指導者論
指導者といふ言葉は今日の合言葉である。政治、経済、文化のあらゆる方面において、指導者理念が掲げられ、指導的人物が求められてゐる。これが現代の特徴である。もとより指導者といふものはいつの時代、どこの社会にも存在する。それはすでに動物社会においても認められるのである。しかしながら、ちやうど天才といふものはあらゆる時代に存在するにも拘らずただ一定の時代の一定の社会−例へば浪漫主義時代のドイツ−において天才理念が掲げられ、そこにいはゆる天才時代を出現したやうに、今日我々の時代は特に指導者時代と称し得るほど指導者の思想がこの時代を特徴附けてゐるのである。
かやうに今日指導者といふものが前面に現はれるやうになつたのは、如何なる理由にもとづくであらうか。すべての時代、すべての社会に指導者は存在してゐる。しかるに社会の有機的時期即ち均衡と調和の時期においては、その指導者は特に指導者として社会的に自覚されることがない。彼等はいはゆる「自然的指導者」に属するであらう。このものは今日いはれる自己意識的な指導者とは違つた性質、違つたタイプのものである。その場合、指導者は殆どみづから指導者として意識することなく、彼等に従ふ者も全く自然的に従つてゐるのである。或ひはむしろ社会生活は特別の人間の指導に特に負ふことなしに自然的な調和を示してゐる。それは習慣乃至慣習によつて秩序附けられてゐる。習慣とか慣習とかは、「没人間的」なものである。そのやうな場合、例へば我々の倫理的生活は、嘗て論じた如く、没人間的な格率において定式化された常識的倫理に従つて規律されてゐる。かくの如き時代においては指導者といふ特定の「人間」の重要性が社会的に自覚されるといふことはないであらう。指導者の観念が特別の含蓄をもつて現はれてくるのは何よりも社会の危機的時期においてである。明瞭なリーダーシップは最もしばしば危機から生ずると社会学者もいつてゐる(ヤング「社会心理学」)。危機的時期においては従来通用してゐた常識ではもはや処理することのできないやうな新しい問題が現はれてくる。新しい環境に適応する新しい方法を見出すために、人々は指導者を求め、またその指導者といふものが現はれてくる。このやうな場合倫理においても没人間的な格率的倫理に代つて、模範と考へられるやうな「人間」に従つてゆくといふ人間的倫理とも称すべきものが生じてくるのである。この人間が倫理上における指導者なのである。政治、経済、文化のあらゆる方面において同様の事態が認められるであらう。今日指導者の観念が前面に出てきたといふことはまさに現代が社会の転換期といはれるやうな危機的時期であるといふことに相応してゐる。
かくて指導者といふものは社会的状況との関係なしには理解することができない。リーダーシップは一定の状況の函数であると考へることができるであらう。もとより指導者となる者はその個人において一定の特質を具へてゐるのでなければならない。指導者には指導者として必要な天分とか素質とかがある。しかしそれだけが指導者を作るのではない。他面指導者は一定の歴史的社会的状況に制約されて現はれてくるものであり、その産物であると見ることができるであらう。ところであの天才時代においてはすべての人間が天才に憧れ、また天才を気取るといふことがあつた。それは単に多数の天才が輩出した故に天才時代と呼ばれるのでなく、むしろ一般の人間が天才を憧憬し天才を気取る傾向が普遍的に存在した故にそのやうに呼ばれるのである。同じやうに、今我々の時代が指導者時代と称せられるのは単に多数の指導者が出現してゐるといふ理由に依るのではない。この時代においてはすべての人間が、従つて何等指導者としての資格を有することなく、また真の指導者の如何なるものであるかを理解しない人間までもが指導者顔をし、指導者を気取るといふ一般的傾向が認められる。そして天才時代における弊害が真の天才でない者の天才を気取るところに生じたやうに、今日の弊害も真の指導者でない者が指導者を気取るところに生じてゐる。それ故に真の指導者が如何なるものであるかを明かにするといふことは、現代の特徴を把握するためにも、その弊害を匡救するためにも、必要なことでなければならぬ。
