日本的性格とファッシズム

      一


 日本にファッシズムが来るか。勿論、それは既に我が国に現われているとする見解が有力である。ファッシズムが今後日本において出現するにしても、乃至は現在よりも強化されるにしても、それが根本においてこの国の社会的経済的事情に依存することは云うまでもない。勿論、それは今後の世界情勢の変化に依存することでもある。併し更に日本的思想の性格とファッシズムとの関係を考慮に入れることが必要である。例えば仮に従来の日本的思想がファッシズムの出現にとって好都合な性格を有するとしよう。そのときには、現にファッシズムとは関わりをもたぬ純粋に日本的なものとして唱道される思想のうちにおのずからファッシズムが忍び込んでいるということが容易に生じ得る。またそのときには、実際は既に日本にファッシズムが来ているにも拘らず、未だ来ていないと考えたり、それが既に強化されているにも拘らず、未だ微弱であると考えたりするようなことも起り得るのである。かくの如き誤解乃至誤認は、勿論、思想の現実的基礎をなす社会的経済的状態の客観的研究によって訂正されることができ、また訂正されねばならぬ。併しながら他方例えば日本人及び日本的思想が模倣性に富み、外国の思想に感染し易い性格を有するとすれば、その現実的基礎の状態に相応するよりも先走りしてファッシズムを導入し乃至は強化させるというが如きことも起り得るのであそ。かくして日本的性格とファッシズムとの関係について考察することが必要になって来なければならぬ。
 しかし何が日本的性格であるかを定めることは決して容易でない。近年日本主義の流行と共に日本的なものに関する論議は甚だ盛んであるが、論者の間に一致した意見が存在するようにも見られない。先ず何よりも注意すべきことは、それら日本主義者の議論の多くは方法論的基礎が薄弱であり、歴史哲学的反省が欠乏しているということである。彼等の議論の根抵となっているものは、おしなべて所謂実際主義的歴史観に属すると云い得る。この史観の特色は現在の行動のために有用な教訓を引出して来る意図のもとに過去の歴史を観察するところにある。実際主義的歴史は教訓的歴史である。この種の歴史は支那において特別に発達を遂げ、厖大な支那史籍はその世界的典型である。我が国の歴史叙述は古くから支那史学の影響を受けたということもあって、歴史を「かがみ」と見る実際主義的傾向を強く示している。それは日本的性格の顕著なものとして挙げられるのをつねとする実際主義の一つの現われであるとも見られ得るであろう。勿論、西洋にも実際主義的歴史観、教訓的歴史が存在しないわけではない。併し近代史学はかかる歴史を非科学的として斥け、それに代えて科学的な歴史即ち発展史と称せられるものを発達させた。我が国においても明治以後西洋史学の影響のもとに、文献学的方法、文化史的方法、唯物史観的方法等が唱えられ、科学的な、発見史的な歴史への努力がなされて来た。最近における国民主義的歴史はこれに対して反動的意義を有するものである。発展史的見方は以前の実際主義的見方に逆転し、特殊な事実が全体の発展過程から孤立させられ、世界史的連関から抽象されて観察され、誇張されている。反動思想は反動史学を生み、反動史学は反動思想に仕えている。自己の主観的な目的に利用するために特定の事実、事実の特定の方面のみを歴史の全体の発展の連関から孤立させて取り出し、これが日本的なものだと云っても、科学的だとは認め難いであろう。発展的歴史から実際主義的歴史への反動は、我が国においては、前者の伝統が若く、後者の伝統が古いだけ、人々の注意を惹くことなしに容易に起り得ることである。勿論、実際主義的歴史の動機が凡て無意味であると云うのではない。如何なる歴史も現在の立場から書かれる、これは歴史的認識の根本的制約であって、実際主義的歴史観がこのことを事実において強調して行っているとすれば、それは理由のないことではない。然るに事実において行っていることは理論において認められ、科学的自覚に持ち来されることが大切である。言い換えれば、歴史考察における自己の立場が主観的に陥り易いのを考えて客観的に反省することが大切であり、そのためにはそれを歴史の全体の発展過程において、且つ世界史的連関のうちに眺めるということ、即ち真の意味における歴史的自省が要求されるのである。
