道徳の再建
一
支那事変は国民の道徳にも大きな影響を及ぼした。戦争といふものは、平時は国民のうちに潜んでゐる善いものを表面に出すと同時に、その悪いものをも外部に浮き上がらせる。その長所をますます発揮すると共に、その欠点に対してきびしい反省を加へることが必要であるのは言ふまでもない。ただ、道徳の問題は心理的なもの、内面のものに関係する故に、判断がむづかしいのである。
事変後に現はれた道徳の変化は一般に自由主義から全体主義への変化として特徴付けられてゐる。時代の要求するこの変化は或る意味においては甚だ容易に行はれることができた。そのさい日本国民の伝統的な強味であるところの国家意識が戦争によつて掻き立てられて有力に働いたのである。自由主義から全体主義へと呼ばれるこの変化は今後ますます発展してゆくであらう。
ただ、その場合残存せる封建主義の克服が問題であるといふことに注意しなければならぬ。日本の現実において存在するものは単純な自由主義ではなく、そのうもには多かれ少かれ封建的なものが残存して混在してゐる。従つて逆に、全体主義といふものがこの現実の中では封建的なものの復活になる危険が絶えず多かれ少かれ存在するのである。
事変後国民の道徳意識の昂揚のために現はれたのは国民精神総動員と称するものであつた。この運動に対して投げられた批判は、それがいはゆる「べからず」主義の消極性に止まるといふことであつた。このやうな消極性は封建的な道徳の特色をなす消極性とつながるものである。同じやうな批判として現はれたのはまた精動が国民に向つて説く道徳が瑣末主義に堕してゐるといふことであつた。しかるにこの瑣末主義にしても封建的な道徳の特色として煩瑣主義に通ずるものである。従つて根本的な問題は残存せる封建的意識の清算にある。
この点に関して、大政翼賛会になつて以来、消極から積極への転換の努力が見られることは一つの進歩といはねはならぬ。「べからず」主義や末梢主義によつては時局の要求するやうに国民の力は盛り上つてこないのである。却てそれは国民を萎縮させることになる。それは他人の生活に対する無用の干渉となり国民の和を害することになるのである。
封建的意識の特色は狭隘性にあるのであるが、このやうな狭隘性と結び付いたものに独善性といふものがある。支那事変は国民の愛国心を振ひ起たせたのであるが、そこにまた独善主義も生じた。独善的な愛国者は自分だけが愛国者であるかの如く称して他を排斥する。全体主義を言ひながら却て分派的行動に陥つて挙国一致を阻害してゐる。まして愛国心を売り物にするが如きことは完全な利己主義といはねばならぬ。
封建的道徳にもそのものとして確かに善いところがある。弊害はむしろそれが純粋であり得ず、近代的な利己主義と結び付くところに現はれる。真の全体主義は封建的な意識の狭隘性を破ることによつて初めて達せられ得るのである。愛国心の如き根本的なものについて国民が互に猜疑することがあつてはならない。
道徳の再建のために大切なことは、国民相互の間に信頼の念が高まるといふことである。信頼は道徳の基礎である。相互の信頼の上に立つてのみ、各人が自己の創意を活かしつつ全体のために尽すことが可能である。
残存せる封建的意識の狭隘性と結び付いたものに島国根性と呼ばれてきたものがあることにも注意しなければならぬであらう。東亜共栄圏の確立に邁進する国民がこのものを脱却することが必要であるのは、言ふまでもなく明瞭である。
そして実際、現実の事態の発展は次第に国民をその意識の封建的な狭隘性から解放しつつあるのである。歴史は教育する。支那事変の影響の重要な一つは我が国に残存してゐた封建的なものの清算であるであらう。
二
道徳といふものは主体を離れて考へられない。それが心理的なもの、内的なものに関係してゐるといふのも、そのためである。単に外面的であつて内面的なものを持たぬ道徳といふものは真の道徳ではない。即ち道徳には良心の問題、誠実性の問題がある。良心的でなく、誠実でない場合、いかに外面が整つてゐるにしても、道徳的であるとはいひ難い。道徳においては主体の確立が問題であり、主体は内部からでなけれは道徳的なものとして確立され得ないのである。
事変の前、とりわけ知識人の間においては、一種のニヒリズムが存在した。このニヒリズムの特徴は、一見したところ決してデカダンスに陥ることがないといふいことであつた。言ひ換へると、外部に現はれる限り何等虚無的なところ、頽廃的なところがなく、いかなる無秩序も見られず、それでゐて内面には救はれない虚無、混乱があつたのである。かやうなニヒリズムを克服するために種々のことが唱へられてきた。ヒューマニズム論、行動主義論、等々がそれである。
しかしかのニヒリズムは決して克服されることなく、それら種々の提唱も結局外面的に辻棲をあはせるといふに止まつて、内部の虚無はどうともできず、主体の再建は行はれてなかつたのである。
