西田博士との対談
日本文化の特質
西田幾多郎博士との一問一答
三木 いま日本精神とか日本主義とかいふものが問題になつてゐますが、それに就いて日本
文化の根本的特徴とは何か、先生の御意見を伺ひたいのですが…。
西田 それはまだよく考へてをらんのだが、大体、私は、日本といふのは、東洋のうちのひと
つの国には違ひないけれど、支那とか印度とかとは違つてゐはしないかと思ふ。ある意味ではギ
リシアなんかと似てやしないかと考へてるんだがね。ギリシアでも自然といふものが人間と対立
してゐたと云ふより、どう云ふか、まあ親しみがあつたのぢやないか。そんなところが日本にも
ありはせぬか。日本人は感覚的で、受容的で、進歩的なところがある。ギリシア人は主知的だけ
れど、日本人は情的で、ギリシア人は彫塑的だが、日本人は音楽的な処がありはしないかと思ふ。
これまでの日本人は、自分で固定した文化を持つと云ふより、いろいろの文化を受け入れて、そ
のうちに日本的な情と云つたもので、音楽でものがつながつてゆくと云つたふうに日本化してゆ
くのだ。音楽は形がないものだが、しかしこれは形がなくてしかも形があるものだとも云へる。
とらはれずに他のものをよく採り入れて日本化してゆくが、同時に一方では全く非合理的に感情
的に働くことがある。だから何時でも日本は他のものを採り入れておいて、又一方反動的に極端
な排外にもなることがある。
さう云ふ情的文化はいはゆる形を持たぬから、弊とすれは、ごく小さなものになる。鳥羽僧正
の画でも大雅の画でも、すつかり脱俗してゐるが…あんなやうに形のないものになるのは、日
本人の気分から出てくるのぢやないかと思ふ。だからして日本の文化が世界的に進んでゆくのに
は、どうなるか。若しそれがひとつの特徴として出るなら、音楽が形を持つといふやうな意味で
世界的意味を持つてくるんぢやないかね。生命はものを形作ることを本質とするが、それにはギ
リシア式の彫塑的なものもあり、近代の科学的のものもあるが、それと共に音楽的なものもある
筈で、世界文化においてこれは特色のある形だと思ふ。音楽的なところがあるので、日本精神は
ベルグソンなんかと結び付くとも考へられるわけだらう。これには必ずしも同意しないが、ベル
グソンは形のないもので、音楽には形もあるとおもうふ。しかしこの問題は今考へてゐないので、た
だそんなふうに感じてゐるだけだが…。
三木 これまで日本人は物を対象的にみることが十分できなかつたんぢやないでせうか。画に
しても遠近法がなかつたやうに。
西田 それは日本文化が世界的文化としては不足してゐる点だ。しかし対象的なものも、どこま
でも対象化されぬものを持つてゐる。空間的なものにも時間性があると思ふ。これからは、対
象的な方面を対象化しないと云ふのでなく、対象化されないものに形を与へること、いはば音楽
の対象化と云つたことが大切で、これは日本人に出来ない事でないと思ふ。西洋哲学にも何かそ
こに足らんものがある気がするからね。
三木 西洋人の云ふ体系的哲学は日本人には出来にくいやうに見えますね。
西田 まあさうだが、歴史的文化としてはやはり対象的なところ、音楽が形を持つと云つたことが重要だ。
三木 日本文化と儒教とはどうでせう。
西田 それは違ふ。儒教と本来の日本とは違つてゐると思ふ。東洋的でゐてギリシア的と云ふ
ことが日本的だらう。日本は先進国としての支那の影響を受けてはゐるが、漢学者の考へるやう
ではない。
三木 儒教のために日本文化が自由なものでなくなつたことがあると思ひます。しかし儒教も
先生のおつしやるやうに情的な日本の文化に鍛錬を与へるには役立つたとは思ひますが。
西田 日本精神を儒教的に考へるのには一致できないね。
三木 この頃日本でも流行してゐるハイデッガー、ニーチェなんかのニヒリズムの無と東洋の
無と根本的にどう違ふでせうか。
西田 それは違ふね。東洋の無は、現在が無だが、西洋の無は有から考へられてゐると思ふ。東
洋の無は、無が有なんであつて、つまり現在が無だといふところがある。無が現在だといふこと
が西洋にはない。ハイデッガーの無も極限のやうなものであり、ニーチェはずつと現実的だが、日