 ところで近頃日本的なものを唱道する多くの人々にはかような歴史的意識が欠乏しているように思われる。差当って注意されることは、日本的なものを決定するに際し、それを或る者は日本歴史の上代に、他の者は王朝時代に、更に他の者は降って徳川時代の中に求めるというように、多くの場合において発展史的な連関が見失われている。かくの如く人々によってそれぞれ異なる時期が謂わば特に日本的な時期として挙げられるということは、一面から見れば、日本人の意識にとって古典的時代ともいうべきものが一定して存在しないということを示しているであろう。いったい日本歴史の如何なる時代が古典的時代であるかと問われるならば、我々は西洋の諸国民と同様に容易に答えることができないであろう。少なくとも神道家と儒者と仏教家とが一致して承認し得るような日本の古典的時代というものを見出すことには困難が感ぜられる。我が国の昔の優秀な儒者、仏教家の中にさえ、そのような古典的時代を却って支那の如き外国において考えた者があった。かくの如き意味において統一的な古典意識の欠乏は、我々がそこに日本的性格の探求の一つの端緒を認め得るような日本の特殊性に属している。併しまたそのことこそ、日本的なものの決定に当っては従来の歴史の全体が観察されねばならぬという方法論上の必要を強調していることでもなければならぬ。然るに事実は反対に近頃日本的なものを高唱する人々の観察からは明治時代、恐らく後世の日本人がこれをもって日本の古典的時代と考えるであろうとさえ想像し得る明治時代が除外される傾向がある。明治以後は西洋模倣の時代として、外来思想によって日本的なものが失われた時代として、彼等から排斥されるのがつねである。けれども事実としては、明治時代こそ日本歴史において真に国民的統一が成立した時であり、真の国民主義が現われた時である。この点において日本も世界の歴史の何等例外をなすものでないと云い得るであろう。ヨーロッパにおいても封建社会から近代的社会へ移って行ったルネサンス以後の時期は近代的国家の成立の時期であり、国民主義勃興の時期であった。勿論、その場合にも明らかに日本的特殊性が存在している。何が日本的性格であるかを知ろうとする者は必ずしもつねに昔の日本に還ることを要しない。現代の日本のうちにも日本的性格は現われている。或る意味では却って現代の日本の研究が日本的性格の究明にとっても最も重要であると云うことができる。なるほど明治以後の日本は西洋思想の影響を受けている。併しかかる西洋思想の受け入れ方そのもののうちに、嘗て我々の祖先が仏教思想や支那思想を受け入れた場合におけると共通のものが存在しないであろうか。その共通性のうちに日本的性格が考えられねばならぬ。外国思想の輸入も決して偶然に行われるのでなく、自国の現実の発展がそれを要求するに至るのである。
 右の方法論上の欠陥は今日実践的な日本主義者のみでなく、観想的な日本主義者、世間でも自分自身でも理論的で、学者的であると思っている日本主義者においても同様に見出される。後者もまた日本的なものについての彼等の考察から現代の日本を意識的に或いは無意識的に除外し、従って真に発展史的な見方が欠乏している。彼等は歴史というものが単に過去の歴史でなく、却って現代の歴史であることを理解しない。ところで特に考慮を要する問題は、それら凡ての国粋主義者たちが恰も日本的特殊性であるかの如く主張するものが実は何等特殊性でなく、却って歴史の一般的な発展段階の異なる時期に属するに過ぎぬものでありはしないかということである。一層具体的に云えば、事物の現象形態に囚われることなくその本質を捉えるとき、彼等が日本的なものとして唱えるものは封建的なものであり、そして彼等が西洋的なものとして斥けるものは近代的なものであり、従って西洋においても近代に至って初めて現われたものであるということ、またそのようにして日本的と考えられるものも資本主義以前の西洋の社会に存在しており、そして西洋的と云われるものも日本の社会が資本主義的になると共に必然的に現われざるを得なかったものであるということがないであろうか。発展段階における相違に過ぎぬものを民族的特殊性そのものの如く敷き違えることのないようにすることが大切である。このことも我々が国粋主義者に対して掲げねばならぬ方法論上の要請である。この要請は、我が国においては現在なお封建的なものが多く残存しており、そのために日本的なものと封建的なものとが混同されて同じに視られるということが生じ易いだけ、重要である。このような混同もまた事物を真に発展的に見ることによってのみ除去され得るものである。
