国民的性格の形成


 今日の社会のいろいろの現象を仔細に考へてゆくとき、私はいつも国民性の問題に突き当る。これはいはゆる社会批評といふやうな問題でなく、もつと根本的な問題である。それは今日の政治、経済、文化のあらゆる問題がそこに集まつてくるところの中心的な問題である。
 統制がうまく行つてゐないのを見て、国民心理を理解しなければならぬといはれた。これは町田総裁の言でもあつたが、この意見は全く正しい。しかし国民心理を理解したとして、その現実は直に政治の拠り所となり得るものであらうか。むしろ国民性の改造こそ政治の拠り所として必要であると思はれる。統制の問題は今日いはゆる経済道徳或ひは経済倫理の問題にまで突き当つた。先達ての地方長官会議でも経済道徳の確立の必要が述べられた。しかるに新しい経済道徳の問題はまさに道徳の問題として、具体的には国民性の改造の問題に解れてくるのである。国民的性格の形成は精動にとつて根本的に重要なことであるが、現在の精動は果して問題をそれほど深く把握してゐるであらうか。
 すべての政治学のうちには人間学が含まれてゐる。国家の政治は国民のタイプを基礎にして行はれなけれはならぬ。政治は深く人間性の問題に相渉るものであり、そこに政治の根底には形而上学がなけれはならぬ理由がある。現在、日本の政治に何等かそのやうな形而上学があるであらうか。
 タイプといふのは統一的に形成された形である。もし日本の国民性のうちに統一的なもの、一貫したものがないとすれは、タイプのないといふことがその国民性のタイプであるといふことになる。かやうにタイプがないところでは政治はその拠り所をもつてゐないことになり、その拠り所となるべきものを自己が初めて作らなければならないといふ事情にあるのである。そして私は現在、日本の国民的性格がそのやうな状態にあるのではないかと考へる。軍事的には極めて愛国的に行動する人間が、同時に他方経済の方面においては甚だ非愛国的な行為をして憚らないといつた有様である。かくの如く国民の行動に一貫性がないといふ例は、我々の周囲からいくらでも挙げてくることができるであらう。
 もちろん、どのやうな国民も長所と短所とをもつてゐる。しかし私の言はうとすることはその点にあるのではない。国民的性格に一貫したものがないといふことは、それが長所と短所とを同時にもつてゐるといふことと同じではない。まして私は単に日本国民性の欠点をのみ強調して示さうとするものではないのである。私の問題はもつと深い所にある。
 近年、日本的性格についての論が盛んであり、しかもその際日本の国民性の美点のみを挙げるといふのが特徴的なことであつた。これに対して、何か我が国民性のうちにある欠点を指摘でもすれは、直に非愛国者の如く呼ばれるといふ風があつた。これは愛国といふものが形式的に考へられてゐるしるしであり、そしてそれは右にいつた、軍事的には愛国的に行動するが、経済的には非愛国的な行為をして憚らないといふところに見られる愛国心の形式化と同じものの現はれである。愛国心も表したものであつて初めて真に国民のタイプを形成するものといひ得るので私の問題にしてゐるのは単に国民性の長所と短所といふことでない故に、それは単にその短所を矯正し長所を発揮せよといつた簡単な方式で片付けられ得るものではない。国民性の改造といふことをかやうな簡単な方式で考へようとしたところに、むしろ、それが実際には改造されなかつた理由があるといふことができる。問題はもつと深く、社会的な、同時に哲学的な問題である。
 問題が単に国民的性格の長所を発揮して短所を矯正するといつた方式で解決されないことは、次のやうに考へることによつて明瞭になるであらう。即ち国民の行動に一貫したものがないといふことは、論理的に見ると、そこに互に矛盾するものが存在するといふことであつて、この矛盾の解決は、それら互に矛盾するものを超えた一層高い立場においてのみ可能である。矛盾は発展的にのみ解決され得るのである。従つて問題は国民的性格の長所を発揮して短所を矯正することであるとしても、その長所はこれまでいはれてきたやうなものでなく、その長所自身に全く新しい発展がなければならぬ。先づ国民性の改造の論理を掴むことが大切である。
 国民性といふものも歴史的なものである。しかるに近年流行の日本的性格論はこの歴史性を考へることなく、主として過去について日本人の美点を論ずるに止まり、現在の国民性の現実に対する批判を欠いてゐる。かくて過去の美点の強調も現在の欠陥を匡救する力をもつてゐない。日本人の美点といはれるものにも新たな歴史的発展があつて初めて、その自覚が現在の現実を改善し得る力をもつた真の美点になり得るのである。
