洋書輸入難


 政府の為替政策は書籍の輸入にも圧迫を加へ、洋書を手に入れることは次第に困難になりつつある。近年一部の者は頻に外来思想の排撃を唱へて来たが、今や国家の経済上の必要から、彼等の欲する通りの結果にならうとしてゐるやうに見える。
 洋書の輸入制限は戦時の経済において勿論已むを得ないことである。併しそれは文化的には決して望ましいことであるとは云へない。書物の輸入統制は軍需工業の方面においては寛に、その他の文化の方面においては厳に傾向してゐるやうであり、これも戦時にあつては已むを得ないことであるが、かくの如き偏向は、現在の跛行景気と同様、文化の発達にとつて決して好ましいことであるとは云へない。
 もちろん我々は洋書の輸入難によつて直に日本の学術が破壊されるなどとは考へないのである。西洋文化の移植以来今日に至つては日本の学術もかなり根抵のあるものになつてゐる。我々の惧れるのは、洋書の輸入制限がいはゆる思想政策に利用せられて、ただ一定の思想傾向の書物のみ輸入され、他のものは禁止されるやうになり、学術研究の自由がそのために奪はれ、かくして思想の貧困が益々甚だしくなりはしないかといふことである。
 洋書の入手が困難になつた機会に、日本のことを大いに研究するが好いと云はれるであらう。この意見は尤もであり、さうでなくても自然の必要からこの機会に日本の研究が盛んになつて来るかも知れない。殊に日本のインテリゲンチャにとつて今後支那の研究は最も重要な題目である。しかし東洋のことを研究するにしても、如何なる方法によつて如何なる立場から研究するかが問題であつて、この点について我々が西洋の学術や思想から学ばねばならぬものは極めて多いのである。東洋の研究にとつても出発点となるのは世界の現在の問題である。
 今日の日本にとつて最も必要なことは世界を知ることである。支那問題の如きも、単に対支那の問題でなくて対世界の問題であることは、現在愈々明かになつて来たことであつて、近衛首相も最近支那事変の解決にとつて世界政策が前提であると云つてゐる。独善的であることほど今日の日本にとつて危険なことはない。洋書に接することが困難になつて来ると共に、あらゆる方面において独善に陥ることのないやうに警戒しなければならぬ。洋書の輸入などは必要でないといふ議論は独善主義に過ぎないものとして斥けられねはならない。
 外国書の輸入が杜絶したからといつて、所謂外来思想が根絶される筈のものでない。一定の思想は何等偶然に移植されるのでなく、そこには一定の社会的根拠が存在するやうに、一定の社会的事情の存在する限り一定の思想は自然生長的にでも発生するものであるといふことに注意しなければならぬ。
 洋書輸入難による研究手段の制限が却て独創的な思想の発達の原因となるやうなことになれば、幸ひである。その努力は大切である。しかしそのためには外国書輸入制限のいはば代償として研究の自由の認められることが必要であらう。洋書の入手が困難になる上に研究の自由は益々制限されるといふのでは、日本の思想は愈々貧困化する危険がある。
 洋書輸入難に対する具体的な対策としては、各大学図書館の公開、それら図書舘相互の間の連絡、融通等の問題が真面目に考へられて然るべきであらう。また我々は国民図書館の設立の必要を感じる。世界各国の書物を博く蒐集し、そして誰の研究にでも、供せられる国民図書舘が存在すれば、個人が乏しい資力をもつて銘々書物を購入する必要はなくなるのであつて、これは国民経済の上から云つても有利なことである。洋書輸入難の長期化が考へられるこの際、政府において国民図書舘の設立を企画することを希望したい。