 然るに事物を発展史的に見ることは、それを真に実践的な立場から、もしくは生産の立場から見ることにほかならない。日本的性格の究明にとって現代の日本の研究が特に重要であると云うのも、この立場においてである。今日人々が日本的なものとして挙げているものの多くは既に過去のものに属しており、現に過去のものに属しつつある。我々と雖も、その美を理解し、享受し、歎賞する。併しながら我々がそれに満足し得るのは観照の立場においてであって、ひとたび生産の立場に立つとき、我々はそこに不安を感ぜざるを得なくなるであろう。例えば我々は純日本建築の線の美しさ、木肌の美しさを知っている。けれども今日の社会が必要とする多数の工場、公共的建造物、また今日の生活諸条件に制約されて次第に増加して行くアパート等を建てようとする場合、西洋式建築を排して純日本式を採ることが可能であろうか。西洋式建築が出来れば、その装飾には洋画が要求されるようになる。我々はまた例えば日本文学の本質が、あわれ、さび、わび、しおり、幽玄、風雅等にあることを教えられ、そしてそのことを理解する。併し今日多数の青年が映画館へ行くこと、西洋音楽のレコードを聴くことに最上の快楽を覚えている場合、創作に従事する文学者は、あわれ、さび、風雅などを自己の文学の精神として固執することに安心し得るであろうか。建築、美術、音楽、文学、科学、哲学、宗教等、社会の一時代のあらゆる文化は相互に密接な連関をなしている。然るに今日人々が日本的なものとして挙げているものには、現代の日本の社会の経済的、技術的、科学的文化の連関から蒋離し、孤立しているものが少なくないように思われる。逆説的に云えば、それらのものは現在の物質的並びに精神的文化の連関から游離し、孤立しているが故に、「趣味」として、「教養」として悦ばれるのである。そこには最早活発な創造的精神は存しない。皮肉にも、人々の所謂日本的なものは現在多数の日本人にとっては「趣味」となり、「流行」として感ぜられるようになっている。かくの如き状態に満足し得ない者は日本的なものを発展的に把握しなければならぬ。単なる享受の立場に立つのでなくて生産の立場に立つとき、過去の日本的文化が如何に美しいにしても、我々は最早それと同様のものを同様の高さにおいてみずから生産し得る条件を今日の現実の社会のうちに有しないのである。勿論、我々は西洋思想の単なる模倣に甘んじ得るものではない。文化の創造にとって伝統の大切なことは云うまでもないが、過去の伝統と如何に結び付くかということは現在我々にとって特別に困難な問題となっている。この困難は、右に触れた古典意識の問題とも関連し、そのうちに我々が日本的性格を探り得るほど日本において特殊的なものである。更に附け加えて云えば、単なる特殊性はそれ自身無価値である。ただ日本だけで通用して支那では最早通用せず、理解もされないような原理を日本精神として高唱するのみでは、昔の日本ならばともかく、今日の世界における日本としては甚だ不十分であると云わなければならぬ。
 周知の如く、日本には現在なお多くの封建的なものが残存している。かかる封建的なものを直ちに日本的なものそのものと見傲すことの誤謬は既に述べた通りであるが、翻って我々の実践の立場から考えるとき、西洋諸国に比して日本には多くの封建的要素が現在も存在するということがそれ自身一つの日本的性格を形成していると考え得る。かかる意味における日本的性格を問題にすることは、ファッシズムと日本的性格、乃至はファッシズムの日本的性格について考える場合、特に必要なことでなければならぬ。西洋は個人主義であって日本は全体主義であるというのは、近頃有名な命題である。それは全然理由のないことでない。併しながら西洋においても個人主義が発達したのは主として近世に属し、それ以前も個人主義的であったとは云えぬ。従って今日全体主義を標榜する西洋のファッシズムの理論のうちには多くの中世主義の要素が取り入れられている。一方日本においても資本主義の発達は必然的に自由主義、個人主義を発生せしめ、家族制度等の如きも次第に危機に瀕していることは何人も否定し得ぬ事実である。しかも資本主義は西洋の単なる模倣というが如きものでなく、遥か明治以前から日本の社会のうちにそれへ発展せねばならぬ内在的原因が存在した。なお我が国に比較的多く全体主義的なものが現存するとすれば、それは我が国における資本主義の発達が急激であり、自由主義や個人主義が十分に成熟し得なかったということに基づいている。