本人は現実そのものが無だといふやうに考へる。ニーチェの超人は高山樗牛あたりが平清盛と似
てゐるとか云つてゐたが、日本人は本来ニーチェの超人と云ふ風にゆくのでなく、熊谷直実が蓮
生坊になると云ふ風なのぢやないか。何処までもすべてを否定してゆく、イプセン、ニーチェ流
にではなしにね。自然と云ふものも、自然に自分が入るので、ニーチェが現実を否定したものは
力強いものだが、それが日本人では自然の中に入つて精進して得られると云ふやうな違ひがある。
支那ではどうかな、熊谷蓮生坊みたいなのはゐるかな。上杉謙信が武田信玄に塩を送つたとい
ふやうな処は西洋人には考へられないことぢやないかね。全く相反するものが一つに結び付く、
その根柢には無がある。敵味方がいつでもひとつになれる。その代りすぐ妥協したり、主義に忠
実でない処もある。主義が重んぜられないで、ただ感情で結び付いて親分乾分のやうなものがで
き、何でも情実関係でゆく。これは悪い点だ。何処までも対象化してゐると同時に情的な統一と
云ふものがなくてはいけない。それができると、日本としての特色のある大きな文化ができるの
だ。もつと深い大きいものが要るね、思想でも文学でも。
三木 それでは現在の哲学の中心問題はどういふものでせうか。
西田 近世の哲学は一方主観を基礎としてゐた。中世哲学はキリスト教のドグマで支配されて
ゐたが、それがルネサンスになつて人間、つまり主観に帰つて、デカルトの哲学のやうなものが
出来た。他方中世の権威的な、宗教的な哲学から解放されて、経験に帰つて、ベーコンみたいな
経験派の哲学が出来た。ドイツ哲学はこれら二つの立場を綜合しようとしたとも見られるが、し
かしカントの主観から始まつてやはり主観の立場から客観をみたので、どうしても主観的にとど
まつてゐる。客観から出番して、経験や科学を基礎とする哲学ではまた、どうしても主観−人間
の自由までも含む事はできない。マルキシズムなんか単なる客観主義でないとしても、本当の個
人まで包むことはできないだらう。それで本当の出発点は現実からでなければならない。現実は
主観的で客観的であり、時間的で空間的であり、現在の世界とは動く世界である。
今までのものの考へ方は、主観客観のどちらかから出発してゐるのだが、主観客観を包む論理
がなくてはならぬことになる。さう考へると、近世の主観客観が対立してゐるやうな立場よりも、
元へ戻つた方がよくはないか。ギリシアには主客の対立が発達しなかつた。その意味で幼稚とも
云へるが、両方を含んだ岐れる前のものがあつたので現代の哲学はギリシア哲学にまで帰つてみ
なけりやならんと思ふね。
ギリシア人のロジックは普通いふ形式論理だが、実在は表現的なものと考へられた。この頃は
表現を主観的に考へるが、表現は我々を動かす力を持つてゐる。現実のものはみな表現的で、表
はれるものはロゴスであり、ロゴスによつて実在を捉へるのである。アリストテレスのロジック
は抽象的ではあるが、メタフィジツクとひとつのものだ。ギリシアの実在はプラトンのエイドス
(イデア)で、ロゴス的なものであつた。ヘーゲルが論理と形而上学とを一つに考へたのはギリ
シアも同じだ。いま我々は、主観客観、空間時間を包むやうな論理を持つ必要がある。
近代では主観は論理の外にあることになるが、主観も考へられる以上、論理のうちに入らねば
ならぬ。ギリシアでも主観客観は別々でなく、心理学もアリストテレスは論理の立場で考へてゐ
る。それが必要だらう。ヘーゲルはさう考へてゐた人だと思ふ。へーゲルの弁証法的論理は主観
客観両方を含んでゐる。それならヘーゲルでよいかと云ふと彼の論理では働く個物と個物との関
係が考へられない。働くのはいつでも個物と個物とが働くので、つまり全く独立なものが関係す
ることである。これはヘーゲルの立場からは出てこない、彼がアイデアリズムになつてしまつた
訳で、働く個物と個物との関係が彼の論理では考へられないからだ。世界をガイスト(精神)と
いふ一つのものの発展と考へるヘーゲルの論理が真の弁証法にならないことを示してゐる。弁証
法では本当に相反するものがなくてはならぬ。絶対に独立なものが結び付くこと、私のいふ非連