 実際、今日、国民の行動に一貫性がなく、矛盾があるとして我々の眼に映ずるものは、封建的心理の残存によつて著しく特徴付けられてゐる。国民生活のあらゆる方面に対して外部から統制が加はつてくるに従つて表面に浮び出たものは、国民のうちに深く潜んでゐた封建的心理である。例へば買溜め、売惜しみ等において見られるのは、封建的な自己保存の心理の現はれである。政治を信用することができないから、自分で自己保存の道を講ずるために、こつそりと買溜めや売惜しみをするのだといはれる。そこには封建時代の人民のやうな、政治は自分たちの関知しないもの、自分たちの力でどうすることもできないものであつて、政治がどうあらうと、自分は自分だけで時世に処してゆけば好いのだといふ心理があるのである。
 これは明かに立憲国の国民の心構へではない。これを西洋流の個人主義の現はれだとして解釈するが如きことは間違つてゐる。それはまさに日本的なもの、封建的・日本的なものである。
 今日、我が国の統制にとつて大きな問題は、統制が封建的なものの復活を喚び起すといふ危険である。統制は社会的に訓練された国民を必要とする。恰も精巧な機械においてのやうに、部分部分が鋭敏に働き得るのでなければ、統制は完全に行はれ得ない。しかるに我が国においては自由主義が十分に発達しなかつたといふ事情によつて、国民に社会的訓練が欠けてゐる。かくて統制に対する封建的回避がさまぎまな形で見られるのである。
 統制が効果的に行はれ、統制によつて国民が封建的人民の如く萎縮するのでなく、却つてその力を発揮し得るやうになるためには、国民性が改造されねばならぬ。そしてそれには自由主義の長所を生かすこと、特に国民の政治への関与を積極化することが肝要である。あらゆる自由主義的なものを抑圧しながら、統制への国民の協力を求めても無駄であらう。
 もちろん自由主義は超えられねはならぬ。国民の行動に一貫したものがないといふのも、一方には自由主義的なもの、他方には封建的なものが矛盾的に存在するためである。例へば、インテリゲンチャは自由な市民の如く官僚を批判することを知つてゐる。しかるに彼がひとたび官僚に近づくと、彼は封建的な屈従に甘んじ、官僚と関係があることを得々としてゐるといつた有様である。官尊民卑の封建的風習は、一方では官僚独善などと攻撃してゐる我が国民のうちになほ深く根を張つてゐる。
 かくて問題は、いつもいふやうに、封建的なものの克服と同時に自由主義的なものの超克である。これは西洋流の全体主義をそのまま持つてきて出来ることではない。そこに新しい思想が必要であり、国民性の改造は根本において思想の問題である。
 私は、いつたい日本の国民にどのやうな哲学があるのか、と問ひたいのである。ここで哲学といふのは、もとより、専門の職業的哲学者が問題にしてゐるやうな哲学のことではない。私の意味するのは、国民生活の中から形成され、国民生活に浸透してゐるやうな哲学、世界観である。フンボルトは、言語は各民族のもつてゐる世界観を現はすといつたが、そのやうな世界観が問題なのである。国民のタイプはこの意味における哲学によつて形成され、この意味における哲学を表現する。国民性に一貫したものがないといふことは、そのやうな哲学が失はれてゐるといふことではないであらうか。
 日本の政治には思想がないといはれてゐる。その場合、思想といふのは、もちろん政治思想のことであらう。政治思想は必要であるが、政治思想の根柢には形而上学がなければならぬ。外国の全体主義にしても一定の形而上学を含んでゐるであらう。しかるにその日本における模倣者乃至追随者たちは果してその形而上学までを深く把握してゐるであらうか。政治的イデオロギーの宣伝は盛んになされてゐる。けれども単なる政治的イデオロギーだけでは国民的性格の改造は行はれ難く、国民的性格の改造が行はれない限り、政治的イデオロギーも真に国民を捉へることができぬ。日本に欲しいのはその意味において深みのある政治である。強い政治の要望が叫ばれてゐるが、ただ強いだけで深みのない政治は危険であり、またそのやうな政治は真に強くなることもできぬ。必要なのは単なる政治思想を超えた思想である。
 国民性の改造にとつて政治は重要な関係をもつてゐる。政治が善くならなけれは国民も善くならないであらう。先づ政治に一貫したものが出て来なければならぬ。
 最近ヨーロッパ戦争におけるドイツの勝利に刺戟されて、我が国においても科学の奨励の必要が考へられるやうになつた。これは正しいことであり、善いことである。しかし一方科学が奨励されるにしても、他方ではまるで反対の非科学的なこと、非合理的なことが依然として唱道されてゐるのである。そこに一貫したものがなく、哲学がないのである。政治は国民性を規定するが、他面政治はまた国民性の表現であるとすれば、政治に哲学がないといふことは国民に哲学が失はれてゐることを示してゐる。国民と哲学の関係は今日の日本にとつて一つの重要な問題であると思ふ。