勿論、そこには地理的、政治的等の特殊事情が認められる。日本が島国であること、徳川幕府が鎖国政策を行ったこと、その他の原因はこの国における個人主義や自由主義の発達を抑圧したであろう。デュルケームも云った如く、人間の個性や自由の発達には社会の範囲の拡大が必要である。日本の社会が比較的閉ざされた社会として存在して来たということは全体主義的観念の発達にとって好都合なことであったであろう。併しながら固よりファツシズムはその本質において封建的イデオロギーそのものでなく、却って資本主義の現在の段階に相応するイデオロギーである。この点において今日の日本主義も外国の全体主義即ちファツシズムに対して例外をなすものでなく、日本における資本主義の行詰りから生れて来たものにほかならない。かくの如き意味において日本主義は何等日本的でなく、世界的である。それだから他方日本主義のみが日本的性格を有すると誇称し得ないことにもなる。日本主義が果して日本的なものの代表者であるか否かも甚だ疑問である。寧ろ一部の人々がみずから率直に認めているように、今日の日本主義はファツシズムである。ただ現在の日本の特殊性、即ち封建的なものが比較的多く残存しているということ、個人主義や自由主義が十分に発達していないということは、このファツシズムの日本的性格を規定している。また右の日本の特殊事情はこの国におけるファツシズム的支配にとって有利な条件の一つであろう。併し問題は、封建的なもの即ち日本的なものでないというところに横たわっている。
 外国のファツシズム、例えばドイツ主義を唱えるナチス等に対してファツシズムとして同一の性質を有する日本主義も、それが日本で生れたものである限り、勿論日本的性格をもっているであろう。かような日本的性格は単に日本主義にのみ特有なものであるのではない。既に屡々、日本主義における自己矛盾として、日本主義は自己を理論的に基礎付けるに当り絶えず外国の哲学を借りているということが指摘されて来た。外国のファツシズム理論である全体主義の哲学は固より、古くはへ−ゲル哲学、新カント派の哲学、この頃はテンニースの協同社会(ゲマインシヤフト)と利益社会(ゲゼルシャフト)の理論、ハイデッガーの哲学、等々、種々様々なものがそのために利用されている。かくの如きことは現代の日本の文化、国民の一般的教養が決して国粋主義者の欲する如く日本的でなく、また日本的であり得るものでもないということを示しているのであるが、我々は丁度そこに日本的性格の探求に対する一つの手懸りを見出し得るであろう。
 外国思想をもって日本的なものを規定し、基礎付けるということは、たしか長谷川如是閑氏も注意されていたと思うが、日本的性格の一つに属している。そのことは今に始まらない。現代の日本主義と深い関係を有する神皇正統記は朱子の網目の学から多分に影響され、また水戸学は一方ではこの綱目の学、他方では春秋の胡伝の学などから影響を受けたと云われている。このような事実は如何にも矛盾である。併しそこに日本的なものがあると云えば云うことができる。即ち日本的なものは形のないものである。無形式の形式ということが日本的性格である。日本的なものは形のないものである故に、その時代において有力とされる教養、例えば支那の学問によって形式を与えられることができたし、また与えられねばならなかった。現代の日本においてかかる有力な教養が西洋の文化、その思想、その科学であることは云うまでもないであろう。尤も、徳川時代の国学者は儒教や仏教を離れて純粋に日本的なものを求めようとした。けれども本居宣長においてさえもが、その教養の基礎となったのは儒教や仏教である。平田篤胤も同様であって、彼は儒教仏教のほかにキリスト教の思想をも取り入れた。その『本教概略』という著述は、平田が当時キリスト教禁制の時代であったにも拘らず、キリスト教の書物を読み、これを神道のうちに取り入れて、自己の説を立てようとしたものである。この本の中に次のような意味のことが述べられている。外国が日本から採るものはないが、日本が外国から採るものは多い。日本は外国からいろいろ益されるが、外国は日本から益されることはない。日本の古道からは与えるものがない、しかも、ここに於てか我が道の大なることを知る、と平田は云っている。日本の古道は一の無であるが、単なる無でなく、万物を包み蔵する無であり、万物を生み出す無である。これは村岡典嗣氏の指摘されていることであるが、非常に固陋であったように思われている篤胤も徳川時代における新思想家であって、その神道には儒教、仏教のみでなく、更にキリスト教までも取り入れているのである。