続の連続でなければならぬ。ヘーゲルは時間的で空間的にならぬ。だから反対にマルキシズムが
考へられてくる。要するにこれまでの哲学は実在を考へても、対象化してみてをり、そのときは
働く自分が入つてをらない。客観主義がそれで、さうかと云つて今度は世界を自分のうちに入れ
ると主観主義になつてしまふ。
現実の世界はその中で自分が働いて死んでゆく世界なので、このやうな世界を考へることが昔
から欠けてゐる。主観即客観と云ふと、例の主客未分の状態を考へてゐると云はれるが、あれは
一種の神秘主義で、神秘主義は主観主義である。私の考へを神秘主義と云ふのは誤解だ。私は、
実在は歴史的な物であると考へる。歴史的な物は主観的客観的なものである。このやうな実在を
考へるには現象学でもカント哲学の立場でも駄目だと思つてゐる。これからは歴史哲学が哲学の
中心問題にならなけれはならぬ。それにはこれまでの方法でなく新しいロジックがなくてはなら
ないね。
三木 それでは歴史的実在の構造はどう考へられますか。
西田 歴史的実在は時間的印空間的の世界として、言ひ換へると、直線的即円環的なものとし
て成立すると考へる。さう云ふ世界は、どんな構造をもつてゐるか。いつでも現在から考へてゆ
くので、現在は時間と空間がひとつになり、時間的は主観的、空間的は客観的として両者の統一
であり、そこに個性が出てゐる。どこまでも空間的であつてどこまでも時間的で、矛盾を持つて
動いてゐる。歴史の動きは発展と云はれるが、ひとつの時代から次の時代へ移つてゆくので、現
在から現在へ移つてゆくと考へられねばならぬ。時代は個性を持ち、個性的統一の方へ向つてゆ
く。時が熟すると云はれるやうに、時代は熟してゆくのだ。そして或る処でそれ自身がデカダン
に亡びて、次の時代へ移る。しかし時代と時代とは結び付いてゐる。真の現在においては、過去
と未来とが同時存在的である。過去がただ過ぎ去つてしまつて現在と関係がなければ過去とも云
はれない。また未来もそこに含まれてゐなければならぬ。真の現在は円環的で、過去、未来を包
んでゐる。過去は無いが有る。未来も同様で、現在において無限の過去も未来も結び付いてゐる。
これを「永遠の今」と呼ぶので、時が無いといふことではない。
三木 そのやうなお考へから出発して、国家といふものはどう考へられますか。
西田 それはシステムに入ることになるので、むつかしいが、今云つた通り歴史は時代から時
代へ移る。現在から現在へ移つてゆく。いつでも中心が出来、個性をもつてゐるが、それが壊れ
て、次のものが出て来る。歴史の動きはメタモルフォーゼ(転態)と云つてよいと思ふ。メタモ
ルフォーゼの思想はゲーテにもある。ゲーテはウルプランツェ(原植物)とかウルティール(原
動物)とかいふものを考へた。例へば哺乳動物にはそのウルフォルム(原形)があつて、どれに
もそれが現はれる。首の長い麒麟も首のない鯨も同じウルフォルムを持つてゐる。歴史の現在で
は無限の過去と未来が同時存在的であり、歴史の各時代は全世界の意味をもつてゐる。一時代は
ウルフォルムの何処かの点が中心となつて出来、首のない鯨の時代もあれば、麒麟の時代もある
といふ風だ。ゲーテの思想には非連続の考へ方が足りない。歴史においては一時代が死んで、次
の時代が生れる。そこでウルフォルムがあるとして、ウルフォルムの1ノ形、2ノ形、3ノ形と
考へてゆくと、ここに特殊化の原理が考へられる。
現在の歴史はひとつのウルフォルムの形で、それは時間的に考へると動いてをり、空間的に考
へると止まつてゐるが、いつでも時間的であると共に空間的である。歴史は時代から時代へ移つ
てゆくが、そのやうに移る代りに同じ時代が繰返されると考へれば物質界になる。物質は空間的
で、それに時間を加へると生物的になり、空間と時間とがひとつになつたとき文化の世界が出来
る。国家は特殊な社会であつて、生物の種のやうに考へるとよい。国家は生物的であるが、同時
に表現的統一をもつた国債である。そのやうな表現的統一として法律の如きものも考へられる。
表現は我々を動かす命令の意味をもつてゐる。国家は表現的なもので、その形成作用の内容とし
