革新と教育
すべての革新政治が特に教育の革新を重んずることは云ふまでもないであらう。新しい政治を行はうとする者はそれに適するやうに人間を改造しなけれはならぬ。それだからソヴェトでもドイツでも新しい教育に最も力を注いでゐる。
我が国の教育のうちにも次第に変化が生じつつある。このとき著しく目立つことはそのドイツ模倣である。勤労奉仕といひ、種々の行進といひ、ドイツ流のものが甚だ多い。学生は学内においてそれらに動員されるのみでなく、学外の諸国体からも屡々動員されてゐる。
ドイツ模倣の可否はしばらく論じないにしても、先づそのやうな学生動員は綜合的計画的に行はれてゐないために単なる形式に堕し、その意図する教育的効果の殆ど変つてゐない場合が尠くないやうに思はれる。一時喧しくいはれた勤労奉仕なども、計画性が欠けてゐたために却つて学生から軽蔑されるやうなことにならなかつたであらうか。
毎年都下の大学専門学校学生三万を動員参加させて挙行される建国祭の明年度式典に関する第一回の打合せ会が先達て開催されたが、その席上諸地学校から学外団体の学生動員について文部省の統制を要求する基本的意見が開陳されたといふことである。即ち近来学校外の各種団体において学生を動員して行進その他の催しを行ひ、参加を強要されるため学校当局では授業計画その他に支障を来すことが頻繁であるといふのである。統制を行ふ側が先づ統制されねばならぬとはこの頃我が国の政治や経済において屡々いはれてゐることであるが、綜合的な計画の欠乏から生ずる同様の弊害がこのやうに教育の方面においても認められるのである。計画性のないところに教育はない。そして学生動員の如きも形式的でなくて実質的な教育的効果を目的とすべきことは明らかである。
勤労奉仕といひ、種々の行進といひ、それらはすべて教育の新しい形式であり、そこには新しい教育精神がなければならぬ。それらの新しい形式はその教育精神に従つて全体の教育制度が改革される場合に初めて教育的効果を十分に挙げることができる。しかるに我が国においては、学制改革の問題はすでに久しく論ぜられ、それに対する調査立案も度々行はれてゐるにも拘らず、改革はいまだに実行されない。全面的な学制改革には何等手を触れないでそのままにしておいて、勤労奉仕とか行進とかといふ個々の点においてドイツの模倣をしてみても、教育の革新が根本的に行はれることは不可能であらう。外面的な無計画な模倣が弊害を生じ易いのは云ふまでもない。
行進はもとよりその他最近ドイツ流のことは、すべて形式を重んずるのを特色とし、そこに学生に対する訓練の意義を認めようとするものである。それは新しい形式主義といふことができる。この形式主義はもちろん尊重すべき新しい精神をもつてゐる。しかしながら単に分散的に且つ形式的にそのやうな形式主義を模倣する場合、それは元来一種の形式主義であるところから愈々形式的となり、その弊害は大きくならざるを得ないであらう。日本の教育界の現状について先づ私の感じるのはかやうな新しい形式主義の弊害である。
今日わが国の教育においては、一方では勤労奉仕とか行進とかの学生動員に見られる如くドイツ模倣の傾向が著しいと共に、他方では農民道場などのやうに日本国有のものと称せられる塾の如き教育形式の復活が目立つてゐる。かやうにドイツ的なものといはゆる日本的なものとが混合して存在するといふことが今日の日本に於て多くの場合に特徴的なことである。
もとよりこれら二種のものの混在は決して単に全く無関係なものが混合して存在するといふことではない。すべて過去のものは過去からでなくて現在から復活するのである。塾といふやうな日本の昔の教育形式が復活するに就いてもその端緒は現在にあるのであつて、即ち現在新しいドイツ流の教育形式を移植しようとするのと同一の関心が塾教育のやうな形式を復活させるに至るのである。この原理的な関係は一般に日本主義といはれてゐるものの本質的な意義を理解する上に極めて大切なことである。
ところで塾のやうな教育形式が今日の学校教育に対して種々のすぐれた特色を有することは争はれない。今日の学校においては教師と学生との関係が外面的なものとなり、両者の間の人格的な接触は困難にされてゐる。学生が教師から人間的な感化を受けることは尠くなり、教師の方でも自分が学生から学ぶことができない。今日の学校においては智育は可能であるにしても徳育には欠くるところが生じ易い。それはサラリーマンの大量生産には適してゐるが、指導者の養成には適してゐない。そこでは種々の知識を詰め込むことができるにしても、信念を得ることは不可能に近い。かやうな点から考へて塾のやうな教育形式は確かにすぐれたものをもつてゐる。