二
すべて転換期には人間の新しいタイブが現はれてくる。指導者といふのもかくの如きものであらう。しかし何故に今の時代は、例へば天才の時代でなくて特に指導者の時代であるであらうか。天才崇拝のうちに現はれたのは個人の自覚、その特殊性、独自性、根源性の自覚であつた。それは封建的全体主義的秩序からの人間の解放を意味した。ルネサンスにおけるイタリアの天才時代がさうであつたし、またあのドイツにおける浪漫主義の天才崇拝も近代市民的意識の覚醒と結び附いたものであつた。社会史的に見ると、天才時代は近代の個人主義の先駆であつたのである。しかるに今日はそのやうな個人主義的社会からの転換期なのである、この時代はもはや天才の時代ではなく、却つて指導者の時代である。今日の指導者理念は個人主義的社会から新しい全体主義の社会への転換期にあたつて生まれたものである。従つて指導者の観念そのものが個人主義的なものでなく、新しい全体主義の理念をそのうちに表現してゐるのでなければならぬ。個人的に、天才を気取つたり、自己の優越性を誇示したりする者は、真の指導者とはいひ得ないのである。
もとより最高の指導者は天才でなければならないであらう。しかし天才といふ場合と指導者といふ場合とでは、評価の仕方に差異があることに注意しなければならぬ。最高の指導者は天才であると語られる場合すでにその差異が現はれてゐる。即ちそれはあらゆる種類の最高の指導者をいづれも同様に天才と認めるのであつて、そこに天才の概念における評価の仕方の或る形式主義が見出されるであらう。歴史的社会的に見ると、「天才」に先行したものは「英雄」であつた。しかるに原始的な英雄崇拝においては、崇拝者は彼の英雄と目的を共通にしたのである。客観的な目的の評価と主観的な能力の評価とが分離してゐなかつた。将軍はその士卒から、予言者はその信者から、学派の頭目はその弟子から崇拝されたが、反対の党派の統領はただ憎悪をもつて見られるのが通例であつた。英雄崇拝はその根源において党派的であつた。このやうな内容的で党派的な人物評価は歴史的において次第に形式的で無党派的な人物評価に推移していつた。天才の概念はこのやうな形式主義を示してゐる。かくして近代においては全く違つた領域における偉人、全く反対のことがらに奉仕する者が同じやうに天才と呼ばれる。このやうな形式化は近代における主観主義的傾向と関連して生じたことである。それは人々の関心がものごとよりも人間に、客観的なものよりも主観的なものに、仕事そのものよりも仕事の能力に向けられるやうになつたことと関係してゐるのである。いま指導者の概念は天才の概念における右の如き形式主義と主観主義とを超えたものでなければならないであらう。指導者の概念は或る意味においては英雄の概念と同じである。即ちここに再び或る内容的な党派的な人間評価が現はれる。一つの党派の指導者は他の党派に属する者にとつては何等指導者ではない。或ることがらにおける指導者はそれとは無関係なことがらについては何等指導者ではない。全く形式的に指導者といふものを考へることはできない。そして天才が自己の主観的なものを発揮しようとする者であるとすれば、指導者は自己を超えた客観的なものに仕へる者でなければならない。もとより今日の指導者は昔の英雄の如きものであることができないであらう。天才主義的な指導者が真の指導者でないやうに、英雄主義的な指導者も真の指導者ではないであらう。新しい指導者は天才の概念における主観主義や非合理主義の弊害を克服すると共に、天才の概念並びにそれを生んだ近代主義における積極的なもの、価値あるものを生かすものでなければならず、これによつて古い英雄の概念とは区別されて真に新しいものであることができるのである。
