計画的政治を行へ

 ″闇″は権威を失墜す

 闇取引は無くなる処か益々旺になつてゐる。公定価格といふもので買へるものに一体何があるのかと問ひ度い位である。今マッチの値上げが問題になつてゐるらしいが私共はこれまででも公定値段でマッチを手に入れてゐたわけではないのである。若し値上げになれば政府は闇相場に追随して闇相場を公認することになるのである。それが新しい闇相場を作る原因にならないと誰が保証し得るであらう。闇取引の横行は政治の権威の失墜を示す一つの例に過ぎぬ。権威のない政治はそれは政治でない。政治の貧困どころの問題ではないのである。権威のない政治は国民の協力を得ることが出来ないのは勿論、国民からサボタージュされる危険がある。権威のない政治が国民から信頼される筈はない。政治に対するペシミズムに国民を追込んでしまふ危険さへあるのである。平気で闇取引が行はれてゐるといふことは、経済の問題としてのみでなく道徳的な問題としても重大である。あのやうに喧しい国民精神総動員といふものの効果がまるで挙つてゐない。抽象的な説教や些末的な教訓が何んの役にも立たぬことは最早や明瞭である。現実の政治が根本から立直つて国民に対して権威を持ち、国民から信頼されるやうになることが肝要である。
 政治の危機は経済的危機であるのみならず、実に精神的危機にある。偶々一人の政治家にも気附かれなかつた状態である。その影響は深刻である。町田総裁のいはゆる「国民の心理」の問題は今日に於ては只国民の気受けといふやうなものでなく、国民の精神的危機の問題に深化しつつある。インフレーションはそれに拍車をかける危険を含んで現はれてゐる。
 私はあのドイツのインフレーションの時に於ける道徳的頽廃を想起する。その頃の大小の享楽物の安易を考へるとき、わが国にも同様な心配がないとは云へないだらう。政治の権威は素より単なる権力の問題ではない。経済警察の力だけで闇相場や闇取引がなくなるものではないことは、既に明瞭になつてゐる。権威ある政治は何よりも合理的政治でなけれはならぬ。国民に納得される合理的な政治であつて国民の協力を得ることが出来、さうして初めて政治は強力になることが出来るのである。今は非常時であるから無理があつても当然であるといはれるかも知れない、併し無理は永続しないであらう。又国民精神の安定を図らないで長期建設等といふことは出来ないであらう。勿論戦時に於て犠牲は避け難いことである。何人も犠牲を覚悟せねはならぬが、その犠牲の公平に負担されて行くことが大切であつて、それが無理を社会的に合理化して行く方法である。目的が納得されさへすれば国民は喜んで犠牲を忍ぶことが出来る。合理的な政治は総ての国民に理解され得る明瞭なるプログラムとなつて現はれるのである。
 今日の客観的情勢が統制を必要とすることは誰も理解してゐる筈である。然るに、国民が統制を怖れてゐると云ふのは何故であらうか。政府の統制について見透し得ることが出来ないからである。何処まで統制が及ぶのかその限度が判らないからである。統制は全体の計画を持つことによつて合理的に成ることが出来る。これによつてはじめて国民の真の協力を期待することが出来るのである。
 統制自体が無統制に行はれてゐる限り国民は不安ならざるを得ない。全体の計画が判明し国民がその体系を我が物にして、自らその組織の中に入り、凡てが有機的に働くやうになれば統制は商品独特の力として押しかぶさつて来るものでなくなる。その時統制は組織その物の持つ自動的な力となり、凡ての国民はその組織の一員として自己の機能を発揮し得ることになるのである。
 米内内閣は官僚的統制に対して自主的統制を主張してゐるのは賛成である。然し乍ら、自主的統制が成り立つためにはまづ統制全体の計画の明かに示されることが必要である。そして次にこの計画に従つて国民の再組織が行はれねはならぬ。国民再組織問題を除いて自主的統制を考へることは不可能である。
 単に経済主義はこの時代において経済問題をも満足に解決することが出来ぬ。処で政治の権威を回復し国民の信頼を獲得するためには、既に久しい間その必要の叫ばれてゐる制度や機構の改革が断行されねはならぬ。行政機構の改革、官吏制度の改革等その数は多いが、この際只一つでも良い、その改革が実現されるのでなければ政治に対する国民の信頼を回復することは困難であらう。「問題は機構でなく人間である」と云ふが如きは要するに遁辞であるのに過ぎない。抽象的に人間と云ふものを考へられないのであつて、総ての人間は機構の中の人間である。機構が変らなけれは人間も変らない。現在の制度や組織をその儘にして置いて所謂官僚的統制から自主的統制に変り得るものでなく、若し強ひて変攣らうとすれば、却つて統制の混乱を惹き起すことになるであらう。
 国民に向つて節約を要求する政府は、まづ自ら節約しなければならぬ。そしてはじめて政治に権威が生ずるのである。自ら為す処に持久性がなくて、国民に持久的であることを求むるのは不可能である。自分が大臣になつてゐる間だけ何んとか継ないで行けばよいと云つたやうな無責任なことがなくなり、見透しを持つた計画的な政治が行はれることを何よりも要望れてゐるのである。