東洋的なヒューマニズム―の要素の復興が主要な目標でなけれはならないであらう。
 西欧におけるルネサンスの時代は中世の教会的な世界主義が諸民族の国家の擡頭によつて分裂した時代であつた。今日は或る意味では同じやうに近代自由主義における世界主義の分裂の時代であると云ふことができる。けれども今日はあのルネサンスの時代のやうな民族主義に止まることができない。そこには世界主義の東亜協同体といふが如き民族を超えた一層大きな組織への再編制が見られる。現代はブロック時代であると云はれるのもその意味である。しかるにこのやうに世界が一層大きな単位に再編制せられねばならぬといふことは、あのルネサンスの民族主義の時代に比して今日は世界といふものが一層現実的なものになつてきたことを意味するのであつて、その限りそれは逆に見れば世界主義の勝利であり、新しい世界主義の要求を含むものでなければならぬ。
 それ故に東亜協同体といふものを考へるにあたつても、これを単に閉鎖的な体系として考へることは許されない。全体主義はその論理的構造において単に閉鎖的な体系であるといふ故障を有してゐる。東亜協同体は世界的な連繋において考へられねばならぬ。それは、生物学者の用語、そしてベルグソンが彼の哲学に通用した用語に従つて云へば、単に「閉ぢた社会」でなくて同時に「開いた社会」であることを要求されてゐる。それは閉ぢたものと開いたものとの弁証法的統一であるべきであり、かやうなものとしてそれは具体的に世界的な意義を有し得るのである。今日、東亜協同体について語る場合、これを体に閉鎖的な体系として全体主義の原理から考へる傾向が見られるのは注意しなければならぬ。東亜協同体を世界史的な立場において考へるには、それが近代資本主義の問題を解決すべき課題を負はされてゐるといふことと共に、東亜協同体といふが如き思想は世界といふものが歴史の発展において次第に現実的になつてきたことから必然的に生れたものであるといふことを忘れてはならない。