時務の論理
「時務の論理」Logik der Geschafte
といふ語は、『十五及び十六世紀における人間の把握と分析』といふディルタイの論文の中で、マキアヴェリについて論じた箇所に見出される(Wilhelm
Dilthey , Gesammelte Schriften , U. Band , S.29.)。デイルタイはこれを「実践的悟性」der praktische Verstand の論理と考へてゐる。彼によると、マキアヴェリにおいて時務の論理としての実践的悟性は時務の領域においてのみでなく科学の領域においても自己の至上性を自覚した。このやうな時務の論理は如何に考へられねばならぬであらうか。
時務の論理はマキアヴェリにおいては政治の論理である。彼の政治学は政治的行動的人間の立場における政治学である。時務の論理は政治的行為の論理である。政治的行為は、他のあらゆる行為と同じく、むしろ他のあらゆる行為にまさつて、技術的でなければならぬ。時務の論理はマキアヴェリにおいて「国家の技術」賀tのder del stato の論理であつた。それは国家の技術或ひは国政の論理としていはゆる 「国家の理性」 ragione di stato
の立場に立つのである。国家の理性といふのは先づ理論的理性でなくて実践的理性である。実践的理性といつても、もちろんカントやフィヒテにおける実践的理性の如きものではない。マキアヴェリは道徳の自律性を認めなかつた、とディルタイはいつてゐる。国家の理性は倫理的・当為的なものでなく、むしろ自然的・必然的なものであり、その限り「国家の利害の関心」Staatsinteresseのといふ如きものである。もし国家の理性が単に国家及び公的生活に関係づけられた道徳的理性に過ぎないとしたならば、「国家の理性」Staatsrason
といふ特別の語が形成される必要もなかつたであらう。この特殊な言葉は、国家とその活動とについては普通の道徳的要求からの或る逸脱が容認されねばならぬ必然性を暗黙のうちに告白してゐるのである。この意味において国家の理性は「国家の必然性」Staatsnotwendigkeit である。このやうな国家の理性は先づ本質的に技術的でなければならぬ。それは道徳的理性といふよりも技術的理性であるといはれるであらう。ディルタイが実践的理性」といはないで実践的「悟性」といつてゐるのもそのためでなければならぬ。国家の理性の立場における技術とは如何なるものであらうか。それは国家の利害の関心を基礎とする功利的見地から道徳を全く無視して打算された権謀術数を意味するであらうか。マキアヴェリズムとして喧伝される「現実政治」Realpolitik
といふものはかくの如きものと考へられてゐる。現実政治は何よりも技術的でなければならない。しかし単なる権謀術数が如何にして技術、国家の技術と呼ばれ得るであらうか。単なる権謀術数が如何にして論理、時務の論理と見られ得るであらうか。現実政治は時務の論理に従はなければならぬ。この論理と倫理とは如何なる関係に立つであらうか。
* ragione di stato , raison d'Etat , Staatsrason (Staatsvernunft) といふ語の適訳は未だ見当らない。やはり「国家の理性」と直訳するのが無難であり、また科学的であらうか。
マキアヴェリは近代において科学としての政治学を樹立した人であると一般にいはれてゐる。彼は政治を経験科学的並びに歴史的基礎の上に据ゑたのである。彼の根本思想は、ディルタイによると、人間の同形性である。マキアヴェリは書いてゐる、「未来を予見しようと欲する者は過去を見なければならぬ、なぜなら地上における一切のものはつねに過去のものとの類似性を有するから、と利口な人々がいふのをつねとするのは、無思慮なことでも理由のないことでもない。それは、それらのものがつねに同一の情念を有しまた有した人間によつて為されるといふこと、従つて結果もまたつねに同一でなければならぬといふことに依るのである。」そしてそこに政治学の可能性、未来の預言及び歴史の利用の可能性が有してゐる。「現在や過去の事件を観察すると、すべての都市と国民においてむかしから同じ願望や気分が支配してゐたといふことが容易に認められる。それ故に過去を注意深く研究する者は、各国家における未来の出来事を容易に予見し、古人によつて使用されたのと同じ手段を使用することができ、また何等使用された手段を見出さない場合、彼は出来事の類似性のために新しい手段を工夫することができる。」かやうにして時務の論理は可能になる。即ちマキアヴェリによると、人間性はつねに同一で妄あり、この同一の原因はつねに同一の結果を生ずるものである故に、その認識にもとづいて出来事を支配する手段を発見することができるのである。時務の論理は経験的事実についての科学的認識の上に立たねばならぬ。技術は科学を基礎としてゐる。時務の論理は単なる権謀術数ではなく、現実についての客観的認識を前提すべきものである。かやうな認識を含むものとして「国家の理性」も何等か理性といひ得るのである。尤もマキアヴェリが政治学の基礎を人間学に求めたこと、しかもその人間学において人間をひとつの自然力の如く見たこと等については、種々の批評があり得るであらう。重要なのは、いづれにしても経験科学的・歴史的認識の上に政治的技術を立てようとした彼の根本的態度である。もしマキアヴェリズムが単なる権謀術数を意味するとしたならば、何故に彼が歴史についての科学的研究に努力したかといふ理由は理解されないであらう。
