宗教復興の検討

 

 この頃宗教復興といはれるものは種々の要素を含み、複雑な意味をもつてゐる。とりわけ宗教に関しては安価な楽天論ほど危険なものはないのであるから、我々は先づそれに対して充分批判的であることが必要である。実際、いはゆる宗教復興の内容が何であるかを省るとき、果してそれが宗教の復興といはれ得るものであるかどうか、誰も疑ひなしにはゐられない。顕著な現象といへば、ラヂオの聖典講義が人気をよんだこと、それに刺戟された仏教書の出版のあるものが成功したこと、そしてこれまで全く見られなかつた宗教記事が一般の新聞雑誌に時々現はれたこと、ぐらゐであらう。我々はこれをもつて宗教の力が発揮されたものとすべきか、むしろヂャーナリズムの偉力が示されたものとすべきか、判断に迷はされる。いづれにせよ、この頃宗教復興といはれるものは主としてヂャーナリズムの上における現象である。そしてこの方面への進出にしても相対的なことであつて、宗教復興などといはれ得るほどのものであるか、疑問とすべきである。
 かくの如き宗教復興に今後どれほどの永続性、発展性が期待されるであらうか。とかくヂャーナリズムは魔物である。ただこの機会に教団がヂャーナリズムに対する認識を新たにし、有能なヂャーナリストの養成に努力するやうになれば、事情は以前とは変つて来るかも知れないと思はれる。
 ヂャーナリズムの対象は知識階級であり、この階級が浮動的であることは知られてゐる。そして今日彼等の間に全く忘れられてゐた仏教古典に対する「興味」が呼び超されたにしても、それが「信仰」にまではひつたものとは想像できないであらう。この「興味」といふものが甚だ固定性を欠いてゐることにも注意しなければならぬ。しかるにひるがへつて、宗教本来の、もしくは宗教固有の領域においては如何なる実情であるか。宗教復興といつても、えらい宗教家が現はれたとも聞かない。新しい宗教運動が勃興したとも聞かない。教団囲の内部はもとの通りであつて、経済上並びに組織上当面せる困難な諸問題についても、何等の解決も改革も見られないやうである。教団の内部には宗教復興などいふ気運はほとんどなく、寺院は荒れ、僧侶に対する大衆の帰依は増してもゐないであらう。しかるに教団の内部における「宗教改革」を抜きにして真の「宗教復興」が可能であるであらうか。宗教改革は「宗教家」にまつべきものであつて、ヂャーナリストの手によつては不可能である。
 今日の「宗教復興」といふ語は多分それ以前から我が国においていはれてゐる「文藝復興」といふ言葉を無雑作に真似て用ゐられるやうになつたものであらう。しかし文藝の場合には復興といふことが有意味に語られ得るにしても、宗教の場合にあつてはそれは本質的なものを現はし得ないのではないか。これを歴史的に見ても、ヨーロッパにおける近代の文藝運動の端緒は「文藝復興」(ルネサンス)と呼ばれたが、宗教運動のそれは「宗教改革」(リフォーメーション)であつた。我が国においても法然や日蓮の如き、宗教復興家といふよりも宗教改革家といはるべきであらう。私が今このことに注意するのは、単に言葉の問題なく、事物の本質に関することであるからである。そこに宗教と文藝との間における根本的な差異も考へられ、いはゆる宗教復興の批判の手懸りも見出される。
 宗教においては「改革」なくして「復興」はあり得ない。それは人間の根源的な、全体的な生活に関するからである。しかもこのやうに改革的な宗教こそ他面において最も伝統的なものである。即ちここでは改革も何か別に新しいものを作ることとしてではなく、常に宗祖や祖師に帰こととして体験される。しかるに文藝の如きにおいてはいつでも創作といふこと、別に新しいものを作るといふことが予想されてゐる。このことがかへつてこの場合「復興」といふ言葉に含蓄あらしめるものである。「宗教改革」に出発しないやうな、無雑作に「文藝復興」に擬して「宗教復興」といはれてゐるやうな最近の現象が、根柢浅く、権威のないものと思はれるのは当然である。宗教復興などいふ華やかなことはヂャーナリズムの表面であつて、最も怠を要する教団内部における思想上並びに実践上の改革は何等見られず、そこでは宗教は精紳的にも組織的にも窒息してゐるのが現状であらう。