 無形式の形式を本質とする日本的精神はつねに進歩的であることができた。それはそれぞれの時代においてそれぞれの形式を採って現われたが、本来は形式のないものである故に、その一つの形式に拘泥することなしに容易に他の形式に移って行くことが可能であった。この点において礼というものをその最も特色ある文化として生産した支那と日本とは異なっている。我々の祖先は進取的であって、支那、印度、西洋の文化を殆ど全く無雑作と思われるほど容易に取り入れて、自己の生活と文化との発展に役立てることを知っていた。日本人は外国を模倣することを得意とし、流行を追うことを好むというが如きことも、無形式の形式という日本的精神の性格から理解さるべきことである。かくて過去の何等かの形式に固執し、徒らに外来思想を排斥する近頃の保守的反動的な日本主義ファツシズムは、日本的精神の本来の面目からは離れたものであると云わねばならぬ。寧ろ大いに外国に学び日本の文化に新しい形式を与えることに努力するのが日本的なことである。

     四

 勿論、無形式といっても何等形式がないということではない。無形式のうちにおのずから統一があるのが無形式の形式という意味である。形式なき形式、統一なき統一が日本的性格を形作っていると見られ得る。このような統一は形式における統一、従って連続的な統一でなく、却って非連続的なものの統一であり、相反するものが直ちに一致するというような統一である。日本的性格として挙げられる帰一性もここに考えらるべきであって、一定の客観的な形式に帰するということではないであろう。
 『日本の科学界』大日本文明協会編(大正六年刊)の編者は、日本においては歴史上「権力を以て思想を圧迫せんとする如き悪弊は極めて稀有で」あり、政治上ではもとより屡々激烈なる競争を見ることはあったが、これがために思想の進歩を甚だしく妨害した例は皆無で、戦争最中と雖も、一方の思想が他方に移るには決して困難ではなかったと述べ、そして次のような例を挙げている。王朝衰えて鎌倉幕府の下に封建制度が成立したのも、元来その案を立てたのは実に朝廷に仕えていた人々であった。また蒙古が使者を我が国に派遣したのは文永五年(西紀一二六八年)で、その後十三年を経て弘安四年大軍をもって我が国に来襲したのであるが、我が国は最初からこれを敵視して飽くまでその交渉を拒絶し、ひたすら防禦策を講じていたにも拘らず、その後弘安二年(西紀一二七九年)元の僧祖元を聘して鎌倉円覚寺の開祖となし、時の執権北条時宗は厚く彼に師事し、後また僧一寧を迎え同じく厚遇した。当時一寧の如きは元の間諜であるとの風評専ら高かったが、時宗は毫も世評を意とせず、自由にその教旨を弘布せしめた。かくの如く相反するものが直ちに結び付くというところに日本的性格があると考えることができる。かかる日本的性格は社会上並びに思想上の変革を比較的平和な形式で行わしめた一つの原因であると考えることもできるであろう。
 併しながら他方から見れば、そこには客観的な形式における連続的統一が乏しく、従って勝れた意味における伝統というものが成立するに困難であろう。そこでは寧ろ凡てが非連続的に繋がっている。かく考えるとき、ヘーゲルの連続的発展の弁証法に対して西田哲学がその弁証法において非連続観を徹底させたということも興味深い。無形式の形式を性格とする日本的意識にとっては連続的発展としての伝統が発達するに困難であったということに、伝統そのものが謂わば統一なき統一に存したということに、既に述べた古典意識の欠乏ということも関連している。例えば関孝和はニュートンやライプニッツと同時代に生れ、彼等の微分積分学の発見に比して少しも遜色のない数字上の発見をなした天才である。然るに孝和のこの世界に誇り得る数学も幸福な伝統において連続的に発展するに至らず、その真価が認められるには西洋数学の輸入の後まで待たねばならなかった。日本文化は固より外国文化の単なる模倣でなく、固有性と独創性とに欠けていないに拘らず、その歴史が支那文化、仏教思想、西洋文化、そしてそれらの種々異なる要素の次から次への模倣の歴史であるかのように見えるということも、右の如き日本的性格の然らしめるところである。更に無形式の形式という日本的性格のうちに和辻哲郎氏が指摘されたような日本文化の重層性というものも理解し得るであろう。今日においても神社崇拝と仏教的信仰とは多数の日本人にとって同時に可能なこととなっている。日本画と洋画とは一つの展覧会において一緒に観賞され、讃美されている。それらのものは客観的な形式としては同一のものでなく、寧ろ相反するものである。然るに我々日本人はそれらのものを同時に信仰し、観賞することにおいて怪しまず、矛盾を感じないのである。客観的には明らかに矛盾していることを心において直ちに一致せしめるということは日本的特性に属している。それは日本的精神が無形式の形式であることを示している。
