類似宗教の蔓延  ― その根拠とその克服 ―


 ひとのみち教団、大本教などの弾圧は我々の記憶になほ新たなことであるが、その後も類似宗教は依然として発生し、蔓延してゐるといはれる。これはこの時局において一つの重大な問題である。殊にそれらの類似宗教が出征軍人の家庭、戦没勇士の家族等に喰ひ入るといふに至つては、実に憂ふべきことである。
 かやうな類似宗教の発生、その蔓延には、社会的と人間的と、二重の根拠が考へられ、これら二重の根拠接に注意することが大切である。
 先づそれが社会的原因に依ることは明かであらう。類似宗教の発生と蔓延とは社会的不安に基いてゐる。我々の時代が転換期であることは疑ひなく、かやうな転換期の社会は、転換期のつねとして、それを欲すると欲せざるとに拘らず、それが善いとか悪いとかといふこととは別に、不安と動揺とを免れない。
 今次の支那事変にしても東洋の、そして世界の歴史における転換期に現はれた出来事である。この社会的な動揺と不安とによつて動揺させられ、不安になつた人心が類似宗教の如きものを求めるに至るのである。
 いづれにせよ、この時代は転換期として動揺を免れ難い。従つて必要なことは、不安になりがちな人々に対して、この動揺が単なる動揺でなく、新しいものへの発展のために必然的なものであるといふ理由を明瞭に理解させることである。言ひ換へると、今日の政治的目標を国民一般に具体的に認識させることである。
 明確な政治的目標が意識されてゐない限り、今日のやうな時代には人心は徒らに不安に陥り易く、そこに類似宗教の如きものの活動の余地が与へられる。その際、国民の現実の生活不安を少くすることに努力すべきは言ふまでもない。
 しかし類似宗教の発生と蔓延とを単に社会的原因にのみ帰することは間違つてゐる。宗教は根本において人間的なものに、個人の自己の魂の問題、この全く内面的なものに関係してゐる。社会的不安が人間に対して何等か宗教的に働き掛けるといふことも人間がその本質において根源的な不安を有するために可能になることである。従つて類似宗教の発生と蔓延とは、今日、人々が真に精神的な安らひと慰めを与へられてゐないといふことの一つの兆しにほかならない。類似宗教の害毒をなくするには、他に真に人間的な信念の与へられることが必要である。
 しかるに現代の如き「政治的」時代においては、人間的なものが無視され、更に抑圧される傾向があり、この点注意を要するのである。
 国民精神総動員が完全に行はれるなら、類似宗教の如きものの跋扈する徐地はなくなる筈であつて、その精神動員が単に外面的な形式を整へることに終つて、真の「精紳」からの動員でないといふやうなことがあつてはならぬ。
 もとよりこの人間的なもの、精神的なものは特に宗教家の問題である。宗教家はそれについて社会と国家とに対して責任を有するわけである。しかるにその宗教家が、今日起りがちなやうに、あまりに「政治的」になつて、真に宗教と信仰とに関はるもの、人間的なもの、内面的なものの問題を閑却するやうなことがあれば、人心は想似宗教の如きものに誘惑されることになるであらう。類似宗教の蔓延は宗教の根本的な不振を示すものにほかならず、宗教家の、真の宗教家としての奮起が要望されるのである。
 類似宗教は迷信の一種であるから、それを撲滅するには科学的精神の普及が大切であることは言ふまでもないであらう。科学的精神とは単に科学上の知識の所有を意味するのでなく、人間の一定の物の見方、一定の生活態度そのものをいふのである。
 従つて一方において非合理主義が唱導され、また「神話」の名のもとに、宗教とさへも相容れないやうな非合理的なものが宣伝されるやうなことがあつては、類似宗教の撲滅も不可能であると云はねばならぬ。