科学について

 1国力と科学1
必妥は黎明の母といふ諺があるが、必要は人間を聴明にする。支部事攣の速行といふ必要は、
科挙の重要性を我が国のあらゆる方面に認識させるやうになつた。殊に最近ヨーロッパの戦争に
おけるドイツの成功に刺戟されて、国防に対する科挙の意義が新たに大きく許償されるやうにな
つた0これは、科挙を物質文明と見て虚し、科挙の尊重を冨備重或ひは西洋崇拝と解して非難
してゐた従来の風潮に封して、一つの進歩といはねはならぬ。たしかに、必要は人間を聴明にす
るものである。
今日、科挙は主として国防の見地から関心されてゐる0囲防が現在の閲家にとつて最も緊審な
問題である限り、これは常然のことである0しかるにその際大切なことは、この科挙と歯防との
関係そのものを先づ科学的に把握するといふことである。さうでないと、科学を眞に囲防に役立
てることはできない。国防と科学との関係を科学的に理解することなく、単純で性急な見方をも
つて臨む場合、およそ科挙を薔達させることは不可能であり、従つてまた科学をして国防的意義
を教拝させることもできない。さしあたり、特に二つの鮎に注意することが肝要であらう。
 第一に、科学の薔達は園防の強化のために大切であるが、しかし科挙を畢に囲防の見地からの
み見ることによつては科挙の蓉達は期し難いのである。科挙を科挙として尊重することを知らな
ければならない。科学を利用することのみ考へて、そのものとして尊重することを知らない場合、
眞に利用僧侶のある科学は生れないであらう。もとより科挙は元来技術的要求にもとづいて現は
れたものであり、技術的課題の解決の必要が科挙の進歩を促進した。前世界大戦の影響によるド
イツにおける化学工業の目覚ましい進歩は一つの例である。この鮎、従来我が囲の科挙が除りに
技術から蒋離してゐたとすれは、その態度を改むべきことは言ふまでもない。しかし科挙は責践
的要求から生れるにしても、一旦賛践の立場を否定して、科学のために科学を研究するといふ態
度に出なけれは、その蓉展は注せられない。科挙は、一旦自己を資践的或ひは政策的立場から分
離することによつて却つて眞に賓践と結び附くことができる。科塵丁を徒らに政策化することは、
科学について
四二一

                                              四二二

科挙政策の雷を得たるものではない。應用科挙の蓉達と理論科学の教達とは相互に制約するので
あつて、理論科挙を無税して應用科挙のみを尊重するといふが如き方法によつては、應用科挙の
進歩も望まれない。軍にいはゆる囲防科挙をのみ奨励しても、囲防科学の薔達は期し難いのであ
る。

 次に、右のこととも関聯して、囲防と科挙との関係を考へるにあたつて、国防といふものを廣
い意味に解することが必要である。近代戦は総力戦であるといはれてゐるが、その意味が囲防と
科学との関係について徹底されることが大切である。国防にとつて必要なのは軍に軍事科学のみ
ではない。近代戦は軍事上の戦争であると同時に、政治、外交、経済、文化、思想の上における
戦争、いはゆる圃家総力職である。従つて囲防と科学の問題は廣く囲カと科挙の間超になるであ
らう。畢に武器の製造のためにのみでなく、政治、経済、その他、あらゆる方面において科挙が
活用されねはならぬ。かくして科学の浸透による国力の充賛が国防の眞の強化になるのである。
この場合科学といふものが自然科学に限られることなく、杜曾科学をも含まねばならぬことは明
かである。私はいま科学と国力との関係について二三の鮎を指摘してみたいと思ふ。
ノー〉−−■【−−\
        ニ