 云うまでもなく、日本的なものは無形式のままに留まらず、外来文化の刺戟と影響とのもとに種々の形式もしくは形態を採った。そして人間は単に主体的に規定されるのみでなく、また客体的に規定されるものである故に、それぞれの時代における日本の文化にはおのずから一定の客観的に認め得る統一が存在している。就中西洋の客観的文化の移植以後、客観的な形式における統一、最も広い意味での合理的な統一に向かっての努力が絶えずなされて来た。併しながら右の如き日本的性格は少なくとも現在に至るまでなお存在している。このことは日本におけるファッシズムにとって好都合な条件であろう。形のないものは一方あらゆる非合理的なものを容れ得るものでもある。そして他方非合理的なもの、理論上は明らかに承認し難いものが外部から迫って来る場合、そのような日本的性格はこれに対して徹底的に抗争することをしないで、寧ろあらゆる矛盾したものを呑み込み得る心に頼るようにする。仏教によって養われた無常観、あきらめがそのために役立つであろう。自己の主張や理論を飽くまでも固持することなく、反対のものに容易に転向し得るということが日本的性格のうちに含まれている。また形のない日本的性格は理論に基づくことなしに単なる純情となって直接的に行動することができる。このことが日本におけるファツシズムを特徴付けている。尤も、我々は無形式の形式、乃至は無と呼ばれるものをあまりに形而上学的、神秘的に解することを慎まねばならぬ。古事記や万葉時代の日本人の現実主義については多くの人々が一致して述べている。かかる現実主義が中世においてもそのまま存続したとは考え難いにしても、ともかく現実主義的であるということは日本的性格の一つに属している。仏教の如きも日本へ渡って実際的となり、現実主義的となったことは、これまた仏教学者の多数が認めるところである。現実が無であるという思想は日本においては印度や支那の仏教においてよりも遥かに非形而上学的に、現実主義的に考えられたであろう。現実主義或いは実際主義は日本人をして極端に趨かしめず、極端なファツシズムを嫌悪せしめるということも考えられる。更に形のない日本的性格は他の影響を受けることが容易であり、世界におけるファツシズム乃至はその正反対の思想の動きに極めて鋭敏に反応するということも考えられるであろう。
 併しながら今日においてはそのような日本的性格そのものさえもが動揺しているのではないであろうか。無が現実である、従って無は本来何等主観的なものでない。無を主観的なものと考え、体験することは日本に西洋の客観的文化が根をおろしてから可能になったと云えるであろう。客観的な見方が存在しなかったところに如何にして主観的な見方が存在し得たであろうか。然るにそれと共に云い得ることは、西洋的教養が身に着き始めた現代の青年にとっては最早伝統的な無に安住することも不可能になっているということである。固より今日彼等の体験する所謂新しい無に伝統的な無に類するものが全く存しないとは云い難いであろう。否、伝統の所在が怪しくなっているところに現代的日本人の悩みがある。今日の日本主義が彼等の帰着し得る伝統を指示しているとは云い難い。我々にとって伝統の所在が怪しくなっているということは、日本的性格の現実主義は極端を嫌うが故にファッシズムの考えるような極端な独裁は日本には来ないであろうという推論が怪しくなっているのと同様である。日本主義においてさえ、伝統的な日本的性格が怪しくなっているのである。

       五

