自主的思考の反省


 独ソ不侵略条約の成立は我が国民に厳しい反省の機会を与へてゐる。これまでも自主的外交といふことは始終いはれてきたのであるが、外交の自主性といふものが何であるかについて今は真に反省すべき秋である。自主的と考へられてゐることが案外自主的でなかつたりするかも知れないのである。そしてそれは単に外交のみの問題ではない。我々の生活についても、我々の思想についても、自主性とは何を意味するかを深く反省してみなければならぬ。生活における自主性の欠乏は思想に於ける自主性の欠乏と無関係でなく、思想における自主性の欠乏は政治における自主性の欠乏と無関係でないであらう。
 政治上においては外国依存が排斥されてゐるが、個人の生活においては日本人にはまだ他人依存の風が多いのではなからうか。そして生活における他人依存の風が政治にも影響し反映されてゐないであらうか。同郷や同窓の先輩に頼り、上役や権力者に媚びることによつて立身出世を求める者が多く、自分の実力を養ひ、これによつて自主的に道を拓いてゆかうとするところが乏しい。そこに派閥といふ封建的なものが存在してゐる。封建的気風をなくするといふことが自主性の確立にとつて何よりも大切なことである。これは思想上においても同じことである。日本的思考といはれるもののうちにはなほ封建的なものが多く残存するのではなからうか。
 思想上においても外国依存の傾向が著しい。この頃の共産主義や自由主義の排斥を見ても、独自の思想原理に立つてゐるものが少い。それにしては攻撃の相手である共産主義や自由主義についての知識がなさ過ぎる。ソヴィエト共産主義や欧米の自由主義の排撃はドイツやイタリヤの全体主義や民族主義に依存して行はれる。一方の外国思想の排斥は他方の外国思想への依存となつてゐる。そして悪いことには、この事実が気付かれないでゐるのである。かやうな外国思想依存といふことも封建的な権威の思想と結び付いてゐるのであつて、他の権威に依らなければ自己を主張し得ないといふ風である。そしてこの封建的な権威の思想は近代の科学的精神と相反するものである。方向は反対であつても、先年のマルクス主義思想時代におけるソヴェト依存と全く同様の傾向が近代の全体主義的風潮のうちにも見られないであらうか。日本的思考のうちに真の科学的精神が敲き込まれるといふことが自主性の確立にとつて必要である。
 自主性がないところから、思想は流行の暴威に委ねられてゐる。「日本精神」といふものでさへもが流行に属してゐる。
 日本精神とは凡ゆる外国思想をそこにおいて消化し醇化する地盤であり、かやうにしてそこから真に自主的な思想が出て来る源泉であるべきであるにも拘らず、自由主義やマルクス主義と竝んでそれらの後を承けた流行となつてゐる。流行思想には自主性がない。それは身につかない思想であり、身につかない思想は真の思想といふことができぬ。
 真に自主的な日本精神は他の思想を徒らに嫌つたり怖れたりすることなく、その長所を採つて自分を発展させてゆくものである。自主的な思想は固定的でなく発展的である。
 流動性は日本的思考の特徴といはれてゐる。しかし次から次へ流行に従つて移つてゆき、前の思想が残つて後に来る思想がそれに積み重ねられ結び附けられてゆくといふことがない場合、思想はいつでも一面的である。
 マルクス主義が流行してゐる時には、それが全体の真理であるかのやうに考へ、全体主義が流行してゐる時には、それがまた全体の真理であるかのやうに考へる。
 かやうにして自主性のない思想には真の発展がなく、つねに抽象的である。流行思想に従ひながら自主的であるかのやうに思ふ錯覚は、その時々の流行思想に対して自主的な批判がなく、それが全部真理であるかの如く考へるところから生ずるのである。批判なしには思想の自主性はない。日本的思考のうちには批判的精神がなければならぬ。
 日本的思考に欠けてゐるのは機能的な考へ方である。機能的な考へ方に対するものは実体的な考へ方である。日本的思考は実体的であつて機能的なところが足りないといへるであらう。機能的な考へ方は近代科学の発達と共に発達したものである。日本的思考といはれるもののうちに機能的な考へ方が乏しいといふことは科学的精神の伝統が浅いといふことを意味してゐる。
 実体的な考へ方においては、物は根本において不変のものと考へられる。例へば、一人の人間が善いとなれば、彼はその全体においてどこまでも善いと考へられる。また一人の人間が敵であるとなれば、彼はその全体においてどこまでも敵であると考へられる。実体的な考へ方は物をそれだけのものとして見、それが一体として変らぬものと考へようとするのである。
 しかるに機能的な考へ方は物を関係において見、それぞれの関係に応じて変化するものと考へ一つの物は或る物に或る関係においては善いが、その同じ物も他の物に対する関係においては悪いといふやうに考へられる。また一人の人間は或る点においては自己に対して敵であるが、その同じ人間も他の点においては自己に対して味方であるといふやうに考へられる。
 実体的な考へ方が直観的綜合的であるとすれば、機能的な考へ方は理論的分析的である。日本的思考は直観的綜合的であるといはれる。それにはもとよりすぐれた所がある。しかし物を機能的に、諸関係に解剖してそれぞれの関係に応じて変化する働きにおいて考へるといふことは大切である。伝統的な日本的思考のうちに機能的な考へ方が敲き込まれなければならない。
 独善的と自主的とが同じでないことは明かである。しかし独善家は独善的に思考し行動することが自主的であるかのやうに考へるのがつねである。特に独善家に欠けてゐるのは物を関係において考へるといふことである。