 囲防にとつて先づ何よりも精鋭な兵器が必要であることは言ふまでもない。しかるに兵器は科
学の産物であり、優秀な兵器は優秀な科学の産物である。ただ兵器のみを見て、そのうしろにあ
る科学を見ないといふことは許されない。他囲の優秀な兵器を羨望する者は同時に他囲の優秀な
科学を羨望する着でなければならない。単に結果のみを問題にして、それに至る原因に考へ及は
ないのは間違つてゐる。しかるにまた兵器を作るには資材が必要であらう。そして軍籍品を初め、
あらゆる物資の生産にとつて科挙は重要なカである。そこに我々は科学と経済との密接な関係を
考へなければならぬ。近代戦は一面経済職であるとすれば、殊に戦時においては外囲からの物資
の供給の窮屈になるのがつねであるから、経済にとつて科学の有する意義は倍加される故に、科
挙は一種の経済力としても囲防力の重要な部分である。科挙を畢に武器の製造の方面からのみ見
て、それを経済の薔達、生産力の按充に必要な要素として見ないことは、囲防の見地においても
正しくないといはねはならぬであらう。
 兵器の力を畢に「物」の力とのみ考へることは間違つてゐる。まして、それを畢に物の力との
科出撃について
四二三

訂TTm.丁、一.\
llL
                                              四二四
み考へて、それに封するにただ1精紳」の力をもつてしようとするが如きことは、正富な考へ方
ではない0武器のうしろに科挙を見なければならず、科挙のうしろに「精紳」を、科学的精神を
見なければならぬ0科学文化は畢なる物質文化であるのではない。科学はまさに人間精紳の産物
であり、高邁な精紳、眞理のために身を捧げる豊岡な道徳なしには科学の進歩は不可能である。
武器のカに精紳のカをもつて封抗しようと欲する者は、畢に物の威力に対抗してゐるのではなく、
寧ろ一つの精神の威力に、科挙的精神の威力に封抗してゐるのであるといふことを考へなければ
ならぬ0科学文化を物質文化とのみ見る者は、科学によつて作られた物を使ふ立場から見て、そ
れを作る立場から見ない着である0しかるにあらゆる場合において、物の根本的な見方は、物を
生産の立場から見ることである。
 もちろん、武器の力が物の力であるといふことは事はれない。戦争において必要なのは、畢に
精鋭な武器のみでなく、旺盛な戦闘精紳である。如何に優秀な兵器を所有してゐても、戦闘精神
が旺盛でなけれは勝利は得られないであらう。しかしながら他方、旺盛な戦闘精紳はまた優秀な
武器から生れるといふことも忘れてはならぬ。自己の所有する武器が精鋭である場合、人間はそ
れによつて自信を輿へられ、勇革つけられるものである。人間は彼自身としては猛獣よりも勇気

があるとはいへないかも知れない。我々は猛州獣よりも一鋤いことを知つてゐる。その一新い人山間もひ
とたび武装されるならば、猛獣に立ち向つて恐れない勇気を得るのである。軍隊についても同様
であつて、自己の丘ハ器に封する信加顆は軍隊の汲判断阿精軒を▲旺盛にすることに役立つのである0 しか
も猛難が礁器転籍たないで1人間婿それむ持つてゐみのは「ひとり人間のみが思慣の張力巾稗革
の能力を持つてゐる故である。機械は精耐によつて‥作られ、精耐は機械を持つことによつて頚く