 このように日本的性格が怪しくなっているということは、勿論、日本的性格が一般に全く失われてしまったということではない。日本人が日本人であることをやめることは先ずないであろう。併しながら民族は単なる生物学的なものでなく、歴史的なものである。生物の種でさえ変化するものであるとすれば、まして民族は不変のものではあり得ないであろう。人間は社会から生れるものである限り、この社会が封建的から資本主義的へというように変化するに従って人間も変化しなければならぬ。その際日本人が日本人たるの性格、もしそれが右に述べた如く無形式の形式にあるとすれば、このものは一般的には失われないとしても、それが採るべき形式もしくは形態が新たにならなければならぬ。言い換えれば、新しいタイプの日本人が生れ、新しいタイプの文化を生産しなければならぬ。そして既に最初に云ったように、この場合我々は最早単に過去の伝統的な文化の形式を踏襲することに満足することができないとすれば、西洋文化の徹底的な研究と同化を見棄て得ないのみでなく、寧ろこの方向に突き抜けることによってそれを求めるのほかないと思われる。勿論、我々は伝統的な日本文化、更にそれに影響を与えた支那や印度の文化の研究を排斥するのでなく、却ってその必要を十分に承認する。ここではただ基本的な方向が問題なのである。仮に西洋文化に対して従来の日本は単に模倣したのみであって、何一つ日本的なものを生産しなかったとしても、そのことは我々に対する反対論としては成立し得ない。西洋文化の輸入以後真に日本的なものが生れるためには、例えば仏教が最初日本に移植されて鎌倉時代において日本的仏教が開花するまでの期間に比してみても、あまりに短時日なのである。問題は今後にある。且つその仏教にせよ、明治以後においては何等新しい経典に値するものを作り得なかった。仏教が形骸と化している現代において、もし真の仏教復興があり得るとすれば、何等か新しい経典が書かれるのでなければならず、これを書き得る者は恐らく西洋思想を十分に把握したものであるであろう。
 過去の日本が仏教や儒教を取り入れて来た仕方のうちにも一定の日本的性格が認められる。仏教は日本においてその思弁的傾向を脱して宗教として純粋化され、実際化され、且つ単純化されたと云われている。かくの如きことは従来の西洋哲学の移植の場合にもなお見出されることである。西洋人の作った厖大大な体系は一篇の論文にそのエッセンスが要約され、そしてその小論文のうちにおいてさえ何か人生論めいたものが附け加えられる。その哲学的理論が円熟するに従って論文は随筆になる傾向があった。これはまことに日本的性格にふさわしいことであった。かような純粋化、実際化、単純化にも確かに勝れたものがある。それは文化と生活とを分離させず、生活をおのずから文化に近づかせるというところがある。けれどもそれと同時に思想乃至文化が所謂心境的なものとなってしまい易いということがある。心境的ということがまた日本的性格の一つに属している。ところで文学の方面でも心境文学からの転換の努力が日本の新しい世代によって絶えず続けられている。勿論、思想において単に所謂体系とか組織とか、形式のみが問題であるのではないであろう。かような形式的問題のうちには遥かに重要な問題が含まれていることを見逃してはならぬ。それは伝統的な東洋的自然主義に対するヒューマニズムの問題である。この問題は今日我々にとって決定的に重要な意味をもっている。我々がさきに述べた日本的性格の動揺ということも根本的にはこの問題に関連しているのである。心境的なものに対する抗争ということもこれに関連している。それは決して全体主義に対する個人主義というが如き問題と同列のものではない。日本主義ファッシズムはこの問題の意味を正しく認識せず、その重要性を正しく計量せず、恰もその問題が全体主義に対する個人主義の問題に過ぎないかの如く見倣し、個人主義は最早時代遅れであると云うことによってヒューマニズムを抑圧しようとする。そこにファッシズムの日本的性格が生ずるであろう。
 多くの西洋人は日本的性格を捉えて、それは折衷的な点にあると見ているようである。併しかくの如きは単に西洋的な眼をもって日本人を見たものであって、真相を捉えているとは云えないであろう。日本人が折衷的であるかの如く見えるということは、日本人が現実主義的、実際主義的であって極端を好まないということの現われである。またそれは日本文化の重層性を外側から見たものであって、その根柢には無形式の形式という、従って相反する多様なものを同時的に存在させ得るという日本的精神があるであろう。日本人の勝れている点は折衷にあるのではなかろう。