 世の中に孤立した物は何ひとつない、すべての物は関係に立つてゐる。しかるに独善家の陥り易い危険は、孤立的であることが自主的であるかのやうに考へることである。自主的外交といつても、孤立的外交のことではなからう。自己を世界のうちにおいて見、その中における独自の立場に立脚して、他との関係を定めてゆくのが自主的外交でなければならぬ。単に政治の問題のみではない、思想や文化の問題においても世界を知ることが大切である。世界を知るのでなければ真に自主的になることができず、世界を知ることと自主的であることとが相容れないかのやうに考へるのは独善家の誤謬である。日本的思考は世界的思考でなければならぬ。
 かやうにしてまた自主的であることと他の習性を認めることとは矛盾するものでないのを知ることが大切である。日本的思考の陥り易い欠点は、他の独自性を認めることなく、他を自己と全く同じものに変へてしまはうとしたがることである。他人の人格を認めない者は結局自己の人格を認めない者であり、従つて真に自主的であることができぬ。人格的でない人間はその時々の風潮に従つて何とでも変つてゆくのがつねである。人格とは責任の主体であり、人格の観念の中心は責任の観念である。責任の観念は自主性の根柢でなければならぬ。
 我々は独善家が無害な人間であることをしばしば経験してゐる。他の人格を認めることは自己に対する批評に意味を認めることである。批評の中においてこそ真に自主的な思考は可能になるのであつて、批評を認めない自主性は独善にほかならない。ところで人格の観念、責任の観念等は自由主義によつて発達させられたものであり、自由主義が十分に発達した歴史がないといはれる日本においてはその真の意味が容易に理解され難いところがある。日本的思考はこの点について深く反省を要する。自由主義を真に止揚することなしには真に自由主義を超えた思想は生れないのである。
 日本的思考は実際的であるといはれる。思想は直ちに行動に結び付くことを要求されてゐる。それは確かにすぐれた特色であるけれども、長所はまた短所であるといふことを反省しなければならぬ。思想は行動的であらうとするために性急に思想が求められる。そのために有り合せのまたは間に合せの思想に頼らうとする。或ひは一時の実行のみを眼中において思想としては見透しのないものになり、かかる偏狭な思想が行動を害することになる。或ひは即時の意志決定を必要とするといふ実践の性質に禍ひされて思想そのものも独断的なものになり、かかる独断的な思想が実践の発展を妨げることになる。
 思想が思想として理論的に大きな体系に組織されることは困難にされてゐる。理論が理論として展開されることなく、直に政策論となり、かかる政策論は理論的基礎がしつかりしてゐないところから政策論としても薄弱なものになる。或ひは理論と政策とが区別されないで、政策論が理論と間違へられて無理論になつたり、理論が政策論と間違へられて公式主義に陥つたりするのである。
 かやうな欠点は物を仮説的に考へてみることをしないところから生ずる。物を仮説的に考へるといふ考へ方は近代科学の発達と共に発達したものであつて、既に述べた機能的な物の考へ方と関連してゐる。物を仮説的に考へてみるといふことによつて、物の見方が広くなり、あらゆる可能な場合を包括して理論的になり、また論理的斉合的になることができる。仮説的に可能性において考へるといふところから真の自主性が生ずるのである。
 特に最近の傾向として、政策論が余りに多過ぎ、純粋な理論が余りに少な過ぎる。性急に実際的であらうとするために理論が理論としての純粋性を失ひ、何でもが道徳論になつてしまふといふ傾向も甚だしい。理論と政策とを混同することなく、理論を理論として尊重するといふ風がもつと盛んになることが必要である。理論的なものを抽象的として排斥することなく、理論の理論として有する独自の意味が理解されるやうにならなければならない。
 自主的であるといふことは排他的であるといふことではないであらう。この排他的な傾向は理論を理論として認めないところから生ずることが多いのである。理論的な態度は物を仮説的に考へ、また機能的に考へる故に、排他的になることがない。仮設的な、機能的な考へ方をすることのできる者は、自己の理論とは異なる他の理論に対しても仮説的に、機能的に考へ、その長所を取つて来て自己の理論の発展に資することを知つてゐる。それが自主的な態度である。
 実際的であるといふことは日本的思考のすぐれた特色である。この特色が自分の目的のために外国文化を摂取して自分を養ひ育ててゆくといふ態度となつて現はれる場合、それは更にすぐれた特色になる。そして日本精神は過去の歴史においてまさにかくの如き伝統を有してゐる。それは支那やインドや西洋の文化を摂取することによつて日本文化を発展させてきたのである。この明かな伝統は絶えず想起され、つねに生かされねばならぬにも拘らず、今日のいはゆる日本主義は日本の伝統を全体的に全面的に捉へることなく、その一面のみを強調する抽象論に陥つてゐはしないであらうか。
 自主的であるといふことは排他的であるといふことでなく、他のものと広く交渉しながら自分を失はず、進取的に他の長所を取り入れて自分を大きく伸ばしてゆくといふ態度のうちに真の自主性が認められるのである。他を排斥して自分にのみ籠るといふのは、自分に対する信頼がないといふことである。
 他のものを学ぶことによつて自己が無くなつてしまふといふやうなものは小さな弱い自己であるに過ぎぬ。私は日本精神がかやうに小さな弱いものであるとは信じない。自信のある者は徒らに他を嫌忌したり排斥したりしない。徒らに排他的であるのは自信のない証拠であり、自信のない者は自主的であることができぬ。進取的であつて自分を失はなかつた明治の精神に対する反省が必要であると思ふ。