大学の固定化


 今日の大学について感ぜられるのは大学の固定化といふことである。この固定化は種々の意味を持つてゐるであらう。
 固定化は先づ教授団において現はれてゐる。即ち現在の大学においては、官立たると私立たるとを問はず、教授を子飼ひにするといふことが風習となつてゐる。自分の学校の出身者から、しかも卒業と殆ど同時に将来の地位を予約して教授を採るといふことが一般的になつてきた結果、大学は固定化した。そこではあらゆる意味で「異分子」は排斥される。かくて大学の学問には清新なところがなくなつて来る。教授を子飼ひにするといふことは学派を作ることにでなくて学閥を作ることに作用してゐる。今日見られるのは学派的派展でなくて学閥的閉塞である。子飼ひ制度には我が国の美風とせられる家族主義に似た善いところがないでもないが、しかし家族にしても血族結婚を続けてゐては衰亡してゆくのほかない。学閥と学派との間には血族結婚とさうでないものとの間におけるやうな差異がある。
 或るアメリカ人の批評に依ると、軍需工業その他の新興産業が日本においては従来から存在する大財閥によつて経営せられることが少く、新たに現はれた産業家の手に多く帰してゐるのは、かの大財閥にあつてはいはゆる番頭政治が行はれてゐる為めである。封建的な子飼ひ制度の弊害はここにも見られるであらう。学問上においても真の企業家の精神、即ち発明的なところ、冒険的なところ、進取的なところが必要である。
 大学の固定化は最近においては特にいはゆる教学主義によつて促進されつつある。教学主義は勿論何等新しいものでなく、また日本特有のものでもない。西洋においても封建時代の学問がすでにさうであつた。近代の哲学や科学はこれに反抗して起つたのであつて、権威主義に対する批判的精紳をその本質としたのである。教学主義の前進、批判的精紳の後退が大学の固定化となつて現はれてゐる。
 しかも大学にとつての不幸は、その教学が根本においては大学以外から大学に対して強制されるものであるといふことである。学問は云ふまでもなく単に批判に止まり得ない。体系を作ること、学派を建てることは、或る意味においてドグマチックになることである。ドグマチックになることは学問の発展にとつても要求されてゐる。私はただ批判のみを強調することに賛成しない。絶えず批判を口にする者が、他を攻撃することにのみ急であつて自己の立場については無批判であつたり、徒らに破壊的であることを好んで建設的なところがなかつたり、自己の言論の実践的帰結に対して無責任であつたりするといふことは、屡々見られることである。学問にはクリチックと共にドグマチックなところが必要である。しかし一人の体系家、一つの学派がドグマを作るといふことは自己自身によつて行はれることである。これに反していはゆる教学はその本質において大学に対して外部から強制されるものである。それは大学の政治化を意味してゐる。強権政治による大学の政治化が大学をして他律的に固定化への道を辿らせる。
 かくの如き大学の政治化は大学自身によつてすでに準備されてゐた。即ち官立は固より私立に至るまで近年漸次著しくなりつつあつた官僚主義的傾向はこの政治化への準備の意味を有したのである。かかる官僚主義的傾向から大学の固定化が生じつつあつたことは云ふまでもない。
 ドグマチックであることが必要であるやうに固定化も或る意味においては必要である。ドグマチックになることは固定化することの一つである。しかるに今日の大学にとつての不幸は、その固定化が自己自身の原理によつてでなく他から強制されて生じつつあるといふことである。かくしてアカデミズムは失はれる。アカデミズムは一種の固定化であるが、しかしその固定化が自律的に行はれるといふのが真のアカデミズムである。今や大学はアカデミズムを失つて政治の支配に委ねられようとしてゐる。アカデミズムを失ふことによつて大学は次第に自信を失ひつつある。
 私はもとより大学が純粋に自律的であり得るとは考へない。あらゆる個体と同じやうに、大学もまた環境から影響される。社会的環境を離れて大学の存在は考へられ得ない。しかし同時に自己の自律性を失ふことなく、環境を自己の自律的行動によつて支配するといふことが、すべての生命あるものの発展にとつては必要である。
 今日の大学に向つて希望したいことは真のアカデミズムの擁護である。私はアカデミズムを決して軽蔑するものでない。私が悲しむのは寧ろ大学からアカデミズムの失はれつつあることであり、しかも大学の固定化の進行にも拘らずアカデミズムが失はれつつあることに今日の大学の矛盾が感ぜられるのである。