しかしながら塾教育にも種々の欠点が伴ひ易いことは注意しなければならぬ。とりわけそれが封建的なものの単なる復活であるとき弊害は著しいであらう。それは信念の養成には通してゐても、公平な客観的な知識を得るにはそれだけ適してゐない。またそこでは弟子は教師に依存し、従つて自己の独立の見解を発展させることは困難にされてゐる。塾教育は今日の学校制度の改革に対して刺戟を与へ得るものであるが、それが学校に代るべき性質のものではない。塾といつても現在では封建時代のそれとは違つたものでなけれはならぬ。
今日塾のやうなものが考へられるのは何よりも行動的人間を作ることが求められてゐるからであらう。農民道場などは端的に賛成と結び付いてゐる。今日の青年の非行動性、無信念、懐疑等を克服して新しい行動的人間を作ることが塾教育の目的であるといへる。しかるに塾教育がかやうに行動性を重んずるところから既に考へられるやうに、塾教育は今日の現実においては何等か政治的性格を帯びてくる。その目的は政治的でなく教育的であるといはれるにしても、教育そのものもこの場合には或る政治的意義を有し得るのである。現在の学校は青年を組織するといふ意味をもつてゐない。しかるに塾の如きものは直接には青年を組織することを目的にしないにしても、少くとも間接には青年を組織することになるのである。そこに現代において塾の有し得る特殊な意義が認められるであらう。この点から考へて、従来の塾とは違つた構成を有する最近の昭和塾の如きものが、今後どのやうに発展してゆくかは興味のあることである。
私はすでに今日の教育における新しい形式主義に就いて述べた。ドイツ模倣といつたものはそのやうな新しい形式主義の意味を顕著に具へてゐる、この形式主義は形式そのもののうちに青年に対する訓練の意義を認めようとするのである。従つてそれは訓育を重んずるといふことを特色とし、そこからまた従来の教育は智育偏重であるといつて非難する傾向と結び付いてゐる。
塾教育のやうなものにおいても普通にいはれるのは肚を作ることであり、従つてそこでも訓育に中心がおかれてゐる。肚を作るといふことは一見形式主義の反対のやうであるが、他の方面から考へるとそれも実は一種の形式主義であつて、まさにその点において最近のドイツ流の教育形式と一致するところがあり、それ故にこそ現在二つのものが混合して流行してゐるのである。
教育において、更に文化一般において形式が重要なものであることは争はれない。併し形式はどこまでも形式であつて、形式を生かす精神がそこになければならぬ。肚を作るといふことは精神のことであるやうに見えるけれども、それも実は形式に属してゐる。新しい精神を考へないでただ形式だけドイツ流のものを模倣するのでは悪しき形式主義になる。塾教育のやうなものを復活させるにしても、その精神が古い封建的なものであつては反動的な意義を有するに過ぎないであらう。今日最も必要なことは教育の新しい精神の探求であり、この点においてドイツ模倣に止まらないで真に日本的なものが確立されねはならぬ。
新しい形式主義は訓育を重んじてをり、そしてそれは従来の教育の状態に対して確かに重要な意義をもつてゐるが、他方において今日また最も憂慮されることは青年学生の智能の低下が生じつつあるといふことがないかといふことである。智能の点を無視して訓育のみが重んぜられる場合、それは悪しき形式主義にならねはならぬであらう。
従来の自由主義の教育に対して、新しい教育は団体主義乃至全体主義に立たうとしてゐる。しかるにこの団体主義乃至全体主義はそれ自身において形式主義に障り易い傾向を含んでをり、この形式主義は特に智能の教育を犠牲にする点がある。
今日、東亜の新秩序について語られ、新文化の創造について語られてゐる。しかるに智的なところを有しないやうな文化といふものはなく、新しい文化の創造には何よりも新しい知性が必要である。創造さるべき新文化が単に西洋の文化と違つてゐるといふのみでは価値がない。それは新しい文化として西洋の文化を凌駕するやうな優秀な文化でなけれはならず、将来の世界文化を代表するやうなものでなけれはならぬ。ただ西洋の文化と違つてゐるといふのであれは我々はそれを過去に求めればよいのであつて、新文化の創造などといふことは不要であらう。この点から云つても、新しい形式主義のために智能の教育を軽視するやうなことがあつてはならぬ。
日本は今や世界史的に最も進歩的な役割を演ずべきときである。我々の民族の特色とせられる進取的なところが完全に発揮されねばならぬ場合である。日本の歴史的使命の大いさにふさはしくないやうな反動に陥らないことを教育界の現状に鑑みて切言したいと思ふ。