もとより技術は科学と直ちに一つのものではない。技術は客観的な認識と主観的な目的との綜合である。この目的はマキアヴェリにおいて徳 virtu
である。徳はこの場合単にいはゆる道徳のことではない。マキアヴェリは中世的・彼岸的な考へ方を排し、古代的・人文的な考へ方を取つた。マイエルのいふやうに、彼における徳は全く此岸的なものである。「それはすぐれた意味における此岸的理想である。あらゆる障碍を越え、この世において自己を貫徹し、そして貫徹する程度に従つてのみ評価されるところの不屈の男性的力である。この力は人間において、恰も植物においてのやうに、意志されることなく自然生的にはたらく。それは身体的並びに精神的生命力の最高の発揚である」(E.W.Mayer , Machiavellis Geschichtsauffassung
und sein Begriffvitru, 1912, S , 19.)。マキアヴェリはキリスト教的道徳が従順、謙虚、地上的なものの軽蔑を説くのを非難し、古代人の宗教が名誉、勇気、力を徳と考へたことを称揚する。ギリシア人にとつて徳は働きのあること、有能性を意味したやうに、マキアヴェリにおいて徳は力 forza を意味した。国家の理性は国家の自己保存と自己発展の自然的な生命力を意味してゐる。国家の技術はその立場から歴史的現実を支配する技術である。徳を力と考へることは道徳を技術的なものとして把握したことを示すものであらう。
国家の目的はそれぞれ特殊的なものである。しかるに歴史的現実は法則に従つてゐる。技術はかくして一般的なものと特殊的なものとの統一を求めることであり、主観的なものと客観的なものとの綜合を求めることであつて、そこに時務の論理がある。国家の目的は自然生的な意欲として特殊的なものである。しかるに力が徳であるにしても、徳そのものがまた一つの力であり得るのであつて、マキアヴェリもそのことを忘れなかつた。国家は力を求める上からいつても道徳的でなければならないであらう。この場合徳は単に特殊的なものでなく、一般性を有するものでなければならないのである。そこでマイネッケも次のやうに書いてゐる、「クラスト(力)とエートス(徳)との間には、権力欲に従つての行動と道徳的責任に従つての行動との間には、国家的生活の高所においては一つの橋が、まさに国家の理性
Staatsrason が存在する、このものは何が合目的的で、有用で、救済的であるか、その生存の最上をそれぞれの時に達するために国家は何を為さねばならぬかの考量である。そこになほ十分に評価されてゐない国家の理性の問題の強大な、単に歴史的のみでなくまた哲学的意義がある。……国家の理性は最大の二重性と分裂の行動の原則である、それは一つは自然に向ひ一つは精神に向つた側面を有してゐる。そしていはば自然的なものと精神的なものとがそこにおいて互に移行する一つの中央の部分を有してゐる」(Fr. Meinecke.
Die Idee der Staatsrason , *te Auflage 1929 , S/. 6.)。かくの如くカと徳、自然的なものと精神的なものとの綜合を求めるところに国家の理性が技術的でなければならぬ理由があり、そこに時務の論理がある。しかるに政治の技術は自然に対する技術と同じであることができないであらう。自然に対する技術が客観的なものを対象とするのに反して、政治の技術は主体的なものを対象とする。そこで政治の技術にはおのづから権謀術数的なところが生じてくる。マキアヴェリは人間の同形性を彼の政治学の基礎としたが、この人間性を主として情念といふ自然的な非合理的なものと見、更に歴史のうちには偶然
fortuna が支配すると考へた。このものが歴史を多彩ならしめる。それは運命であり、歴史的な偶然性と個別性を現はしてゐる。歴史的なものは純粋に合理的な必然的なものでないとすれば、国家の技術には何等か権謀術数の如きものがなければならぬであらう。
もしさうであるならば、時務の論理は単なる実践的悟性のことであり得るであらうか。ディルタイは右に挙げた論文の同じ箇所で次のやうにいつてゐる、「彼(マキアヴェリ)は、以前の如何なる国家哲学者にもまさつて、内面的親和カのおかげで、政治的天才の創造的能力、即ち同形的な人間性並びにそれから従つてくる政治的生活の法則の一般的条件のもとに政治的生活において働いてゐるこの事実を考量する実証的構想カ
diese mit Tatsachen berechnende positive Phantasie を把握してゐる」(loc.
cit. S. 33.)
政治的技術は発明的であり、創造的である。それは一般的なものと特殊的なものとの、主観的なものと客観的なものとの、自然的なものと精神的なものとの綜合の能力としての構想カに属してゐる。時務の論理としての実践的悟性は根源的には実証的構想カでなければならぬ。
ルネサンスの時代においては多くの技術的発明が藝術家によつてなされたといふことは注目すべき事実である。藝術家は同時に工作人であつたのである。彼等はすぐれて「実証的構想力」を所有してゐた。マキアヴェリの構想力はその偉大さにおいて彼の同時代人アリオストやミケランジェロのそれに比較し得るものである、とディルタイはいつてゐる。科学と技術、技術と藝術とのかくの如き幸福な結合は、新しい文化の創造が要望されてゐる今日想起さるべきことである。国家も藝術品の如きものである。創造的な構想力を有する政治家の出現がこの時代に待望されるのであつて、さうでなければ「現実政治」といふものはただ悪しき名に過ぎないであらう。