 これを宗教復興といひ得るであらうか。もし今日復興について語るならば、「宗教復興」といふべきでなく、単に「古典復興」といはるべきであると思ふ。実際、何程かの復興があつたとすれば、それは「聖典」、仏教古典の復興であつた。しかし古典の復興は決して直ちに宗教そのものの復興を意味しない。宗教の復興は信仰の復活でなければならぬ。あたかも方向を失つた文壇において文藝復興の声と共に種々なる古典の復興、バルザックやドストイェフスキイー、スタンダールやチェーホフ、あるひは紫式部、西鶴、馬琴などの再吟味が唱へられたやうに、方向を失つた思想界において種々なる古典の復興が今後も唱道されるに至るであらうことは想像するに難くない。既に「論語復興」といはれ、やがて老子や王陽明、あるひはシェリングやエックハルト、等々の復興が語られるやうになるかも知れない。
 いはゆる宗教復興を「古典復興」といふことに解するならば、この現象もそれ自体としては確かにその意義と価値とが承認されてよいことである。けれどもこの場合、かかる古典復興の底に動いてゐるものが依然として思想不安であり、従つて仏教聖典の流行そのものが安心でなくて不安の一表現であることを出でず、やがてそれが他のものの流行乃至復興によつて代られないといふ保護が少くとも現在は全く有しない、といふことに注意しなければならないであらう。不安な心は安住することを知らず、次々に新しいものを求め、新しい流行を作つてやまない。我々はこれを「不安な流行」と呼ぶ。しかるに最近流行の仏教書の一二を取つて見るに、ヂャーナリスチックなあるひは文学的な表現のうまさはあるにしても、その思想的根柢に至つては、従来ほとんど常識的に知られてゐた筈のものにどれほど進んでゐるか、疑問であらう。もしこれが何か全く珍しいこと、新しいこととして迎へられてゐるといふのであれば、それはインテリゲンチャの従来の知的怠慢に帰すべきことであり、かかる故障は速に補はれねばならぬ。
 仏教古典の復興はもとより甚だ歓迎すべきことである。ただしかし遺憾ながら、これを如何なる基礎の上に、如何なる方向において、如何なる方法をもつて復興すべきかについての明確な方針はなほ確立されてゐないのではないか。この頃のいはゆる宗教復興を機縁としてこの方面における先駆的指導的業績の出現することが何よりも待望される。
 宗教復興といふ現象を思想問題として見るとき、種々教訓的なものが含まれてゐる。いはゆる日本主義なるものは、一時廃仏棄釈論をすら捲き起しさうな形勢にあつたが、しかしこの二三年来いろいろ喧伝されて来た東洋思想のうち、最近の仏教聖典ほど一般的な、いきいきした関心を喚び起したものがないといふことは、意味深いことでなければならぬ。それはともかく偏狭な日本主義では到底駄目であるといふことを明瞭にした。
 我々日本人はやはり世界的意義ある思想を求め、また必要としてゐるのであると思ふ。仏教は東洋において生れたが、「世界宗教」としての内容を具へたものである。単に日本固有といふだけで世界的意義を有しないものは文化的に無価値であらう。追随主義は如何なる場合にも斥くべきであり、自主的、自律的であることはまことに大切である。けれども我々が思想上自律的であるといふことは、決して外国思想排斥といふことと同じであつてはならぬ。仏教は日本で生れたものでないが、鎌倉時代の偉大な宗教家たちは、この仏数を学び、しかも徒らに日本的などいふ見地に囚はれることなく、仏教そのものの、釈尊の真精神をひたすらに生かさうとし、それがかへつて日本仏教といつてい特色あるものを作り出すことになつたのである。