事変後における道徳の問題はこのニヒリズムの処置であつた。事変後の退引ならぬ諸要求はこのニヒリズムを粉砕したかのやうに見える。人々は時局に向つて姿勢を整へ、時局と歩調を合はせようとした。外観からいへば、すべては整つたのである。外的な秩序において不都合なところはなくなつたのである。しかしそれは果して内面からの立直りであつたであらうか。外的な事件は内的な変化の機会となり、これに重要な影響を与へることができる。
一部の人は事変を契機として内的な転換を遂げることに成功したであらう。しかし他の人々はなほ内部のニヒリズムをどうにもすることができないでゐるやうに思ふ。外的に整頓されてゐることは事変前からであり、事変後にはただそれが時局色といふものを濃くしたに過ぎない。かやうにして外的には不都合なことがないにも拘らず、内的には虚無的であるといふ状態が依然として存続するやうである。
知識人はかりではない、主体的に確立されたものがないことは一般国民の間にも見られるやうである。時局の全体主義的な要求に対して人々は順応していつた。その順応は極めて巧に行はれた。しかしそこに人間的な自覚がなく、良心的な誠害さが欠けてゐる限り、それは真に道徳的とはいひ得ない。それは残存せる封建的道徳の消極性につながるところの保身術に過ぎないであらう。一層積極的な人間においてはそれは時局便乗といふ形をとつたのである。
為すことと考へてゐることが別であるやうな人間が存在する。外に向つて言ふことを内心では少しも信じてゐないやうな人間が存在する。これは一種の偽善であるが、時局の全体主義的な要求のもとにかやうな偽善が生じてゐないであらうか。今日の道徳の頽廃は何よりもそのやうな偽善にあるのでなからうか。
道徳の再建にとつて必要なことは主体の確立である。主体の確立があつて初めて責任ある言論や行動が行はれることになり、真の積極性が生じてくるのである。
責任の観念は道徳の基礎である。全体主義といふものが責任の問題を隠してしまふことにならないやうに注意することが肝要である。真の全体主義は強力な個人を前提する。個人の人格の発達があつて後、その否定としての全体主義も活きてくるのである。
さうでない場合、全体主義は却て利己主義に利用されるだけのことになる。これは個人主義とか自由主義とかいふものの十分に発達してゐなかつた我が国においては特に深く考へねばならぬことである。
三
支那事変は国民生活のあらゆる方面に大きな影響を及ぼした。とりわけ経済生活は直接に最も著しい影響を蒙つた。かくして事変後に於いて新しい生活道徳、特に新しい経済倫理が問題にされるやうになつた。それは物資及び労働力の不足、贅沢品の製造並びに販売の禁止、インフレの浸潤、公債消化と貯蓄の要請、等々の出来事と関聯して追々強く前面に押し出されるに至つた。生活の変化は必然に道徳に影響し、そこに新しい道徳の確立が要求されるのである。
新しい生活道徳、新しい経済倫理は自由主義を克服するものでなければならぬであらう。自由主義の弊害は特に買溜め、売惜しみ、闇取引等の現象において顕著に感じられた。自由主義の立場からいへは買溜めや売惜しみも当然であり、自由主義経済の見地においては闇取引もなんら闇ではない。
収入の多い者が贅沢をするのは勝手であり、自分の収入をどのやうに使はうと全く自由である。しかし、統制経済或ひは計画経済の立場からいへば、買溜め、売借しみ、闇取引等は統制を紊すもの、経済の計画性を破壊するものとして不道徳なことになる。支那事変遂行の必要は自由主義経済から計画経済への移行となつたのであるが、道徳においてもそれに相応する新しい道徳の確立が要求されてゐる。
新しい道徳は何よりも生産の立場に立たなければならない。今日の日本において最も重要なのは生産の増大であるが、その事情から考へても新しい道徳の中心は生産の概念でなければならぬ。それは単に物質的経済的方面に限られることでなく、精神的文化といはれるものにおいてもこれを生産乃至創造の立場から考へてゆくことが必要である。そのさい道徳の問題として特に注意すべきことは、生産を強調することが単なる精神主義になつてはならぬといふことである。却て生産の立場は従来唱へられてゐたやうな精神主義を不可能にし無意味にするものである。
例へば生産のために必要なのは身体の健康である。そこで精神主義によつてとかく軽視されてゐた種々の厚生事業の実行が緊要になつてくる。精神主義の立場から無用視されてゐた娯楽の如きものが生産の立場において次第に再認識される傾向になつたのも当然のことである。生産の倫理は精神主義の抽象性を超えたものである。
新しい道徳が社会的立場に立たねばならぬことは言ふまでもないであらう。生産は元来社会的なものであり、生産の倫理は社会的でなければならぬ。それは個人主義を否定するのであるが、しかし同時に他方そのために個人の独自性自発性が抑圧されることにならないやうに注意することが肝要である。個人の自発性、創造性を活かしてゆくことはすべての文化の発展にとつて大切なことである。
国民の消費生活の縮小の必要に関聯して唱へられるやうになつたのは、生活の合理化といふことであつた。しかるに生活の合理化は単に消極的なものでなく、積極的に新しい生活の創造を意味しなけれはならぬ。生活の合理化は生活の科学化として積極性を得ることができる。科学の尊重は事変後、特にノモンハン事件以来喧しく言はれるやうになつたのであるが、科学の振興の問題と関聯して生活の科学化が説かれるやうになつたのは喜ぶべきことである。