我々の祖先の功績は儒教と仏教とを折衷乃至綜合したこと−それは例えば支那において朱子学が立派に行った−にあるのでなく、儒教や仏教のうちに日本的性格を作り上げたことにある。東洋的自然主義とヒューマニズムとの問題も決して我々が折衷によって解決し得るものでない。それは我々が日本文化の重層性の名目のもとに並存せしめ得るものではない。ヒューマニズムはその本性上どこまでも形式における統一の実現されることを要求するからである。よしんばかの日本的性格、無といい無形式の形式というものが単に封建的なものでないにしても、もしそれがヒューマニズムを生かし得るものでないならば、ヒューマニズムはそれを封建的なもの、乃至はファッシズムと見倣して対立せざるを得ないであろう。
 日本的なものは全体主義であり、人間を個人としてでなく社会的存在として捉えることはその本来の特色であるとは、近頃繰返し云われていることであるが、東洋思想のうちにパーソナリズム(人格主義)が真に存在するか否かは疑わしい。そのような場合人倫の思想が屡々持ち出されているが、それを強調したのは朱子学であり、そして朱子学は徳川時代において支配階級の政治的イデオロギーの組織に役立てられ、禅宗の如きも社会の上層部に近づくために仏教儒教の綜合を企てたと見られている。それはともかく、人倫関係においてのみ見られる人間、いわゆる間柄における人間はペルソーナ(元の意味は芝居の面、役割を演ずる人間)であっても、未だ真のバーソナリティ(人格)とは考え難い。ギリシア人は芝居の役者のことをヒポクリテースと称したが、この言葉が新約聖書においてはヒポクリットの現在の意味即ち偽善者の意味に転化させられたということは決して偶然ではなかった。単なる役割における人間はなお真の人間でなく、いわば偽善者即ち仮面を被った人間である。真の人格はそのような役割を脱ぎ棄てて裸の人間になった時に現われる。かかる人格の観念は単なる人倫の観念のみからは考えられぬ。しかも人格の観念は決して個人主義的なものでなく、却って人格は他の人格に対して人格である。そのような人格の観念−固より人間は一面どこまでも役割における人間として具体的な人間であるのではあるけれども−を認めない全体主義は、如何に倫理的な言葉で現わされているにしても、ファッシズムの一形態としてヒューマニズムに対立するものである。実際、今日恰もそれが日本的であるかの如く云われている儒教イデオロギーは官僚的ファツシズムを助ける有力な武器となり得るものである。
 次にヒューマニズムは文化に関してそれを客観的な事態として認めることを要求する。このことは文化が客観性への転向、ジンメルの所謂「イデーへの転向」において客観的精神として成立するものであるということを意味している。かくの如き文化の見方は我が国においては現在我々が普通に科学と呼んでいるものが発達していなかったということとも関連してこれまで十分に認められていない。併し言論の自由にしても、言論というものがそれ自身客観的なものであると考えられない限り、尊重され難いであろう。生活と文化とを分離しない日本的考え方には勝れたところがあるにしても、それは一方文化を心境的なものに変えてしまい易いと共に、他方文化を実際主義的にのみ見て、客観性に欠けたものにする危険がある。科学の尊重、客観的な形式の尊重はヒューマニズムに欠くことのできぬ要素である。
 併しながらひとは云うかも知れない、自然主義とヒューマニズムとを対立的に考えることはそれ自身既に西洋的な問題提出であって、日本においては自然と人間とは元来有機的融合的に見られており、そこに日本的思想の特殊性があるのである、と。我々もそのことを承認する。けれども自然に対する人間の感情も変化する。それは社会の変化に応じて人間自身が変化することによって変化する。我々日本人が西洋的な科学及び技術をもって自然に働き掛けてこれを変化することを始めると共に、我々は昔のままの自然感情にのみ留まり難くなるであろう。登山、スキー、ハイキング、キャンプ等々、西洋的なスポーツを好むようになった現代の青年の自然感情は昔のままであると云い得るであろうか。勿論、日本人が日本人であることをやめたと云うのではない。それだからこそ東洋的自然主義とヒューマニズムとの関係が問題になるのである。両者は如何に結び付き得るであろうか。否、嘗て西洋の哲学者が神に対して死を宣告したように、我々は東洋的「自然」に対して消滅を宣告すべきであろうか。かかる問題に対して根本的に対質することに日本的性格とファッシズムの問題は集中するのである。