なるのである。物と精神とを抽象的に分離し、物の力に封して精紳の力をいふことが結局、精神

                                              四二四
み考へて、それに封するにただ1精紳」のカをもつてしようとするが如きことは、正常な考へ方
ではない○武器のうしろに科学を見なけれはならず、科学のうしろに「精紳」を、科学的精紳を
見なければならぬ0科学文化は畢なる物質文化であるのではない。科学はまさに人間精紳の産物
であり、高邁な精紳、眞理のために身を捧げる筆筒な道徳なしには科挙の進歩は不可能である。
武器のカに精紳の力をもつて封抗しょうと欲する者は、畢に物の威力に封抗してゐるのではなく、
寧ろ一つの精紳の威力に、科挙的精神の威力に封抗してゐるのであるといふことを考へなければ
ならぬ0科学文化を物質文化とのみ見る者は、科学によつて作られた物を使ふ立場から見て、そ
れを作る立場から見ない着である○しかるにあらゆる場合において、物の根本的な見方は、物を
生産の立場から見ることである。
 もちろん、武器の力が物の力であるといふことは季はれない。戦争において必要なのは、畢に
精鋭な武器のみでなく、旺盛な戦闘精紳である。如何に優秀な兵器を所有してゐても、戦闘精紳
が旺盛でなけれは勝利は得られないであらう。しかしながら他方、旺盛な戦闘精神はまた優秀な
武器から生れるといふことも忘れてはならぬ。自己の所有する武器が精鋭である場合、人間はそ
れによつて自信を輿へられ、勇革つけられるものである。人間は彼自身としては猛獣よりも勇気
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があるとはいへないかも知れない。我々は猛獣よりも弱いことを知つてゐる。その一歩い人」間もひ
とたび武装されるならば、猛獣に立ち向つて恐れない勇気を得るのである。軍隊についても同様
であつて、自己の兵器に封する信頼は軍隊の戦闘精紳を旺盛にすることに役立つのである。しか
も猛獣が武器を持たないで、人間がそれを持つてゐるのは、ひとり人間のみが思惟の能力、科挙
の能力を持つてゐる故である。機械は精紳によつて作られ、精神は機械を持つことによつて強く
なるのである。物と精神とを抽象的に分離し、物の力に封して精神の力をいふことが結局、精神
のカを否定することになるといふ矛盾に陥ることのないやうに注意しなけれはならない。
 機械は、それを使用し、その機能を薔挿させるために、科学的知識を必要Lしてゐる0軍事に
おいて、また経済的生産において、機械の占める重要性が増すに従つて、囲民の間に科学の普及
することが要求される。そしてこの場合にも、軍事と経済とは密接な関係にあるであらう。平時
の経済的活動において機械に親しみ、機械の知識をもつてゐる老が多ければ多いほど、戦時にお
ける科学的兵器の操縦に適する人間はそれだけ多く準備されてゐることになるであらう。我が国
における農業の機械化等の問題も、この方面から考察さるべき部分をもつてゐるであらう。いづ
れにしても、囲民の間に科学が普及するといふことは国防の見地から見ても必要である。国民の
科挙について
四二五

                       四二四
み考へて、それに対するにただ1精紳」のカをもつてしようとするが如きことは、正常な考へ方
ではない○武器のうしろに科挙を見なければならず、科学のうしろに「精紳」を、科挙的精紳を
見なけれはならぬ○科学文化は畢なる物質文化であるのではない0科挙はまさに人間精紳の産物
であり、高邁な精紳、眞理のために身を捧げる崇高な道穂なしには科挙の進歩は不可能である。
武器の力に精紳の力をもつて封抗しょうと欲する者は、畢に物の威力に封抗してゐるのではなく、
寧ろ一つの精神の威力に、科挙的精紳の威力に封抗してゐるのであるといふことを考へなければ
ならぬ0科挙文化を物質文化とのみ見る者は、科挙によつて作られた物を使ふ立場から見て、そ
れを作る立場から見ない着である0しかるにあらゆる場合においで物の根本的な見方は、物を
生産の立場から見ることである。
 もちろん、武器の力が物のカであるといふことは季はれない0琴宰において必委なのは、畢に
精鋭な武器のみでなく、旺盛な戦闘精紳である0如何に優秀な兵器を所有してゐても、戦闘精紳
が旺盛でなけれは勝利は得られないであらう0しかしながら他方、旺盛な戦闘精神はまた優秀な
武器から生れるといふことも忘れてはならぬ0自己の所有する武器が精鋭である場合、人間はそ
れによつて自信を輿へられ、勇気づけられるものである0人間は彼自身としては猛獣よりも勇気
用州H「
があるとはいへないかも知れない。我々は猛獣よりも弱いことを知つてゐる。その弱い人間もひ
とたび武装されるならは、猛獣に立ち向つて恐れない勇気を得るのである。軍隊についても同様
であつて、自己の兵器に封する信頼は軍隊の戦闘精神を旺盛にすることに役立つのである。しか
も猛獣が武器を持たないで、人間がそれを持つてゐるのは、ひとり人間のみが思惟の能力、科学
の能力を持つてゐる故である。機械は精神によつて作られ、精紳は機械を持つことによつて強く
なるのである。物と精神とを抽象的に分離し、物の力に封して精神の力をいふことが結局、精神
のカを否定することになるといふ矛盾に陥ることのないやうに注意しなけれはならない。
 機械は、それを使用し、その機能を番挿させるために、科学的知識を必要Lしてゐる0軍事に
おいて、また経済的生産において、機械の占める重要性が檜すに従つて、国民の間に科挙の普及
することが要求される。そしてこの場合にも、軍事と経済とは密接な関係にあるであらう。平時
の経済的活動において機械に親しみ、機械の知識をもつてゐる者が多ければ多いほど、戦時にお
ける科学的兵器の操縦に適する人間はそれだけ多く準備されてゐることになるであらう。我が囲
における農業の機械化等の問題も、この方面から考察さるべき部分をもつてゐるであらう。いづ
れにしても、囲民の間に科挙が普及するといふことは国防の見地から見ても必愛である。囲民の
科学について
四二五

