新しい考へ方、見方、生活の仕方
紀元二千六百年はまことに記念すべき年であつた。それが単に回顧的に終らないで、むしろ新体制と呼ばれる新しい日本の前進を劃したのは、意義深いことであつた。二千六百年はそこから出発するのである。
文化上の新体制についても種々語られてきた。語らるべきことは既に語り尽されたといつて好い。新しい年の課題はただそれを実行に移すことである。二千六百一年は文化上においても実行の年でなけれはならぬ。プログラムを作ることは容易である、とりわけ文化上のプログラムは政治や経済から一応独立に作られ得るだけ容易である。けれどもそれを実行に移すことになると、それは必然的に政治や経済と関係してくる。四囲の情勢の容易ならぬことを思ふとき新しい年を迎へるにあたつて文化に関心するすべての人々に新たな覚悟が肝要である。
近来、文化の重要性に対する認識は、政治家の間にも、一般国民の間にも、高まつてきたかの如く見える。それは更に高まりまた深まつてゆかねはならぬ。これが新しい年に対する期待である。すべてに拘らず私は言ひ切ることができる。文化の再建なしには日本の再建も東亜の再建も不可能である。そのことは日本の再建も東亜の再建もそれほど根底的なものでなければならぬことを意味してゐる。文化は政治の附属物であるのでなくむしろ政治の出発点である。文化性をもつといふことが新しい政治の根本の条件である。
ところで文化上のことはとりわけ、プログラムだけでは無意味である。文化は号令によつて作られ得るものではない。提唱や唱道は既にあり余るほどある。新しい年の課題は、実際に内容をもつた新しい文化そのものを作るといふことである。小説家は実際に善い小説を書かねはならぬ。画家は実際にすぐれた絵を描かねはならぬ。科学者は実際に立派な科学を作らねばならぬ。もちろん組織も大切である。しかし新体制だからといつて文化人が政治家の真似をして右往左往するのはむしろ滑稽である。文化人には文化人としての矜持と自信とがあつて好い筈である。組織は組織のためのものでなく、善い文化を作るためのものである。世界に誇り得るやうなすぐれた文化を作ることこそ、文化人の新体制である。新文化の創造だといふのに、職域奉公だといふのに善い文学も、善い美術も、あまりに少いのである。否、むしろ文化の各方面において次第に質的低下が見られるのはどうしたことであらうか。掛け声だけでは科学も哲学も生れない。新しい年を迎へるにあたつてすべての文化人に新たな心掛けが大切である。二千六百年は、実際に立派な小説が現れることをもつて出発しなけれはならぬ。実際に科学上の諸業績の進歩が現れることをもつて出発しなけれはならぬ。単なる提唱や号令にとどまることなく文化の実質的な向上進歩を実現することが新しい年の課題である。これは極めて簡単明瞭なことであるが、この極めて簡単明瞭なことを特にいはねばならぬ必要は、少し冷静に文化界の現状を見る人には容易に理解され得る筈である。 .
新しい文化が国民的基礎に立たねはならぬことは言ふまでもない。しかるに文化が国民的基礎に立つためには国民が文化的にならねはならぬ。しかも国民が文化的になるといふことは、根本において、国民の生活が文化的になるといふことである。文化といふのは、単に文学や美術のことでなく、生活そのものが人間の作るものとして文化であるといふ観念が確立されなけれはならない。我々の平生用ゐる言葉、日常の交際や交通、到る処眼に触れる国民の風俗、一般に生活といふものが既に文化であり、生活文化と称すべきものなのである。すぐれた小説を作ることは少数の人間にのみ可能なことであらう。立派な絵を描くことは僅かな天才にのみ許されることであらう。しかし各自の生活についてはすべての人間が藝術家である。自己の生活は自己の創作である。文学や美術については享受者の立場にとどまるのほかない一般人も、自己の生活については創作家の立場に立つてゐる。国民の生活文化の向上が一国の文化の発達にとつての豊饒な地盤であり、とりわけ国民文学とか国民藝術とかといはれる性格の文化の生れてくる基礎である。単に少数の人間のみが文化人であるのではなく、すべての人間が文化人なのである、なぜなら誰もが生活文化に関して創造者であるのであるから。この自覚がすべての国民に生ずるといふことが新しい文化にとつての基礎である。かやうにして新しい年は国民の間に「文化への意志」が現れることをもつて出発しなければならぬ。
新しい生活文化が科学的なものであるべきことは、科学の振興が今日の最も重要な国策の一つとなつてゐるところを見ても明かであらう。科学の振興は国民の間に科学精神がゆきわたり、その生活が科学的になることによつて期し得るのである。しかも科学の特色はそれが秘訣とか秘義的とかをもたぬ合理的なものとして、すべての人間の間に普及し得る普遍性をもつてゐるところにある。実際、歴史的に見ても、近代科学の成立以来、文化は急速に一般人の間に普及するに至つたのである。逆にいふと、文化の普及が足りないのはその文化に科学性が乏しいといふことである。国民の生活文化に科学性がゆきわたるといふことが新しい年の課題である。
科学が国民の中に入つてゆくといふことは、根本において、国民が科学的精神を自覚し、その生活が科学化或ひは合理化されることでなければならぬ。ところで科学的知識を詰め込むことは困難でないにしても、科学的精神を把握することは決して容易ではないのである。近代科学がもたらしたのは一つの世界観的変革であつた。それは中世的世界観に対する果敢な、執拗な闘争において形成されたものである。しかるにこの科学の世界観的或ひは哲学的変革の意義は我が国においては十分に理解されないで過ぎてきた。といふのは我が国における近代科学の移植は主としてその技術的或ひは経済的価値の見地からなされてきたからである。
しかも応用科学の発達は理論科学の発達と不可分であることを考へるならば、科学の振興の叫ばれる今日、根本的に必要なことは、科学のもたらした世界観的変革の意義にまで、この自明であつてしかも我が国の諸事情においては決して自明でないものにまで、溯つて考へ直すといふことである。そこから国民の間に新しい物の見方、考へ方、生活の仕方が現れてくることが、日本文化の新しい発展にとつて要求されてゐるのである。