国民文化の形成
日本文化の特質として種々のものを挙げ得るであらうが、ここに先づ、それが保守的であると同時に進取的であり、進取的であると同時に保守的であるといふ点を注意したい。原勝郎郎博士はその名著英文『日本史』の中で次のやうに書かれてゐる。
「有史以来、日本人はつねに、文化の点では、昔から所有してゐるものをなかなか棄てようとはせず、他方彼等は、自分に気持よくまた有益に思はれる新しい外国の要素を取り容れることに頗る熱心で鋭敏であつた、いひ換へると、日本人は保守的であると同時に進取的であり、且つこの二つの方向において甚だしくさうであつたのである、かやうに同時に働く保守と同化の結果、この国は次第に、日本のもの及び支那のものの、それが好ましいものであるとないとに構ふことなく、巨大な量の貯蔵所となつたのである。」
そこで我が国においては、その起源が支那にあつて、しかも支那ではその形跡が全く失はれてゐる多くのものが今日もなほ存在してゐる。我々の最も遠い先祖の宗教上の儀礼やその他の伝統が現在我々にまで伝はつてゐることは言ふまでもない。日本文化のかくの如き特性についても種々の解釈があり得るであらう。私はそれを今、文化と大衆との関係から考へてみたいと思ふ。
実際、日本では最も古いものと最も新しいものとのあらゆるものが同時に存在してゐる。西洋文化を最も熱心に吸収してゐる日本において、また東洋文化が最もよく保有されてゐるのである。日本文化が東洋文化の代表者であるといふことは、東洋文化のあらゆる重要な要素が日本においでは今日なほ生きて働いてゐるといふ点から考へれば、確かに真実である。そしてそれは文化が大衆の中へ入つたことと関係のあることなのである。
一つの著しい例として仏教をとつて見よう。仏教はインドで衰へるやうになつてから支那で盛んになり、支那を通じて日本へ輸入されたのであるが、現在、仏教はその支那でも衰へて、三国のうち日本においてのみ勢力を維持してゐる。その重要な理由と考へられることは、日本においては仏教がほんとに大衆の中へ入つて行つたといふことである。日本の文化は、歴史的に見れば、貴族の文化が武士の文化になり、武士の文化が町人の文化になつたのであつて、このやうに絶えず上から下へ、中央から地方へ、文化の中心が動いてきた。仏教も初め貴族の信仰を得、それが堕落し始めると、武士の信仰によつて新しい要素を加へ、それが衰微し始めると、平民の信仰によつて新しい力を得たのである。浄土真宗とか日蓮宗とかの民衆的な仏教が出来たことによつて、日本では仏教も今日まで保存されたのである。
すべての文化は大衆的基礎を得てその伝統も鞏固になる。大衆の中に入らないものは結局滅んでしまはなければならぬ。大衆は文化保存の力である。しかし同時に大衆は文化革新の力である。支那文化から大きな影響を受けながら日本の文化が固有のものを作り上げてきたのは、日本においては文化の中心が絶えず上から下へ移動し大衆の進出によつて民族固有の力が現はれてきたからである。
大衆的基礎がなければ文化の伝統は確立されず、伝統が確立されなければ文化の発達がないといふことは、日本の歴史における他の方面の事実からも理解されるであらう。
辻善之助博士はその名著『海外交通史話』の中で、日本文化の性質を論じ、「日本の文化の発達の跡について見わたすに、その文明が永く続いて発達しない。耐久力に乏しく、粘着力少く、忽ち開けて忽ち萎み、忽ち盛んにして忽ち衰ふるは、文化の性質として大なる欠点といはねばならぬ」とその冒頭に述べ、若干の例を挙げて説明されてゐる。
例へば、印刷術が日本で始まつたのは西洋よりも早いことである。日本における版刻の最も早いのは百万塔の陀羅尼であり、西紀七六四年のことであつて、西洋において版刻が始まつたよりも約七百年も旧い。その後も有名な版刻が時々現れてゐるが、その発達には連絡がなく、支那の影響によつてぽつりぽつりと出たものであつて、みづからは発達しなかつたのである。また数学においては、関新助は十七世紀の末(西紀一六四二生)に出て、代数、三角、解析幾何、積分等に亙る高等数学を考へてゐたのであるが、これも発達しないで終つた。また天文学においては、渋川春海(西紀一七一五没)は、望遠鏡がまだ開けてゐないに拘らず、能く千七百七十三の星を数へた。けれどもこれも発達しないで、後に西洋から天文学を輸入するやうになつたのである。