 もしさうであるならば、我々は一歩を進めて考へることも出来よう。西洋思想にしても我々が真に徹底的に理解すれば、そこにおのづから日本的なものが出て来る筈である。我々が日本人である限り、身をもつて西洋思想を体得するとき、それは既に日本的なものになつてゐる筈である。それがどこまでも西洋的に過ぎないといふのは、それを突き抜けるまでにそれに徹してゐない故でなければならぬ。そして今後真に日本的な、しかも世界的意義ある思想が我が国において創造されるためには、果して日本主義者のいふが如き道によるのが速いか、むしろ最近まで一般に折角努力されて来た道に従つて西洋のものを突き抜けて行く方が近道であるか、問題であらう。少くとも我々の科学が西洋科学の流れを汲む限り、且つ科学と哲学とは密接な関係に立たねばならぬ限り、今後の「日本思想」が西洋思想の要素を全く排斥して創造され得るものとは思はれない。
 文化の問題はただ伝承の方面からのみでなく、また創造の方面から考察されることが重要である。新しいものの創造なしには昔の伝統も真に伝はり得ないことは、たとへば今日の支那を見ても分る。今後如何にして真に日本的な、真に将来性のある文化を創造すべきかが我々の最大の問題でなければならぬ。
 私が今このやうなことをいふのは、仏教古典の復興の地盤についてある反省を与へんがためである。仏教思想の研究は我々日本人に特別に課せられた義務であるけれども、この場合我々は創造の方面なくして真の伝承もないことを考へ、その諸条件を絶えず顧みなければならぬ。我々は我々の研究においてつねに、ゲーテのいつた如く、「歴史的なものと生産的なものとの結合」を目標としなければならない。
 ラヂオの聖典放迭が歓迎された一つの理由として、それまでの修身教科書的国民道徳論に対して闊達自在な処世訓としての意味がこれに認められたといふことが挙げられないであらうか。さうだとすれば、これは道徳教育の問題への反省ともなるものであるが、我々は次にこの方面から出立して、いはゆる宗教復興の意味を考へてみよう。
 この頃仏教が歓迎されてゐるのは、宗教復興といふ名にも拘らず、宗教としてよりも、寧ろ道徳乃至処世訓としてではないかと思ふ。この機会に出た仏教書を見ても、仏教の道徳的方面はよく現はれてゐるが、その宗教としての内容には乏しいやうである。何処に仏教の道徳とは異なる宗教的本質があるのであるか、何故に我々は道徳以上の宗教を必要とするのであるか、といふが如き問題を以て臨むとき、充分な解答はそこに与へられてゐない。ただ道徳乃至処世訓としても、従来説かれた儒教風の修身教科書的道徳に比しておのづから闊達自在な趣があり、それが人々に好まれてゐることもあらう。もつとも孔子などの教へにもかの道学者流の解釈を超越してもつと自由な処がある筈だと思ふ。
 私は東洋思想のひとつの特色を日常性の尊重といふことに見てゐる。日常性の深い意味を考へた点に東洋思想のともかく重要な特色がある。先づ西洋思想においては日常的なものに対する文化的なもの、技術、科学、藝術等に特別の、勝れた意味が認められる。次に西洋思想においては日常性に対する特定の歴史的時期、即ち「危機」といふが如きものに特別に深い意味が認められる。広義において文化主義的歴史主義的といふことが西洋思想の特色である。これとは反対に東洋思想の特色は自然主義に存するといはれてゐるが、しかしこの自然は西洋人の観た自然とは甚だ異なるのであつて、私はむしろ日常性の尊重といふことをもつてその特色と考へたい。仏教の如きも、キリスト教があるひは文化主義的傾向を濃厚にし、あるひは終末論的歴史観の色彩を濃厚にするに比して、そのやうな特色を有するものと見られ得よう。
 もしさうであるとすれば、今日いはゆる非常時にあたつて、何故に特にインテリゲンチャの間で仏教が関心されてゐるかといふ理由も理解されるであらう。非常時は文化を抑圧、無視して進む。この力に圧せられた知識階級はおのづから、文化といふものに特別の意味を認めない思想のうちに安住の場所を求めようとする。また非常の時機をどうすることもできないインテリゲンチャは、むしろ日常性に深い意味を考へる思想のうちに非常時意識の解消を企てようとする。かくの如きことが最近、積極的な信仰に達したわけでなくて仏教に興味がもたれる理由、その心理的原因の大きな部分をなしてゐるのではないかと思ふ。そこに人々は非常時における処世法を見出さうとしてゐるといひ得るであらう。
