教育審議会への期待


 教育改革は近衛内閣の重要政策の一つであるが、果してこのたび内閣に教育審議会が設置されることになり、官制は公布され、委員の顔触も決定を見るに至つた。木戸文相の入閣は近衛内閣の補強工作の一つであると云はれてゐたが、補強されたこの内閣はこれによつて教育改革に向つて一歩踏み出すことになつた。
 今般の教育審議会について先づ注目すべきことは、それが畏くも優渥なる上諭を拝して設置されたといふことである。かやうに上諭を拝したことは大正六年寺内内閣の臨時教育会議設置の際にあつて以来二同目のことで聖旨の洵に深遠なことを惟ふと共に近衛内閣の教育改革に対する意込のほども察せられ、他面またその任務も重大であることが考へられる。
 次に注目すべきことは、この教育審議会が支那事変中に設置されたといふことである。もとより教育改革の必要はすでに久しく叫ばれてをり、近衛内閣の当初からこれを重要政策のうちに掲げてゐるのであつて、早晩着手せらるべきものであつた。けれども事変のために延期を伝へられたものもある際に、それが今日特に上諭を拝して取り上げられたといふことは意義が深い。即ちそのことは一方、一般的に見れば、事変のために手控へにせられたやうに云はれる国内改革もやがて実行せられねばならなくなるのであり、その必要はむしろ事変によつて急速に増大したといふことを示してゐる。これは今後に来るべき種々の国内改革を予想させる一つの例である。そして他方、特に教育について云へば、そのことはやがて実行せらるべき改革が事変の影響を濃厚に現すであらうといふことを示してゐる。この点において今般の教育審議会の設置は特別に注意を要するであらう。それは外形上は従来存在した調査会などと多く変らないものであるが、その実質においてはかなり異つたものとなるであらう。
 教育審議会が具体的にどのやうな仕事をするかは未だ明かではないけれども、恐らく学制改革の問題が中心をなすであらうといふことは、従来の経緯から見て容易に想像し得ることである。学制改革については以前から研究が重ねられてをり、文部省にもプランの持合せがある筈だと思ふ。主要点は改革をこの際実行するといふことに存するが、その前にもう一度検討を行ふのは慎重を期する上において悪いことではない。だが今度もまたいつもの如く調査倒れにならないやうに是非何とか断行する必要がある。改革を断行することは、現在教育に従事してゐる者の職業的利害との衝突を起すことになるので、実は決して簡単でなく、よほどの覚悟を要するのである。改革の断行の可能性そのものは政治情勢の変化と関係があると云ひ得るのであつて、政治情勢の変化がそれを必要にすると共にまたそれを可能にもするのである。
 学制改革において何よりも問題になるのは、その指導精神である。従来伝へられる種々の改革案について考へると、いはば技術的な点、純制度的な点が多かつた。もちろん、そこには思想もあるのではあるが、それもどちらかと云へは、例へば教育の実際化といふことの如く政治的思想に対する直接の関係は薄かつた。しかるに今日改革が行はれるとすれば、勢ひ政治的思想が濃く働いて来るのではないかと思はれる。これは自然のことであるが、危険もまたそのうちに含まれるのである。率直に云へば教育のファッショ化の生じ易い傾向が多分に存在するのである。
 教育の政治化、教育と政治との相剋といふことは近頃の最も重大な問題である。この点について教育審議会は十分に思慮を尽すべきであつて、一時の政治的風潮に支配されてしまつて国家百年の大計を忘れ、次の時代を負ひ、来るべき時代を作る国民の養成において遺憾のないやうに最も留意すべきである。