教育の権威 1937.11.5

 現在の教育を見て最も痛切に感ぜられる事は教育の権威が失はれてゐることである。今度の文部大臣更迭もその例であつて、安井文相が辞めた事情には健康上の理由もあつたと言はれるが主として政治的の理由に基くことは殆んど周知のことである。其の政治的理由といふのは、安井文相が文部行政に於て何か失敗をしたとか或ひは教育上の意見が他の閣僚と一致しなかつたといふ様な文相としての仕事に関係するものではなく、単に閣内の事情に依ると言はれてゐる。
 勿論、内閣全体として強固になることは必要なことであるが、しかし、若しさうであるならば、何故に安井氏を最初に文相に置いたかといふことが問題になつて来るわけである。これを見てもわかるやうに文部大臣の地位といふものは極めて軽視され、組閣の際の都合といふが如きものに依つて左右されてゐることは明らかで、その人が文部大臣として適当であるかどうか、教育上の見識を有するかどうか、といふが如きことは殆んど問題にならない。
 新文相の銓衡に当つても見られるところであつて、木戸侯はその文政上に関する見識乃至手腕を認められて文部大臣になつたといふよりは、これはまた、他の政治的目的に支配されてゐる。かういふ事情は既に我々をして文政の権威、教育の権威といふものを疑はしめるに充分であつて、その文部省内の官吏にしても御殿女中と綽名されてゐる位で少くとも従来に於ては文部省の官吏となることは官吏としてそれほど名誉であるとは考へられなかつたのである。ところが、かういふ文部省が実は日本の教育に対して絶大な権力を有してゐるのであるが、学校教師諸君もまた、教育の権威といふことに就いての自覚が足りないやうに思ふ。
 教育は国家百年の大計などといはれるやうに、その時々の政府の都合に支配せられるべきものではなくして、将来の国民を作る立場から考へられるべきものである。
 教育者は自分の使命の大きさといふものに就いてもつと深く自覚しなけれはならない。かやうな使命の大きさを感じないものは教育者でなくして只の職業人に過ぎないのである。しかも他の職業人の場合には自分の責任は自分が尽さなければ立ち所に罰せられる。例へば銀行員であれば毎日の帳簿をキチンキチンと整理するといふ様なことをしなかつたり、或ひは調査を怠るといふやうなことがあれは必ず会社に迷惑を掛ける。或ひは顧客に迷惑をかけるといふやうなことになつて結果がすぐ現れてくる。教育者の仕事はすぐ結果がその様に現れるのではなくして将来に於て現れるといふ事からしてとかく無責任になり易いのである。勿論、例へば入学試験の成績をよくするとかいふやうなことはすぐ結果が現れるからしてさういふ事には一生懸命になるけれども、本当の将来に於て結果が現れるやうな最も重要な事に対しては不熱心である。或ひは何等の見識も持つてゐないと言ふことが出来はしないかと思ふ。
 教育の権威が確立されるためには教育者がもつと自主的になるといふことが必要であつて、その為には自分の見識を養ふことが必要である。ところが、さういふ見識を有する教育者は次第になくなつてゐるのである。教育者は常に将来に対して責任があるといふことを自覚しなければならぬ。自分の預かつてゐる子弟は将来に於て活動すべき者なのであるからして、その将来に於て有用な材となるべき人間を作ることに何時も目的を向けなけれはならぬ。その為には時の権力、或ひは勢力に対して毅然として起ち、自己の見識に従つて教育を行ふ覚悟がなけれはならないのであつて、日本の歴史を見ても真の教育者といふものは、すべてかういふ人であつたのである。吉田松陰とか福澤諭吉などの例を思ひ起してもわかることである。
 教育は将来活動すべき人間を作るのであるから教育は社会の将来あるべき姿、国民の将来あるべき姿といふやうなものに就いて、はつきりした考へを掴むこと、少くとも掴まうと努力することが大切である。然るに唯、時の権力者、町村の議員であるとか、更に視学や知事であるとか、文部省の役人であるとかにおもねる態度があつて、真の将来の国民を作るといふ自覚が足りないやうに思はれる。
 今日の教育界の多くの人は日本国民の体位が悪くなつたとか、青年の志操が堅固でないとかいふ様なことに就いては色々非難してゐる。これは政治家なども言つてゐるのであるが、かういふ国民を作つたのは一体、誰の責任であるかといふことに就いて自分の責任と考へなければならぬのに、責任が他にある如く考へてゐる人が多くあるのではないかと思ふ。
 現在行はれてゐる国民精神総動員を見ても、それを行つてゐる者は官吏であるが、殊に古手の官僚が何でも先立つてやることは最近の著しい傾向で好ましくない事であるが、この精神運動においてもとにかく教育者の自主的な力が殆んど認められてゐない、さうして政治家がさういふ様に教育者の力を認めてゐないことに対して教育界自身は殆んど無反省であつて、ただ上から言はれたことをやりさへすれば好いと言つたやうな態度である。これを見ても教育の権威が疑はれるのである。
 国民精神総動員になつてから仕事は文部省から内務省の方へ移ってしまつたやうに見える。教学局の如きものも新設されてもまるで休業状態であるといふやうな状態である。上は文部省から下は小学教員に至るまで教育の権威についての自覚を失ひまた教育の権威が認められてゐない状態に対して何らの疑問も不平も、不安も持つてゐないといふのが現在の教育界の有様ではないかと思ふ。将来の国民を養成する地位にある者がこのやうであつては国家の為に困るのである。