自由主義の将来性
              青野季吉氏に答ふ

 青野氏の質問に対して簡単にお答へしたいと思ふ。自由主義の希望が満されるには一定の社会的条件が必要であるといふ青野氏のお説はもつともであり、また自由主義者がそのやうな社会的条件の実現の為に協力すべきであるといふお説にももとより何等異議のないところである。ただ自由主義は、あらゆるものを政治に従属させようといふ政治主義には反対するであらう。この政治主義といふ言葉は我が国では左翼の方面で用ゐられて来たものであるが、現在においてそのやうな政治主義を露骨に現はしてゐるのは云ふまでもなく右翼である。自由主義は人間の歴史的生活の多様性を承認し且つ尊重する。或は寧ろ政治といふ言葉を極めて広い意味に理解するのである。
 自由主義を具体的に考へるとき、自由主義の現在のフロントはファッシズムに対してゐる。自由主義は人間的価値の品位と厳粛性とのためにそれの野蛮性に対して戦ふであらう。いつたい自由主義が全く無力であるかの如き観念を人々に染み込ませたのは過去における左翼の誤謬、少くとも偏狭であるが、その観念が今では却つて右翼によつて利用されつつあるといふことを知らねはならぬ。自由主義は人間の自由に対する根源的な要求を尊重し、且つ個々の人格として独自性を有することは全動物界において人間にのみ与へられた根源的な特徴であるといふことを承認する。尤もそれらの「根源性」を認めることとそれらを絶対視することとは同じでなく、従つて自由主義は個人主義とは同じでない。しかし如何に社会を重んずるにしても、人類は単に類的存在に留まらず個人的存在となることによつて動物から区別され、歴史の発達は各人が独自な人格を得て来る過程でもあるといふことは認められねはならぬ。その意味でブルジョワ自由主義と雖も決して単純に排棄されるものでなく、弁証法的に止揚さるべきものである。
 この関係において、ついでながら、私は今日我が国の社会学者及び哲学者の間で次第に流行して来た「ゲマインシャフト」(協同社会)の理論を徹底的に批判することが必要であると考へる。この概念は、資本主義社会がそれであると見做される「ゲゼルシャフト」(利益社会)に対して考へられるが、その概念構成において超階級的であるのはもとより、更に封建的保守的要素を多分に含んでゐることが指摘されねはならぬ。
 自由主義の将来性は、一般的には、人類史の発達が人間的自由における進歩に存するといふことによつて基礎付けられてゐる。あらゆるものは、結局これに向つての動と反動とに過ぎぬとも云ひ得る。現在の問題としては、ファッショ的国民主義は現実の構造によつてその発展が阻止されてゐる。就中科学及び技術の発達は世界の各部分の間に最も密接な聯開を作り出し、この世界を交互作用によつて限定し尽れたものとなしつつある。科学及び技術の発達の結果は国民主義とは相容れぬものであり、早晩国民主義に反逆する。このことを日々現実が実証してゐるに拘らず、なほ国民主義が唱へられてゐることを考へられるならば、この「国民主義」といふ美しい名を冠せられるものの実体が何であるかが明瞭になるであらう。一方マルクス主義については、ひとつの歴史的比喩を挙げよう。フランス革命の精神は全世界に行きわたつた。しかしそのことは、この革命以後、全世界で同じ形式で同様の革命が繰返されたといふことでない。そしてまたマルクス主義にも発展があることが当然だとすれは、それは新しい自由主義によつて方向付けられるほかないであらう。