時局と思想

     宣伝と政治の限界

 スペインの内乱は容易に終始しさうにもない。戦闘は次第に北方戦線から南方戦線へ移り、マドリッド戦線においては、七月初め、嘗てヨーロッパの経験したことのないやうな大規模の空中戦とタンク戦が展開されたと伝へられてゐる。またチェッコスロヴァキアに対するナチス・ドイツの脅威は愈々大きくなり、チェッコ議会においては新たに国防訓練法案が可決された。そして他方ダニュープ・ナチスの策動はダニュープ沿岸諸国を軒並に震骸させ、オーストリアにおいては愛国戦線を正規軍に編入する等、その対応策が種々講ぜられてゐる。かくて「欧州の危機」は増大するばかりである。ヨーロッパの政治家はいづれも、戦争が、しかも破滅的な戦争が不可避であると信じてゐると云はれる。
 この場合更に次の如き事情が指摘されてゐる。「各国新聞紙は、この欧州の不安を激成するに大きな役割を持つてゐる。新聞を通じて非難された外国はそれに反作用し、隣国の非難に対して非難を浴せ返し、結局戦争の不可避を思ひ込ませる憎悪を発生させるに至るのである。例へば、ドイツやイタリーの諸新聞の痛罵は、ロシア及びフランス各紙の痛罵を喚び超し、英国においてすら、独裁者の攻撃が現政府反対党の弁士から投げられると、囂々たる拍手の声援が新聞に見出されるといふ有様である。即ち新聞に現はれた欧州の悪意は実に恐るべきものである。痛罵讒謗と悪意の論説が今日の如く斯くも多数発表されるといふことは以前には無く、第一次世界大戦前にも見られぬものであり、一九一四年当時の新聞論調ですらもつと友好の気分に充ちてゐたといふことである」(『文学界』九月号、海外文化ニュース)。
 実際、今朝の新聞を見ると、ドイツ政府はロンドン駐箚ドイツ代理大使を通じイギリス政府に対してロンドン・タイムス紙がベルリン支局長ノーマン・エバット氏を二週間以内にベルリンから召還するやう必要な手段をとられたい旨要請したと報ぜられてゐる。これに関してドイツの新聞はドイツ政府の立場を伝へて云ふ、「エバット氏は常にドイツ生活の悪い半面のみを狙ひ、タイムス紙の読者に対しドイツに就いて好くない印象を与へるやうな話題を報じた。ドイツ政府は爾来必要な手段をとる考であつたが、英独両国関係に紛糾を来すことを惧れて躊躇して来た。然るに今や英国政府が三人のドイツ記者にロンドン退去を命令した以上、ドイツ政府としても最早や猶予する理由はない、唯ドイツ政府が英国人記者三人に退去を要求せず、単に一人としたのは寛大と節度とを示したものである」(八月十日同盟通信電報)。
 新聞の上では欧州はまさに噴火山上にある。しかし事態は果してそれほど差し迫つて戦争に向つてゐるのであらうか。将来の欧州大戦において大きな役割を演ずべきヨーロッパの民衆は果してそれほど興奮の坩堝の中にあるのであらうか。危機が呼ばれてから既に四ケ年、欧州の天地は依然としてマルスの神の蹂躙する所となつてゐない。それは何故であらうか。この疑問に突き当つて、ニューヨーク・タイムス紙のロンドン特派員フェルヂナンド・カーン氏は、眼をヨーロッパの民衆に向け、彼等が案外冷静であることを認め、宣伝戦の民衆に及ぼした逆効果を発見して、次のやうに云つてゐる。「国境を越えて未曾有の激烈な意志が交換されてゐる現状にも拘らず、欧州の諸国民は故意に耳を塞ぎ、隣国の民衆を憎悪することを拒否してゐる如くに見える。これが、私の見る所に依れば、一切の不安な現状にあつても、各々が武器をとつて闘はない原因の一つであらう」と。先づ欧州の危機の根源ともいはれるドイツの国民はどうか.毎日の新聞の第一頁に超特大号の活字を用ゐてでかでかに印刷された政府筋発表物を見たとき、彼等は即座にこれに反応し、他国に対して憤慨などしてゐるか。ベルリンで見られる所では、大抵の市民は、もう飽き飽きしたといつた態度で、肩をすぼめ、素速く頁を繰つて第二頁から読み始める。これはナチス政権治下の四ケ年で、かうした政治的環境にすつかり慣れつこになつてしまつた結果であるといふ。同様にフランス市民も、毎週外交通信員が暴露してくれる恐るべき陰謀記事に対し、嘘だと云はんばかりの態度をとつてゐる。英国においても、サラリーマンが忙しくバスを捕へ、電車に乗つて、一刻も早く家路に着くのは、どこそこの国でまたセンセーショナルな新事件が起つたと書き立てる赤紙新聞を読んで驚いた為めではない。彼等はそれらの政治的紛争をせいぜい一号活字見出しの殺人事件の記事位にしか考へてゐないのである。かく例証しつつ、カーン氏は、民衆のかかる案外な無関心は、要するに食傷気味になつてしまつた結果であると云つてゐる(前掲『文学界』参照)。
 私は固よりカーン氏の言が全部の真理であるとは信じない。しかしその観察には注目すべきものが含まれてゐると思ふ。そして氏がヨーロッパに就いて述べたことが我々自身の場合にとつて教訓的でないとは云へないのである。
 近代の新聞はリベラリズムと共に発達した。事件を自由に報道すると共に輿論を現はしまた輿論を作るといふこと、或ひは種々の立場における意見と批判とを伝へるといふことが新聞の仕事であつた。然るに自由主義が衰退し、統制が強化されて来た場合、新聞はなほ何を為すことが出来るか。主としてセンセーショナルな宣伝があるのみである。他方、政治は宣伝である。これは今日の政治のイロハとなつてゐる。今日の政治の宣伝的性質が今日の新聞のコンマーシャリズムと結び附くのである。各国政府の情報部といふものは、民衆に対する宣伝部の意味をもつてゐる。報道と言論とを統制された新聞の政治的情報がその商業主義と結び附いて宣伝的となるのは、自然の勢であらう。もしヨーロッパの民衆が政治的記事に対して無関心になつてゐるとすれば、それは彼等がセンセーションに慣れてしまつた為めである。人間は驚くべき順応性を有する動物だ。或ひはそれは彼等が政治は宣伝であるといふことを見抜いてしまつた為めである。「継続した雄弁は退屈させる」、とパスカルは書いてゐる。宣伝は雄弁でなければ宣伝でなく、然るに継続した雄弁はやがて民衆を退屈させる。そこに今日の情勢における政治にとつて不可避な限界がある。「鉄は熱い間に打たねばならぬ」といふのは周知の諺だ。しかし鉄を打たうとする者は適当な時期において、初めてそれを熱くすることを心得てゐなければならぬ。余り早く熱くすると、愈々打たうといふ段になつて却つて冷くなつてゐるといふことがある。そして日本の政治も現在において特にその危険がないとは云へないであらう。
 ヨーロッパの民衆も勿論決して政治に対して無関心になつてゐるわけではなからう。今日の情勢において誰が政治に対して無関心でゐることができるであらうか。もし彼等が政治的情報に対して無関心を示してゐるとすれば、その「情報」が宣伝的であつて真実をありのままに伝へないからである。真理は全体である。然るに今日の統制された情報はただ一部分しか伝へず、そのうへ多くは宣伝的に誇張され、或ひは反対に過小評価されてゐる。とりわけ民衆が知りたがつてゐるところの他の国の民衆の意見に就いては何事も知り得ない。唯一つ、カーン氏の言から知られることは、いづれの国の民衆も他の国の民衆に対してそれほど憎悪を抱いてゐないといふことである。宣伝的であることを見抜いてしまつた政治的記事に対して民衆が無関心になつてゐるといふことは、かくして逆に、如何に民衆が真実を知りたがつてゐるかを示すものである。今日ほど人々が真実を知りたがつてゐる時代はない、しかも今日ほど真実が知り難い時代もない。「古い神学的精神は根本において言葉の十分な意味における政治的精神である」、とアランは書いてゐる。裏返して云へば、政治的精神は神学的精神であつて科学的精神ではない。今日の政治は神学のやうにドグマチックであり、不寛容であり、道理によつてでなく「威嚇と約束と報酬」とを掲げることによつて人間を動かさうとする。
 政治は今日の情勢において宣伝たらざるを得ないといふことが政治の限界である。そして統制は宣伝になるといふ所にまた言論の統制の弱点があり、限界がある。その限界において示されるものは、民衆はいづれは宣伝に飽きるものであり、また彼等は結局真理を知りたがつてゐるといふことである。そこにあらゆる文化的活動は政治に対して自分の活動の出発点を見出し得るのであり、また見出さねばならぬ。
 北支事変が始つて以来、毎日の新聞記事ばかりが心に懸つて、小説など読む気持が全く起らないと云つてゐる文学者などもあるやうである。それは人間の本能として自然のことであらう。しかし現象に追随することは憤しまなければならない。すべての文化的活動に従事する者は寧ろ今日において政治の限界をはつきり見究め、そこから政治に対する文化の関係を設定し、自分の活動の領域と意義とを確立することが大切である。