て現はれるものがイデーである。国家はイデーを持つことによつて個性を持つのだ。つまり国家
は文化世界における生物の種みたいなもので、生物的であるが、それがイデーを持つたときに出
来る。まあ、そんなやうに考へたらいいだらう。
三木 先生のお考へは世間では自由主義だとかインタナショナリズムだとかいふ風に批評する
者もをりますが、それに対してどうお考へになりますか。
西田 国家は生物の種(スベシーズ)みたいなものだが、伝統を持つたものだ。凡てものは他
者に対してものであるのである。さうすると、そこに媒介するものがなければならず、インタナ
ショナルと云ふものはその媒介作用をするものだと思ふ。それを除いては国家も考へられない。
国家がイデーを持つことは普遍性を持つことで、そのために個性が無くなるのではない。歴史に
おいて在るものはすべて他との関係を持つてゐる。文化も相互作用において作られるのだ。その
やうな普遍性を離れては、国家は全く生物的なものになつてしまふ。もちろん普遍性のみで国家
はできるとは考へぬ。現在の国家主義は国家が孤立できぬから唱へられる国家主義で、国家が世
界を離れることができないから、おのおのの国家が国家でなければならぬための国家主義だらう。
日本の特殊性は世界的に云つて音楽的なところにあるので、音楽が形を持ち、世界にそれを与へ
ることができなけりやあ日本精神は何の役にもたたん。これからの日本文化はそのやうな形から
作つてゆかねはならない。それは儒学などからはどうも出て来ないね。
三木 日本精神を儒学で説明するのは疑問ですね。
西田 あれは水戸派が持ち出した。本居宣長は素直だが…。
三木 いま読んでみると宣長は面白いですね、歴史なんか一番判つてゐたんでせうね。
西田 さうだ、歴史と云ふ考へになるんだね。
三木 過去の日本には学問的な意味での哲学はなかつたとも云へるでせうが、これから我が国
で哲学が出来るとすれは、どのやうな道を辿るのでせうか。
西田 西洋哲学を突き抜けてゆかなくちやあならない。哲学は学問の形にならなくちやあなら
ぬからね。支那には儒学、易学なんぞがあるが、それからは行きやうがないやうだ。仏教もいい
ところがあるが、あれからどうもゆけぬやうに思ふ。だからやはり西洋哲学を突き抜けて生きて
でた、そして特殊な考へ方が出来て、我々の心臓のうちにあるものをつかむことが必要だ。今日
の日本の軍隊が強いのも、信玄や楠正成の兵法から出たのでなく、西洋の兵法で勉強したお蔭だ
らう。学問だけはそれがいかんと云つては因る。軍人が西洋式を採つたやうに、学問も西洋流に
やることだ。そしてそれを突き抜けることだ。徹底的にやるんだね。フッサールやハイデッガー
が流行ると云つて、すぐそれをやつてみると云ふ風でなしにね。先づギリシアから根本的にやる
んだね。
三木 この頃は日本精神の問題が流行るので、西洋哲学をやつてゐる人で途中から転向するの
もあるやうですが。
西田 あれは国家の将来を謬る。それぢやあ元へ戻ることになる。これからの日本の哲学は何
処から出るか。今日の軍隊は何から出たか。孫子などからは出なかつたらう。事実の問題だね。
哲学も現在の学問から結び付いてゆかねばならぬ。梅干と竹槍では今の戦争はできないからね。
ところが、これまでの日本文化には発展性がないのぢやないかと思はれる。例へば謡曲だ。どこ
にもカッフェがある今日に、あれをどうして発展させられるか。まさか新しいものを作れまいし、
茶の湯だつて今風にやれまい。尤も椅子に腰掛けてやるなんてのもあるさうだがね。過去の日本
文化は凡てフォームが発展し切つてゐる。現在は新たなフォームから作つてゆかねばならない時
代なのだ。このテーブルをもつと上品に作ることなら今でもできるが茶の湯の新しいフォームは
まづできないね。日本の若い人はもつと大きな問題を掴まないといけないね。
三木 それはすぐ生活と結び付けたがるからでせう。
西田 さう、だから深い大きな研究は出ない。
三木 哲学でも、それをすぐ教育の実際に用ひたがると云ふやうに。
西田 ある処で話をしたとき、青年団のやうな服装をした男がゐて居睡りしてゐたが、最後に
何とか一言葉で要点をつかみたいと云ふやうなことを云ふ。