                      四二四
み考へて、それに封するにただ1精紳」の力をもつてしようとするが如きことは、正常な考へ方
ではない○武器のうしろに科挙を見なければならず、科学のうしろに「精紳」を、科学的精紳を
見なければならぬ0科学文化は畢なる物質文化であるのではない。科挙はまさに人間精紳の産物
であり、高邁な精紳、眞理のために身を捧げる筆筒な道穂なしには科挙の進歩は不可能である。
武器の力に精紳の力をもつて封抗しょうと欲する者は、畢に物の威力に対抗してゐるのではなく、
寧ろ一つの精神の威力に、科挙的精紳の威力に封抗してゐるのであるといふことを考へなけれは
ならぬ0科挙文化を物質文化とのみ見る者は、科学によつて作られた物を使ふ立場から見て、そ
れを作る立場から見ない着である○しかるにあらゆる場合において、物の根本的な見方は、物を
生産の立場から見ることである。
 もちろん、武器の力が物のカであるといふことは季はれない。戦争において必要なのは、畢に
精鋭な武器のみでなく、旺盛な戦闘精紳である0如何に優秀な兵器を所有してゐても、戦闘精紳
が旺盛でなけれは勝利は得られないであらう0しかしながら他方、旺盛な戦闘精紳はまた優秀な
武器から生れるといふことも忘れてはならぬ0自己の所有する武器が精鋭である場合、人間はそ
れによつて自信を輿へられ、勇気づけられるものである0人間は彼自身としては猛獣よりも勇気
があるとはいへないかも知れない。我々は猛仙獣よりも▲弱いことを知つてゐる。その一翳い人一間もひ
とたび武装されるならば、猛獣に立ち向つて恐れない勇気を得るのである。軍隊についても同様
であつて、自己の兵器に封する信頼は軍隊の戦闘精神を旺盛にすることに役立つのである。しか
も猛獣が武器を持たないで、人間がそれを持つてゐるのは、ひとり人間のみが思惟の能力、科学
の能力を持つてゐる故である。機械は精紳によつて作られ、精神は機械を持つことによつて強く
なるのである。物と精神とを抽象的に分離し、物の力に封して精紳の力をいふことが結局、精神
の力を否定することになるといふ矛盾に陥ることのないやうに注意しなけれはならない。
 機械は、それを使用し、その機能を番拝させるために、科挙的知識を必要Lしてゐる0軍事に
おいて、また経済的生産において、機械の占める重要性が増すに従つて、国民の間に科挙の普及
することが要求される。そしてこの場合にも、軍事と経済とは密接な関係にあるであらう。平時
の経済的活動において機械に親しみ、機械の知識をもつてゐる者が多ければ多いほど、戦時にお
ける科挙的兵器の按縦に適する人間はそれだけ多く準備されてゐることになるであらう。我が団
における農業の機械化等の問題も、この方面から考察さるべき部分をもつてゐるであらう。いづ
れにしても、囲民の閏に科学が普及するといふことは国防の見地から見ても必要である。囲民の
科挙について
四二五

