最近学生の傾向

 知的動員といふやうなことが唱へられ、また事実文士の漢口従軍などといふやうなことがあつて、インテリゲンチャの問題も最近いろいろ新しい様相を呈してきた。この時において学生の状態は如何なつてゐるであらうか。
 私の経験からいふと、学生も最近次第に変つてきたやうに思はれる。懐疑的で虚無的、批評的で傍観的、などといふことが従来学生一般の態度のやうに見られてゐたのであるが、そこから現在積極的なものが多少現れ始めたやうに感ぜられるのである。これは時局の進展の影響によるものであらう。
 もちろん以前の態度が悉く清算されたといふのではなく、またそのことが必ずしも賞すべきことであるのではない、いはゆる転向よりも発展があらゆる場合において大切である、発展にとつては前のものが土台となり、そのなかに含まれてゐた善いものが新しい立場のうちに高められて含まれるといふことがなければならぬ。いはゆる転向が転落に過ぎないといふ例を我々はすでに十分たくさん見てきたのである。
 種々の非難があつたにも拘らず私は従来の学生の態度のうちには極めて当然のものがあつたと考へる。私はそのやうな懐疑や虚無、批評や傍観等、あらゆるものの中で鍛へられてきた青年に今後を期待したいのである。今その消極性から積極性へ徐々に移りつつある彼等の経てきた鍛練に意味を認めたいのである。すべて人生のことは消極的とか積極的とかいつても或る意味では相対的なことである。懐疑、虚無、等々のものもそのなかにおいて人間と思想とが鍛へられるといふことから見ると積極的な意味をもつてゐる。そして時代はよく鍛へられた強敵な人物を必要としてゐるのである。
 今積極的に動かうといふ気持が学生の間に漸く盛んにならうとしてゐる場合文壇などの例から考へて私の希望したいことは自主性を失はないといふことである。今日の学生にはその教育されてきた周囲の事情から以て自主的活動に対する訓練が欠乏してゐる。しかるに自主的でないところに真の積極的はなく、積極的になるといふことは自主的になるといふことである。我々はめいめいが時局の解決の責任を負うてゐると考へねばならぬ。今日我が国では指導原理の貧困が云はれてゐるのであるが、さうであるとするならば、学生諸君もただ徒らに他に向つて指導原理を求めるのでなく、自分たちがそれを作るのだといふ勇気と覚悟とをもつべきである。今日はもはや他を非難することによつて自己の責任を回避し得るやうな時代ではない。しかし確固とした方針なしに徒らに動き出すことは却て有害であらう。
 積極的になるといふことは政治的になるといふことと同じに考へられてゐる。けれどもそのために文化が無視されるやうなことになつてはならない。支那事変以来、戦争と文化との関係についていろいろ論ぜられてきたが、今日過去を振返つて公平に観察するとき、我が国の文化は事変以来どのやうな状態になつてゐるであらうか。そこには果して何等憂慮すべきものがないであらうか。近代戦は綜合戦であるといはれるやうに、文化そのものが政治の一つの力である。それは事変そのものの進展の過程において、益々明かになりつつあるこをある。インテリゲンチャは現在その観点から特に文化の問題において積極的にならねばならないのであつて、文化を徒らに政治化することは却て文化の権威を傷つけ、文化の品質低下を来たすことになるのである。積極的といふことと政治的といふこととの抽象的な同一化には危険が含まれてゐる。むしろ今日の政治が逆に文化的にならねばならないのであつて、さもなければ支那事変の如きも完全に解決されないであらう。
 最近学生の間に次第に積極的な気持が出てきたことについて、政治と文化との関係についての具体的な見方が徹底することが何よりも必要ではないかと思ふ。