かやうにして指導者に先づ要求されるものは創意である。真の指導者は発明的でなければならぬ。しかるにこの創意とか発明とかいふものはまさに天才の概念を規定するものである。上にいつた如く指導者が指導者として前面に現はれるのは危機の時代である。それは従来通用してきた常識や理論ではもはや間に合はなくなつた時代である。このやうな時期に要求されるものとして、指導者は創意的発明的でなければならない。何等の創意もなく、教へられたことをただ繰り返してゐるやうな人間は真の指導者であることができぬ。次に天才といふのは、他の場合に述べた如く、本来物を作る能力についてのみ認められるところのものである。カントはすでに能才について、物を作る能力についてのみこれを認め、単に物を容易に理解する力は能才ですらないと考へた。天才はもちろん物を作るといふ見地から見るべきものである。物を作るといふことは単に知るといふことと同じではない。天才の概念がさうであるやうに、指導者もまた物を作り得る者でなければならない。そして実践といふのは広い意味において物を作ることであるとすれば、指導者は本質的に実践的でなければならぬ。科学の如きにおいても、真の指導者は与へられた科学的知識をただ理解してゐるといふに止まることなく、みづから科学的研究を実践する人、しかも創意的に、先駆者的に実践する人でなければならぬ。単なる口舌の徒は真の指導者ではない。指導者は高くとまつてゐるのでなく、国民の中に降りて来て、共に実践する人でなければならないのである。ただ単に知つてゐるだけでは指導者ではない。みづから実践する人、物を作る人、他と同じやうに働く人、いはゆる「パーソナル・リーダーシップ」をとる人であつて真の指導者である。
しかしながら実践には知識が必要である。とりわけ今日の如き複雑な世界においては、知識なしには実践することができない。もちろん知るといふことは単に過去のことを知ることではない。却つて知ることは発見することであるといふのが、近代科学によつて把握された知識の理念である。知ることが予見することであるといふことによつて、知識は実践的意義を有し得るのである。政治は予見である、と誰かが言つた。予見することができない者は真の指導者であることができない。例へば今日の国際情勢はたしかに複雑である。しかしそれをただ複雑であるとのみ言つてゐるのでは、指導者の資格はないであらう。そこに何物かを予見し、我々の進むべき進路を示し得るものであつて、真の指導者である。今日の指導者に向つて求められるのは何よりもこの予見の能力である。その見通しが次から次へ絶えず間違つてゐるやうでは指導者の資格に欠けてゐるものといはねばならない。なるほど今日の事態は正確に見通すことが困難である。そこには従来の常識で判断することのできないものがある。しかしそれだからこそ指導者が要求されるのであつて、もしさうでないならば「指導者」といふものが特に現はれてくる理由もなかつたであらう。ところで予見には知識が、科学が必要である。もとより既存の知識、既成の科学だけでは十分ではないのであつて、そこに指導者の要求される危機といふものの本質があるであらう。従つて指導者の知識は発明的、創造的でなければならない。またその場合単に合理的に思惟するのみでは足りないであらう。指導者には直観が、天才的な直観が必要である。特に彼にとつては単に知ることでなく行為することが目的であるとすれば、行為はつねに具体的な、歴史的に特殊的な状況におけるものであるといふことから考へても、指導者にはすぐれた直観力がなければならないであらう。しかし真の直観は合理的思惟を尽した後に出てくるものである。最初から科学を軽蔑するといふやうな態度からは真の直観は生じない。カントの考へた如く、天才は無意識的に働く構想力の独創性であるが、それは悟性の概念や規則に適つたものでなければならない。さうでなければ天才ではなく、妄想に過ぎぬ。しかも、天才は無意識的に作るものであるにしても、指導者はつねに目的意識的でなければならないのである。自分自身何度へ行くのか分らないやうな者は他を指導することができぬ。もとより歴史における必然性は単なる必然性ではなく、必然性が同時に可能性の意味を有してゐる。運命といふものもかやうなものである。従つてそれは我々にとつて如何ともし難いものではなく、我々の意志と行為によつて変じ得るものである。歴史は我々の作るものである。