 日常性の尊重はもとより重要なことに相違ない。日常性の深い意味の認識は西洋哲学には欠けてをり、これは今後我々によつて東洋思想から継承発展されねばならぬものである。しかしながら日常性の思想は、特にそれが宗教的根柢から離れて単なる処世法となる場合、極めて容易に現実への妥協、歴史からの逃避となる危険をもつてゐる。そして今日この危険は大であり、警戒を要する。我々はかへつて日常性のうちに歴史性を明かにする新しい日常性の哲学を樹立しなければならぬ。哲学がこれまで日常的なものと歴史的なものとを何か全く異なるものであるかのやうに見る傾向があつたとすれば、我々はそれらを統一的な根柢において、相互の正しい聯関において認識しなければならない。従来の如き自然主義的根柢において日常性の意味を考へるのではなく、寧ろ「日常性の歴史哲学」ともいふべきものが要求されてゐる。
 いはゆる宗教復興が社会的不安に原因することはいふまでもない。しかしながらそれが今日信仰に基く社会的不安の積極的な実践的な克服を意味するのでなく、むしろ消極的な個人的な処世法を意味することは既に述べた。宗教復興はまた日本精神の復興として説明される。もちろんそのやうな関係がなくはないにしても、しかしそれはまた偏狭な日本主義の行き詰りとしても考へられねばならぬことも既に述べた通りである。宗教復興は更に現代哲学の傾向と一致するものとして説明される。そしてひとはこの場合、西洋現代の哲学における形而上学的傾向、その倫理的傾向、特にそこでも「無」が根本概念となつてゐることを指摘する。
 しかしながら今日のいはゆる「実存の哲学」においていはれる「無」と東洋思想における「無」との間には根本的な区別がある。ここで我々は哲学的議論に入ることを避けねばならないが、その差異はたとへば次のことを考へてみても容易に理解されるであらう。作家横光利云はその文藝的感想においてしばしば「無」といふことを書かれてゐる。しかもこの無が東洋古来の無と同じであり得ないことは、横光氏の創作ほど西洋的なものが現はれてゐるのは少いといふ批評によつても知られる。もちろん現代哲学の無も東洋古来の無も、共に無といはれる限り、そこに何か相通ずるものがあるであらう。けれども両者の間には決して一緒にされ得ない根本的な差異がある。この認識の上に立つて両者の統一は探求さるべきであつて、無雑作な、安易な折衷主義乃至混合主義は、思想発展にとつて最も有害である。問題の困難さの認識がないところに真の解決もない。
 ある精神病学者の話によると、我が国においては精神病学の理論的方面は西洋に比して甚だ遅れてゐるが、実際の病気治療の方面はかへつて発達してをり、これは禅などの影響によるといふことである。事実、そのやうに古来「心的技術」といふものを発達させて来たことが東洋思想のひとつの特色をなしてゐる。「心境」と呼ばれるものはかかる心的技術と関係があり、その所産である。そこでまた宗教復興は「心境」へのあこがれであり、社会的不安といふ現実的なものから心境への逃避を語る方面があるであらう。
 我々日本人は、特に現代の如き不安の時代においては、ともすれば心境的なものに帰らうとする傾向が強い。けれどもまた単に心境的なものにとどまることができないといふのが現代人の真実である。そこに我々の不安がある。文壇の方面においても、文藝復興の声と前後して、心境的文学が復活して輩出した。しかし結局誰もそれに満足することができなかつた。今や誰も心境的文学を越えて進まねばならぬことを考へてゐる。
かもその進むべき方向が明確に規定されてゐないところに現代文学の依然たる不安がある。
 今日の宗教復興は種々なる形における心境的思想を生むやうになるかも知れない。しかしそれとても一時のことである。やがて人々はそれに満足できなくなり、精神的不安は依然として残るであらう。なぜなら今日の宗教復興は決して信仰の復活でなく、それ自身がむしろ不安の表現に過ぎず、そのうちに現代の思想的不安を克服すべき新しい積極的な原理はなほ何も示されてゐないからである。宗教改革なくして宗教復興はあり得ない。思想の創造なくして思想の真の伝承もない。我々の問題は改革でなければ、創造である。「宗教復興」といふことが束の間の華やかさに終らなければ幸である。