 東洋の道徳、西洋の学藝といふのは佐久間象山以来、有名な合言葉である。日本人の哲学は確かに道徳としてすぐれた長所をもつてゐる。しかしこの伝統的な哲学と西洋の科学思想とは必ずしも単純に一致し得るものではなからう。東洋の道徳と西洋の学藝とを真に綜合するためには、日本人の哲学が発展的に変化しなけれはならぬ。それのみでなく、現在の国民の道徳的無気力を見るとき、ひとは東洋の道徳などといつて安閑としてゐられるであらうか。新しい哲学の獲得によつて国民的性格が新たに形成されなけれはならない。すでにいつた如く、矛盾的に存在する短所を匡救し得るためには、長所も全く新たな発展を遂げねばならないのである。
 かやうな必要は、科学が国民生活の中へ入つてゆかねばならぬことからも考へられるであらう。科学の発展は少数の科学者のみによつて期し得られるものではなく、科学が生活の中に入り、国民のあらゆる物の見方、考へ方が科学的になることがそのために大切である。しかるに我が国においては、科学者としては物を純粋に科学的に見てゆくが、国民としては全く非科学的な考へ方をしてみづから怪しまないやうな科学者も多いのである。ここにもまた一貫したものが欠けてゐるといふ一つの例がある。
 科学が生活の中に入つてゆくといふことは単に成果としての科学を利用するといふことでなく、科学的精神が国民の哲学の部分になるといふことである。そしてそれは国民性の改造の問題と深くつながつてゐる。
 国民的性格の新たな形成にとつて思想が必要であるが、もとよりそれは単に思想のみによつて可能なのではない。性格は行動において形作られるのであり、思想もまた行動の中から生れ、行動の中において発展するであらう。そこに国民性の改造と政治との関係が横たはつてゐる。
 日本国民は今、支那事変といふ未曾有の大行動の真中にある。この大事件は国民性に如何なる影響を与へてゐるであらうか。もちろん、そこに我が国民性の美点の発露したものがあることは事実である。しかしまたそれと共に、その短所の暴露したところもある。戦争はそれ自体としては道徳的に必ずしも善い効果をのみもたらすものでなく、却つて悪影響を及ぼし易い方面もある。戦争の道義的目的を高く掲げるといふことは、単に対外宣伝のためばかりでなく、国民の道徳的頽廃を防ぐために大切なことである。
 この場合道徳的頽廃は先づ道徳的無感覚として現はれるであらう。例へば闇取引である。今も盛んに行はれてゐるやうに思はれる闇取引は、慣れるに従つて国民を次第に道徳的に無感覚ならしめつつある。そのほか賄賂、饗応などといふことに対しても、人々は次第に道徳的無感覚に陥りつつあるのではなからうか。戦争の好影響のみが力説されて来たのに対して反省を要することである。すべて真賓を知ることは大切であるが、単に客観的真実のみでなく、自己の主体的真資について、各自が考へてみなければならぬ。敗戦よりも恐しいのは国民の道徳的頽廃である。それは悪性の病毒のやうに知らぬまに体内に浸潤し、いつのまにか、再び起つことができぬまでに、社会を衰弱させる危険があるからである。
 かやうな道徳的沈滞を救ふためには、国民の積極的な政治関与の道を開くことが最も肝要である。これによつて何よりも国民のうちに残存してゐる封建的意識を清掃することができるであらう。既に述べたやうに、今日最も警戒すべきものは時局に対する国民の封建的回避である。この回避は政治に対する自己の無力感から生ずる。国民を積極的に時局に協力させようと思ふならば、国民に政治を分担させ、これに対する自己の責任を明瞭に意識させることが必要である。国民の一人々々に警官を付けることが不可能である限り、単なる取締によつて闇取引の如きものを絶滅させることは不可能であらう。国民が互に相戒め相励み合ひ得るやうな組織が作られなければならぬ。かくして国民的性格の形成は国民再組織の問題につながつてゐる。
 国民再組織はもとより国民をただ道具のやうに使ふために作らるべきものではない。むしろ今取り戻されなければならぬのは人間尊重の観念である。「人的資源」などといふ言葉が甚だ無雑作に使はれるやうに、人間を機械や馬匹などと同様に考へることがなくなり、人間が人間として尊重されるやうにならなければ、国民の道徳的力は盛り上らないのである。単に強い政治でなく、深みのある政治が必要であるといふのは、その意味である。
 人間を人間として尊重する風があつて初めて、国民の個人としての完成は期待されることができる。そしてこの個人としての完成を除いて国民としての完成を考へることができない。そのことは現在、国民性の改造にとつて最も重要な点が残存せる封建的性格の克服であるといふことからも理解されるであらう。人間尊重の観念があつて初めて国民性の改造といふことも真面目な政治の問題になり得るのである。人間尊重の観念は犠牲の観念と相容れないものではない。社会のために身を犠牲にすることは個人の道徳である。しかしつねに個人の犠牲をのみ要求する社会は道徳的であるとはいへない。人間尊重といへは、直ぐに個人主義だと考へるのは間違つてゐる。時局に対する国民の封建的回避を近代的個人主義の現はれの如く見る認識不足こそむしろ、今日の政治の無力の原因である。