協力の基礎

 支那事変がいはゆる第三期戦に入ると共に、知力動員といつたものの必要が痛感されるやうになつて来た。もちろん、その必要は最初から存しないわけではなかつた。すでに国民精神絶動員といふ以上、それが国民の全体に関はる点から考へても、またそれを特に精神動員と称する点から考へても、もともとインテリゲンチャの協力が要求されてゐたのである。しかるに従来知力の動員が極めて不完全であつたことについては種々の理由が挙げられるであらう。
 まづ第一に、日本の政治はこれまで文化を尊重することにおいて欠けてをり、文化人をとかく無視する傾向があつた。日本の政治はインテリゲンチャを協力させた経験を十分にもつてゐない。従つて今日政治家がインテリゲンチャの参加の必要を感じるに至つたにしても、如何にインテリゲンチャを動かすべきかについての適当な方策をもつてゐないのである。言ひ換へると、知力の動員の方式そのものに関してすでに政治家はインテリゲンチャの協力に俟たねばならないわけである。
 ここに最初の重要な点がある。政治家や官僚は自分たちの勝手にインテリゲンチャを動かし得ると考へてはならない。それは従来文化人の社会的地位が低かつた我が国においては生じ易い誤謬である。尾を振つてついてくる者が好いインテリゲンチャであると考へると間違ひである。
 日本の従来の政治はインテリゲンチャの関心を喚び起すに足る知的要素に欠けて居たのである。知力の動員に当つては、この動員の方式そのものに関してすでにインテリゲンチャの自主的な意見を聴くことが大切である。
 知力の動員といふ以上、それはインテリゲンチャをインテリゲンチャとして、即ち彼等を彼等の知能において働かせることでなけれはならぬ。しかるに知識階級が如何にすればその知能を最も好く発揮し得るかは、知識階級自身が最も好く知つてゐる筈である。これまでの官僚主義的な遣り方では優秀なインテリゲンチャをその知能によつて最も有効に働かせることは不可能である。文化人を尊重して、彼等自身に彼等の知的協力の方式を発見させるやうに仕向けることが知力動員の最初の前提である。従つてインテリゲンチャ、特に青年インテリゲンチャに対する信頼が根本的に必要である。ところが事実は、今日なほこの信頼が足りないやうに思はれる。
 インテリゲンチャ、とりわけ青年インテリゲンチャといへば、何か危険なものであるかのやうに考へられてゐる。他人を信頼して存分にその力を発揮させるやうにしないで、微細なことに至るまで干渉するといふのは一般に日本人の欠点であると云はれてゐる。知力を動員しようと思へば、まづ知識階級を信じて、その方式の発見を彼等に任せることが大切である。とりわけ青年インテリゲンチャに信頼してその力を自由に発揮させねばならぬ。インテリゲンチャといへは青年インテリゲンチャのことであると云つても好いほどなのであつて、少くともその精神において青年的でないやうな者は文化人であつてもインテリゲンチャではないと考へることができる。
 知性にはつねに若々しいところがある。青年インテリゲンチャを危険視して、彼等を回避するとか抑圧するとかしてゐる限り、知力の動員などできるものではない。殊に今日革新が叫ばれてゐる場合、青年の力の利用されることが必要である。革新とは或る意味では世代の問題であり、青年の問題である。若い世代を恐れてゐては革新などできるものではない。知力動員にとつて青年インテリゲンチャは最も重要な対象であつて、彼等を如何に組織するかといふことが、彼等を如何に指導するかといふことを含めて、最も重要な問題である。知力動員をもつて単に若干の優秀なインテリゲソチャを動員することとのみ考へてはならない、知識階級の大衆を動員することが問題なのである。
 知力の動員にはインテリゲンチャが姿勢を調へる必要がある。インテリゲンチャがインテリゲンチャとして働くためには彼等自身の姿勢が調つてゐなければならない、さもなければ、彼等が彼等の本質に属する知性によつて協力するといふことは不可能である。インテリゲンチャ自身の側において姿勢が調つてゐない限り、知力動員といふものが間違つた方式において行はれ、知性が却つて否定されてしまふ危険がある。
 支那事変が始まつてからインテリゲンチャは如何にその姿勢を調へるべきかが問題になつてきた。その著しいものは「国策の線に沿ふ」といふことである。国策に反したことが今日の時局において許されないのは云ふまでもない。しかし問題は、国策の線に沿ふとは如何なることかといふことであり、そしてこの問題は決して単純ではないのである。
 もし国策の線に沿ふといふことが政府の行ふところにただついてゆくといふことであるならば、これほど簡単なことはないであらう。国策の線に沿ふと云へば、偉さうなことに聞えるが、実は最も安易な道を選ぶことである。
 それが何か偉さうなことのやうに聞えるとすれば、我が国のインテリゲンチャの間に従来政治的関心が欠乏してゐたことを示すに過ぎぬ。単に国策の線に沿ふといふことはインテリゲンチャ
として極めて無責任なことにもなり得るのである。我々はただ現在の政府に対して責任を有するのでなく、自己の良心に対して、全体の国民の運命に対して、また人類の進歩に対して責任を有するのである。
 それ故に真に国策の線に沿ふといふことは国策を発展的に捉へることによつて可能である。そのためにはインテリゲンチャにとつて政府の政策に対する批評の自由が認められなければならぬ。批評は政策の固定化を防ぎ、その発展を可能ならしめる。批評が禁止されてゐては、インテリゲンチャにとつて自身の立場から協力することは不可能である。協力とは元来自主的なものが力を合せることである。単に破壊的な批評は斥けられねばならぬけれども、革新に対して建設的な発展的な批評の自由は認められねばならぬ。革新といふ以上、その反面破壊を含むのは当然であつて、そのためにそれは革新と呼ばれ得るのである。従来インテリゲンチャを十分に動員することができなかつたのは彼等を真に説得し得る思想が存しなかつたためであることを考へるならば、かやうな思想を新たに形成するためにも彼等に自由の認められることが必要である。
 批評が単なる批評に終らないで革新的な力になるといふには、知識階級が種々の組織に組織されなければならぬ。知力の動員にとつても組織の問題は重要である。インテリゲンチャが団体を作つたり集会をもつたりすることが今日のやうに抑止されてゐては真に知力を動員することはできない。要求される団体はインテリゲンチャ自身の間から自発的に生れ来る組織でなければならぬ。しかるにかやうな自発的な力が盛り上つてくるやうにするには、彼等に時局の真相を知らせることが大切である。
 知力動員といつても、直ぐに効果の見える仕事をばかり考へるのは間違つてゐる。インテリゲンチャの仕事は本来そのやうな性質のものではない。けれども戦争は反面建設でなければならず、長期戦は反面長期建設でなければならぬとすれば、インテリゲンチャの仕事の意味は重大である。目前のことばかりを考へて国策に順応すると云つてゐるのでは、真にインテリゲンチャにふさはしい態度とは云へないであらう。
 しかしまた日本のインテリゲンチャは、今度の事変が課した深刻で広大な問題を追求することによつてのみ、自己のインテリゲンチャとしての問題を解決し得るのであり、真に生命のある仕事を為し得るのであることを忘れてはならぬ。もはや如何なる逃避も許されない。その意味において凡てのインテリゲンチャは死力を人して時局に協力しなけれはならないのである。