それだから指導者には決意と行動とが要求されてゐる。決断力に欠ける者、非行動的な人間は指導者としての資格を有しないものといはねばならぬ。指導者は決断の人でなければならない。そこに危機といはれるものの本質がある。危機は連続に対して非連続、断絶を意味し、この非連続、断絶は、決意によつてのみ越えることができる。しかるに指導者は唯一人行動する者でなく、他を動かして一緒に行動する者である。そこに唯一人で物を作る天才とは異る指導者の資格が必要であらう。天才は世の中から理解されないのがつねであるといふやうに言はれてゐる。しかるに他から理解されないやうな指導者は何等指導者ではない。指導者であるといふことのうちには他から理解されるといふことが含まれてゐる。そしてまた指導者は自己の行動を他に理解させ、これによつて他の協力を得るやうにしなければならぬ。そこに天才の概念とは異る指導者の概念における知的な、合理的な性格が現はれるであらう。彼等の行動は天才的な直観にもとづくにしても、これを他の人々に理解させるために、できるだけ合理的に説明して教へることに努力しなければならないのである。指導者は独善家或ひは独断家であることを許されない。協力者をもつてゐるといふことが指導者の概念に欠くことのできぬ要素である。
三
指導といふものは関係である。それは一方的なことでなく、そこにはつねに指導する者と指導される者とがなければならない。即ち指導者は応へられなければならない。応へられない者は天才であり得ても指導者ではないのである。
リーダーシップは関係として道徳的関係でなければならぬ。なぜなら指導者は単に知ることでなく行為することを目的とすべきものであり、リーダーシップは人と人との間の行為的関係として成立するものであるからである。指導する者と指導される者との間に道徳的関係の存在しないところにリーダーシップは存在しない。指導被指導の関係において何よりも必要なのは信頼と責任である。信頼と責任とはあらゆる道徳的関係の根本である。信頼され得るために指導者の具へなければならぬ道徳的資格には種々のものが数へられるであらう。利己的でなく全体のために計るものであつて信頼されるのである。自己の金儲けや立身出世を考へることなく全体のために自己を犠牲にするものであつて信頼されるのである。ただ世間の風潮に追随するのでなく自己の信念にもとづいて行動するものであつて信頼されるのである。率先して実行するものであつて信頼されるのである。謙譲の徳を有するものであつて信頼されるのである。責任を重んじるものであつて信頼されるのである。そして指導者はこの信頼に応へる責任をもつてゐる。強い責任感を有するといふことは指導者にとつて大切なことである。他を信頼するものであつて自分が信頼されるやうに、自分から責任を重んじることによつて他に責任を重んじさせることができる。指導者は自己の行動に対していつでも責任をとる覚悟がなければならない。自己の行動に対して責任を負ふといふことは、ただその動機さへ純粋であれば宜いといふのでなく、またその結果に対して責任を負ふといふことである。かやうにして責任を重んじる者はその行動が結果において成功的であるやうに努力しなければならない。動機さへ純粋であれば宜いと考へることは、個人の良心を満足させるにしても、社会的に見ると無責任といふことになる。そして指導者の行動はつねに本質的に社会的見地に立つてゐるのである。社会的良心は自己の行為の結果に対して責任を負ふことを要求する。ところで成功するためには知識が、予見が必要である。どれほど動機が純粋であつても、動機の純粋性はもちろんあらゆる場合に先づ要求されるものである−無知であつたり予見カが全くなかつたりしては不成功に終るのほかない。ここにおいて道徳は知識もしくは智能と結び附かねばならぬ。知識と道徳とは元来分離し得べきものではないのである。