                                             四二六
間に科挙が普及して初めて、科挙は言葉の眞の意味において囲力となり得るのである。しかるに
そのために大切なことは、科挙が囲民の生活のあらゆる方面に入つてゆくといふことである。軍
に彼等の工場における活動のみでなく、彼等の家庭の重所における仕事に至るまで、圃民の生活
の隅々に科挙が浸透してゆかなけれはならぬ。言ひ換へると、科学の生活化が要求されてゐる。
科学を日常生活に線のないもののやうに考へることがなくならなけれはならぬ。科挙が科挙とし
て抽象的に存在するのでなく、生活と結び附き、生活の中に融け込むことが必要である。しかる
に科学の生活化は生活の科挙化によつて注せられる。生活を科学化してゆくこと、絶つて機械を
日常化してゆくことを除いて、科挙の生活化は考へることができ払い0かやうな生活の科挙化は、
国民生活の向上を意味し、またこれによつて可能になる。それ故に囲民生活の向上の問題を離れ
て科挙の生活化は考へられないのである。
 生活の科学化は、機械の日常化として、主として技術的意味のものである。科挙は科挙として
よりも技術として圃民の常識の中に入つてゆくことができる。科挙は技術化されるに應じて常識
化される0しかしながら科挙は、技術的常識として国民の中に入つてゆくのみでなく、科学その
ものとして、その理論の形において、特に科学的精紳として、囲民の中に入つてゆくこトが大切
であらう。もとより科挙と技術とは抽象的に分離さるべきものではない0従来の囲民教育におい
て見られる如く、科挙を技術から分離し、軍に科学として教へ込享フとしたことが、我が国にお
ける科学の普及にとつて一つの障碍であつた。これに封して科学の生活化は科学を技術と密接に
関係させることを意味するであらう。その意味において科学の生活化は科挙の資際化或ひは賓用
化であらう。しかしながら科学の生活化の意味は軍に科挙の費用化に轟きるべきものではない0
科学の生活化のもとにただその資用化をのみ考へる賓際主義によつては、科学の薔達は望まれな
いし、囲民の間における科学の眞の普及も達せられないのである○そこに科挙を科挙として尊重
する精神が生じなければならぬ。知識のために知識を求める純粋な知識欲が現はれなけれはなら
ない。特に我が囲の思想のうちには侍統的に一種の賓際主義が存在するところから、科挙の生活
化といふ場合、ただその費用化にのみ陥る危険があるのである0
 科挙の生活化は、畢に科学を費用化することでなく、科学の精神が囲民の間に行き亙ることで
なけれはならぬ。科学の普及は大切であるが、それは軍に研究の成果としての科学的知識を普及
させることに止まるのでなく、研究の方法としての、香、一層廣く生活態度としての、科学的精
紳を普及させることでなけれはならない。獲得された知識を普及させることも必要ではあるが、
料地撃について
四二七

                     四二八
扁大切なのは、そのやうな知識に到達するための物の見方、物の考へ方を普及させることであ
る0物に封してつねに研究的であるとか、物を賓欝に見てゆくとか、合理的に考へてゆくとか
いふ科学的精紳を圃民のすべてが身につけるやうに努力しなけれはならぬ0肝要なのは、畢に知
識を詰め込むことでなく、科挙的な物の見方を修得することである0かくして科挙的精紳が行き
亙れは、ひとは自分の生活において接解するあらゆるものをつねに科学的に見てゆくやうになり、
そのことは彼の生活態度にも影響することになるであらう0そこに科学の生活化の婁な意味が
あるのである。