新しい生活道徳、新しい経済倫理は科学を基礎とするものでなけれはならぬ。道徳の科学性は道徳の再建にとつて重要な課題である。
現実の変化そのものが新しい道徳を必要とするに至つたといふ事情において、この課題の必然性が理解されるであらう。
従来しばしば道徳と認識とは無関係であるかのやうに考へられてきた。今日なほ一方では科学の振興を叫びながら、他方道徳としては全く非合理的なこと、非科学的なことを説いてゐるといふ矛盾が存在するのである。道徳の再建のためにこの矛盾が克服されねばならない。
新しい道徳は事変後における生活の変化中から要求されてをり、そしてその中から形成されてゆくであらう。生活と別に倫理があるのではない。道徳は生活の中から出てくるのである。かくして例へば事変後次第に発展しつつある共同炊事、共同耕作等の新しい生活様式の中から新しい道徳の発達してくることが考へられるのである。
四
道徳の再建に特に重要な関係があるのは政治である。支那事変勃発後における日本の現実を特徴付けてゐるものは政治の立遅れである。政治力の強化の必要は事変の当初から絶えず言はれてきたことであるが、今日なほそれが繰返されてゐるといふ有様である。国民の道徳になほ低調なところがあるとすれば、それは根本的には政治の立遅れに関係してゐる。政治は現代人の逃れることのできぬ宿命である。政治の問題を離れて国民の道徳的意識の昂揚を考へることは今日においては不可能である。
道徳の問題がいかに密接に政治と関係してゐるかは、事変後に現はれた種々の現象を回顧してみれば明瞭になるであらう。国民の道徳的意識の昂揚のために行はれたあの国民精神総動員といふものが結局成績を挙げないでしまつたのも、それが単なる精神運動に止まつて政治性をもたなかつたためであつた。
精動の国民に向つて説いた道徳が瑣末主義、形式主義の範囲を出なかつたといふことも、その運動の政治性をもたないところから来る必然の帰結であつた。更にあの買溜め、売借しみ、闇取引等の問題が頻りに論じられた際にも、一般に指摘されたことは、その根本の原因が政治力の欠乏にあるといふことであつた。これらのことから考へても、大政翼賛会の生活指導といふが如きことも、会が近衛総裁のいはゆる高度の政治性をもつことによつて初めて成功し得るのである。道徳の問題も単なる精神主義乃至道徳主義の立場からは解決され得ないといふのが今日の現実でことのできぬ宿命である。
政治の指導性が確立されねはならぬ。これは道徳の再建にとつても根本的に肝要なことである。確固たる方針を明示して国民に覚悟を決めさせねはならぬ。この覚悟を決めるといふことが現在最も大切なことである。しかしそれにはまた認識の徹底がなけれはならぬであらうり今日の如く現実が大きく変つてゆく時代においては、道徳も単に本能や習慣や常識の上に立つことができない。本能や習慣や常識に基づく道徳でやつてゆけるのは社会の安定してゐる時代のことである。今日においては認識を基礎とすることなしには主体も主体として確立され得ない。国民に認識を与へるといふことが国民の道徳的意識を振起するために必要である。また国民に認識を与へないで政治の指導性が確立され得る筈のものではないのである。先達ての翼賛会の中央協力会議において多くの人々から国民にもつと物を知らせよといふ要求が出たのは注目すべきことである。
道徳と政治の関係において特に重要なのは、政治が国民的基礎に立つといふことである。国民的基礎に立つのでなけれは政治力の真の強化は考へられないし、政治の真の指導性も考へられないであらう。かくして問題は国民組織の問題になつてくる。道徳の再建は国民組織を通じて、組織の力によつて、現実的に可能である。国民組織の問題はあの新体制といふ言葉が合言葉になつて以来の根本問題であるが、翼賛会あたりで真剣に取上げるべきものであらう。
事変は四箇年を過ぎた。その間に国民は多くのことを経験してきた。経験を積むといふことは人間を賢くするものである。しかし他方経験を積むといふことは人間を消極的にする危険もあるのである。
経験によつて賢くなつた者がそのために何事に対しても批判的懐疑的になつて積極性を失ふことのないやうにするためには政治的行動的な指導が必要である。戦時において道徳的頽廃ほど恐しいものはない。しかもそれは今日の如き統制時代においては表面に現はれないで内部に隠され易いといふ事情があるだけ一層恐しいのである。
国民心理の現実を正確に把握し、その上に指導性を打ち建てるといふことが道徳の再建のために必要である。そのさい指導的地位にある政治そのものの道徳が大切であること、特に政治における責任の道徳の確立が大切であることは言ふまでもないであらう。
歴史は偉大な教育者である。種々の偏倚や曲折や錯誤があるにしても、この事変を通じて国民の間に新しい道徳の発達することが信ぜられるのである。