リーダーシップは本質的にリレイションシップである以上、指導者はつねに指導される者の協力を必要としてゐる筈である。従つて如何なる独裁者も人心を把握することを心掛けざるを得ない。実際また今日の独裁者はそのことを特に重要視してゐるのである。その点において如何なる独裁者もデモクラティツクでなければならないといひ得るであらう。そしてそこにあの英雄とは異る指導者の近代性がある。いはゆる官僚的でなく、国民的でなければならぬ。尤も指導者が国民的基礎の上に立つといふことは必ずしもいはゆるデモクラティツクな方法によるのではなからう。人の心を捉へ得るといふことは天分に属する問題でもある。指導者はそのオーソリティとプレスティジュとによつて指導者となる。しかるにこれらのものはデモクラティックなものでなく、また単に知的な、合理的なものではない。しかし指導者とは単に命令するものではなく、むしろ自己に向つて憧憬させるものである。権威も国民的基礎の上に立たないものは真の権威ではないであらう。指導者の権威は、彼がより高いものに仕へてゐるといふところから生じる。そして指導する者と指導される者との真の協力は、両者が共により高いものに仕へるところに真に成立し得るのである。そして協力においては、指導者の創意が重要であると同様に、指導される者の創意を重んじることが大切である。各人の有する天才を発見することは指導者の任務であらう。
国民を把握し得るために指導者は国民心理を把握しなければならぬ。彼はすぐれた心理学者として、国民の外形を観察するに止まることなく、その内部に入つて理解しなければならない。指導する者と指導される者との関係が道徳的関係であることを考へると、これは甚だ重要である。ところで指導者が人心を掴むために用ゐる主要な手段は宣伝と教育である。宣伝は特に近代的な手段である。それは有効であるだけ危険も多いのである。宣伝は理智よりも感情に、各人の判断よりも群衆心理に、うつたへるのがつねである。一層大切なのは教育である。宣伝そのものも教育的でなければならない。もとより感情の意義を認めないといふことはあらゆる場合において間違つてゐる。行動には感情が必要である。大いなる行動は大いなる感情を要するであらう。しかし宣伝の効果がその場その場のものであるのに反して、教育の効果は持続的である。教育は指導する者と指導される者とが共通の理解をもつて共通の目標に向つて働くことを可能にする。この理解ある協力こそ最も大切である。宣伝はその場の効果をねらふものとして、ひとが現在もつてゐる感情乃至知性にうつたへる。宣伝はただ現在にあつて、未来を知らない。これに反して教育は現在ある人間を作り変へることを目差してゐる。教育は新しい人間の形成である。真の指導者は国民を新たに作り直すことによつて目的を達しようとするのである。彼は政治は教育であるといふことを理解して実践するものである。
指導者の時代は危機或ひは転換期として、リーダーシップは「人間」にあるのがつねである。しかし、人間は、指導する者も指導される者も共に組織されなければならない。指導者に必要なのはこの組織力である。ところで組織の発達につれてリーダーシップは次第に人間から制度の中へ入つてゆき、ここにいはば「制度化されたリーダーシップ」或ひは「組織された権威」が生ずるに至るであらう。指導者はそのリーダーシップを安定させるためにもこのやうにそれを制度化することを求める。それが制度化されると共に組織の自働性が生じ、かくして「指導者」といふものは影を没するやうになる。もとより指導者が一般になくなるのではない。既にいつた如く、どのやうな社会にも指導者は存在してゐる。しかしその場合、指導者は今日考へられるやうな意味においてはもはや表面に現はれないやうになる。かやうにして指導者の重要な目標が組織を作ること、リーダーシップを制度化することにある限り、指導者の活動は自己否定にあるといふこもとができるであらう。指導者は自己否定的であることによつてその目的を達し得るのである。彼等がいつまでも「指導者」であらうとする限り、彼等は組織の力を認めないことによつて浮いたものになり、従つてまた真に指導力をもつことができない。もちろん、ここにいふ組織とか制度とかは指導者の新しいイデーに従つて新たに作られるものである。既成の制度の中にあつてその制度の権威に依頼して指導者顔をするが如き者は論外である。