三木 ちやんとした結論が欲しいんでせう。
西田 結論は何もならん。どの途をとつてどう結論するかが問題だからね。学問の研究でも、
二、三年のうちに何か出してみせないと満足しないと云ふ…。
三木 そのやうな実際主義は日本人の特徴でせうね。
西田 今まで他から根本の原理を貰つて、ただ応用するだけだつたからかも知れんね。
三木 日本の文化には伝統がなく、クラシックが確立してゐませんね。そして現在のやうな状
態ですと、明治以来せつかく出来たものが孤立して次の時代から離れる危険があるんではないで
せうか。
西田 それが文化には大事なものなんだが。日本人は本当に自分で考へてみることがない。新
しいものがいいとして流行を追うてゐる哲学でも、問題でも一致すりやあいいんだが、バラバラ
で統一した点がない。学界にも共通の問題といふものがない。日本に学会なんてあるかどうか知
らぬが。
三木 問題のマルキシズムは、これからどんな方向に向ふのでせう。
西田 あの立場が進めは、主観に独立の意味を認めなくちやならんと思ふ。弁証法的物質とい
ふやうなものは、ただ客観的に考へられるものでなく、主観的の意味をも含まねばならぬ。現在
云つてゐるやうでは、意識はどうして出るか、文化は何処から出るか判らない。ただ出ると云ふ
だけで、哲学的な説明がついてゐない。弁証法は主観的なものを客観的と許さねばならぬ。マル
クスは主観客観のひとつになつた歴史の形成作用といふものを考へてゐるやうに思はれるが、エ
ンゲルスになると却つて十八世紀の唯物論に逆戻りしたやうなところがありはしないかね。この
頃の人は自分と違つた立場を、ただ、ブルジョア的だと云ふだけでい何も深い説明があるわけで
ないんだな。
三木 マルクスとエンゲルスとでは思想家として格段の相違があると思ひます。エンゲルスは
マルキシズムを善い意味でも悪い意味でも通俗化したのでせう。それにロシアのやうな、哲学の
伝統の比較的浅い国では、単純な理論で満足されるといふこともあるのでせう。そのうへロシア
人には一面なかなか宗教的なところがあるやうですね。
西田 ドストイエフスキーなんかは物質的で精神的だが、エンゲルスはわしには判らん。つまらん
と思ふね。マルキシズムの哲学的基礎と云ふと、いつもエンゲルスを担いで来るのだが。自
然弁証法の中で、量が質になり、質が量になると述べ、例として運動が熱になることを云つてゐ
るが、あれなども怪しなものだと思ふね。
三木 将来の文化において宗教はどのやうな位置を占めるでせうか。
西田 人間は単に内在的なものと考へられない、超越的な意味をもつてゐる。超越的であると
共に内在的だ。動く世界は内在的で超越的だ。それが人間の世界で、そこにいつでも超越的なも
のとの結び付きがある。人間は単なる物質、単なる生物とは考へられぬ。しかし理性的のみでも
ない。自由意志はこの世界から離れて考へられず、この世界にゐて考へられ、また、この世界か
ら出てくるもので、超越的なものはそのやうな人間存在の根拠となるのだ。文学者でもエリオッ
トなんか、よほどそんな考へを持つてゐる人のやうで、キェルケゴールあたりの考へもそれだら
う。宗教は文化の根柢と考へられる。例へば創造といふことにしても、超越的で内在的だから創
造的なのである。宗教のことも、いづれ詳しく書きたいと思つてゐるのだがね。歴史の世界は表
現の世界であるが、キリスト教の神の言葉(ロゴス)といふ思想は、歴史の世界の意味をよく表
はしてゐるんぢやないかと思つてゐる。
三木 表現といふのは、突き詰めると、どういふことでせうか。
西田 表現といふのは自分を否定し他者において自分を見るといふことだ。それがまた働くと
いふことの意味で、働くといふ場合、二つのものが関係するので、そこにはいつも、自分を否定
し他において自分をみて肯定するといふ意味がある。マルキシズムは意識は零すものと云ふが、
写すとは働くことだ。歴史の世界は表現として、言葉といふものについて深く考へてみなけりや
ならん。
三木 グラトリが言葉について書いてゐるのは面白いですね。
西田 フランス哲学にはいいものがある。あれを掴むことが大切だ。