    三
 しかるにこの科挙的精紳の普及について我が圃では特に炊けてゐるところが多いのではないか
と思ふ0これは圃力としての科学の意味を考へるにあたつて婁な問題である。我が圃は初め西
洋から科挙を輸入した・のであるが、その際、西洋の先進圃に迫ひつくために、いはば速成的に科
挙を学ばねばならなかつた0速成的に学ぶためには勢ひ、到達された結果に注意するといふこと
が圭となつて、それに到達する過程は深く戯みないといふ風が生じた0かやうにして科学につい
                                              巨臣E..El
て、それを知識として覚えることがおもな関心となつて、それを方法として、精神として身につ
けることを怠りがちになるといふ傾向が馴致された。科学が国力としてあらゆる方面に浸透する
上において、これは一つの大きな故障である。しかるに科挙の歴史を見ると、西洋における科学
的精神は資に幾世紀にも亙る長い間に漸次番展し、次第に完成に近づいたものである。その間、
科学者たちは多くの迷信と戦はねはならなかつたし、生命を危険にさらさねはならぬやうなこと
も歴々あつた。幾多の闘争と試煉とを経た後漸く科学的精紳は獲得されたものである。かやうに
深い、そして長い倖統をもつてゐる西洋諸囲に此して、我が囲では科学的精紳の普及の鮎におい
て、格別に努力しなければならぬところがあるのは嘗然であらう。例へは、ひとはナチスの非合
理主義を非難する。そのドイツにおいて、今次の戦争に見られる如く、科学的兵器の進歩の驚歎
すべきものがあるのは、もとよりそのやうな非合理主義的思想の結果であるのではなく、寧ろそ
のやうな非合理主義的思想の宣俸にも拘らず、ドイツ囲民の問に深く根を張つてゐる科学的精神
の侍統のおかげである。しかるに今もし、科挙的精紳の俸統の浅い日本において、非科挙的な非
合理主義的な思想が頚力に撒布されたとしたなら、ここでは科挙的精神が全く失はれてしまふ危
険があるであらう。科学は、科学的精神の根の上に嘆いた花である。その花のみを見て、その根
科出撃について
四二九

                     四三〇
を忘れるやうなことがあつてはならない0廣く国民の間に科挙的精紳が普及することによつて、
優秀な科署もその中から生れてくることができる0天才の仕事を支へてゐるのは大衆である。
畢に少数の科学者のみによつて科挙は霊し得るものでなく、囲民全琴っちに科挙的慧の高
まることが必要である0ドイツにおける科挙の豊は、ドイツ圃民の間における科挙の普及の賜
物である〇一人の大科学者の出現の地盤は無数の無名の小科署たちである。
科挙的精紳は自己の接攣るあらゆるものを科学的に見てゆくことができるやうになるのでな
ければ、徹底したとはいはれない○しかるに我が圃では専門の科署においてさへ、自己の専門
については十分に科挙的にやつてゆくことができても、ひとたびその時外に出ると、たとへは日
常生活に関する事柄、審に関する事柄については、まるで反封の、迷信的な、非科学的な考へ
方をして、何等みづから怪しむことのない者が砂くないといはれてゐる0かくの如きは科学的精
紳の徹底において軟くるところがあるといはねはならぬ0自然現象のみでなく杜曾現象をも科学
的に見てゆくことができるのでなければ眞に科挙的精紳を把握したものではないのである。もと
より自然に関する科讐箸に関する科挙とは軍純に同じでなく、その方法にも差異があるであ
らう0しかし綿密な観察、質澄的な研究、合理的な思惟は両者に共通である〇二つの場合、科学
的精神は、その対象と認識目的との相違に徒つて現はれ方を異にするのみであつて、その構紳に
おいては同一である。自然を見る眼を養ふことは杜禽を見る眼を養ふことでなければならない。
かやうにして囲民の間に科学的精紳が普及し、自然現象のみでなく、経済、政治、外交等に至る
まで、科学的に考へてゆくことができるやうになつて初めて、国家総力戦といはれる今日、歯家
は眞に強力になり得るのであるバ軍に兵器の製造にのみ科学を利用することを考へて、政治や外
交に科挙を利用することを考へない場合、戦争における究極の勝利も期し難いのである。
 もとより科学には限界がある。科挙を萬能と考へることはそれ自身非科学的な濁断に過ぎない
であらう。しかしながら、一方では科挙を奨励しながら、他方では全く非科学的なことを唱道す
るといつたやうな矛盾がある限り、科学の眞の薔達は望まれない。仝憶の世界観は科学を超えた
ものでなければならぬとしても、その世界観は科挙を自己のうちに生かし、自己が科学によつて
生かされたものでなければならない。今日、国防上の必要から科学尊重の撃が起つてゐるが、こ
れが一時のものに終らないで能くその成果を挙げ得るためには、生活の科挙化と科学の生活化と
を通じて、科学的精紳の普及について徹底的な方策の講ぜられることが肝要である。そこに囲力
培養の根源がある。

     科出撃について
四三一
Lじl【

四三二