かやうに日本の文化には断続が多くて連続が少いのであるが、その理由として、辻博士は、第一に国民性、第二に上下の隔絶、第三に外国関係といふ三つを挙げられてゐる。しかし国民性に持久力がないといふことは、辻博士も述べてをられるやうに、反対の例もあるのであつて、注目しなければならぬのは他の二つの理由である。そのうち「上下隔絶」といふのはつまり文化が大衆の中に入つて行かなかつたことである。「上の方ばかり発達して下は之に応じ得る素養が無かつた。かくして、折角優秀な文化も、これを自由に採り入れることが出来ないで、常に途中で衰微し或は滅亡したのである。」
文化の大衆化は国民文化の形成と発達にとつて重要である。大衆化によつて文化は広い地盤を得て大きな伝統となり、連績的な発達を遂げることができる。大衆化されることによつて文化は普及するに止まらず、文化としてもその性質を変化して新しい要素を加へて来るのである。それ故に文化の大衆化とは単なる通俗化のことではない。同じものをただ分り易く或ひは簡単に説明するといふことだけが文化の大衆化ではない。ほんとに大衆化されるためには文化はみづから多かれ少なかれその性質を変化しなければならないのであつて、そこに文化の大衆化の重要な意味があるのである。そのとき文化が自己の性質を変化するといふのは、流化するといふことであつてはならず、ただ大衆に媚びるために俗流化するといふことであつたはならず、却つて文化的にはいはば処女地であるところの大衆の清新な力を自分のうちに吸収して自分が新たに生れ更るといふことでなければならぬ。近代哲学の父といはれるデカルトが、従来学者の間の通用語であつたラテン語を排して彼の国民の言葉即ちフランス語で書いたといふことは、彼の哲学が従来のスコラ哲学とは異る新しいものであつたから可能であつたのであり、また意味があつたのである。
次に辻善之助博士が日本文化の発達にとつて外国との交通が重要であつたことを力説されてゐるのも、まことに正しい見方である。辻博士は日本文化の歴史を回顧しつつ次のやうに論じられてゐる。
「総て支那と交際の盛んであつた時に、其刺戟に依つて、日本の文化は特殊の発達をいたして居る。併しながら其交際が止むと云ふと忽ちにして其文化の発達も止まつてしまふ。交際が中絶すると文化も中絶する」、「茲に外国の刺戟と云ふのは必ずしも、其文化の要素に、直接に外国の影響を受けるといふのでなくして、一般に文化は外国の刺戟を受けるといふと、有らゆる他の文化の要素は、直接なると又間接なるとを問はず、白からその発達をするものである」、「要するに日本の文化といふものが、忽ち開けて忽ち中絶するかの如く見えるのは、性質が然らしむるのではなくして、外国との交際が忽ち開け忽ち中絶するといふ事が主要なる原因となつて居るのである、即ち日本の文化の発達は外国との交際と相竝んで行つて居るのである、されば今後と雖も、外国との交際を盛んにつづけてゆけば、その刺戟を受けて盆々文化の発達を遂げ、世界の文明に大いなる貢献をいたすであらうと私は楽観をして居るのである。」
一国の文化が他国の文化の影響によつて発達するといふことは歴史の法則である。それは支那の歴史においても証明されてゐることであつて、支那文化の発達が停滞したのは、その周囲にすぐれた文化国がなかつたからである。そのために支那には自分のみを高しとするいはゆる中華思想が生じて、西洋文化に接したときにも、これを真面目に学ばうとはしなかつたのである。我々日本人がかかる支那流の考へ方に知らず識らず感染されてゐるといふことがないやうに注意しなければならぬ。もちろん、他の模倣のみあつて自己の発明のないところには文化の発達はない。しかし自己の発明といふものも他の模倣によつて刺戟されて生れるのが普通である。
支那の文化の進歩を遅らせたものに、その尚古主義がある。即ち支那には昔ほど善いといふ思想が古くから存在してゐる。この保守的な尚古主義が独善的な中華思想と結び付いて、西洋の学術に接したときにも、西洋の光学、力学、電気学等、何でも自分の国の昔にあつたといふやうに考へて、それを熱心に学ぶことに努めなかつたのである。自国のものは何でも善く、他国のものは何でも自国にあるといつたやうな支那式の考へ方に、我々日本人が知らず識らず感染してゐることのないやうに警戒を要するのである。自己批判なしに進歩はあり得ない。
しかるに自己批判は他に接することによつて生ずるものである。他を知ることは個人にとつてと同様民族にとつても反省の機会になる。自己批判を欠く独善といふものはまた大衆から隔絶してゐるところに生ずるものであつて、大衆と深く接解することは独善的態度をなくするためにも大切なことである。
かやうにして国民文化の形成にとつて、文化が大衆の中へ浸透するといふことと、外国文化に接解するといふこととは、二つの最も重要な条件である。