     「聖職者の背任」

 近衛内閣において大谷尊由氏が拓務大臣になつたことは仏教界最初の入閣といふ劃期的意義を有する出来事である。教界人が盛大な祝賀会を開いてこれを祝福したのも無理はないであらう。大谷氏の政治的手腕について、私は全然知らない。氏の政治的手腕がどうであるにしても、現在一つの省ではあるものの実は一つの局ほどの意義しかないと云はれる拓務省の大臣を無事に勤め上げるだけの手腕は十分に期待することができるであらう。氏の入閣が日本の政治にとつて有する意義はともかく、それが仏教界にとつて有する特殊な意義の故に、我々もそれを歓迎するであらう。しかし氏の入閣が恰もこの見地から重要であるとされるだけ、氏の入閣に際して僧籍問題が起つたのは愈々遺憾なことであると云はねばならぬ。
 西本願寺の連枝大谷尊由氏は拓務大臣に就任するに当り、「還俗」することを思ひ立つたのであるが、それには反対も生じ、結局「僧籍離脱」といふことになつた。還俗と僧籍離脱との間には、法律的な形式的な見方からすれば、いろいろ差異を考へることができるかも知れない。しかし実質的には、即ち宗教的乃至道徳的見地からすれば、何等の差異もあり得ない筈である。結果が還俗になつたにせよ、僧籍離脱になつたにせよ、根本に溯れば、大谷氏が大臣となるについて僧籍を去らうと発意したことそのことが問題なのである。僧籍といふやうなものは、本来、一個の形式論で片附けらるべき性質のものではない。
 国家の法律は大臣が僧侶であることを禁じてゐない筈である。また真俗二諦を説く真宗の教理から云つても、僧籍に留まりながら大臣になるといふことは一向差支ないことであらうと思ふ。現に大谷氏は田中内閣時代に、久原房之助氏とかの推挽に依り貴族院議員に勅選されてゐるのである。その大谷氏が今度入閣するに際し僧籍を去らうとしたといふことは、我々には不可解である。もし万一そのことが何等かの勢力による強要に基くとしたならば、何故に大谷氏はかかる勢力に対して自己の立場から説得に努めなかつたのであるか。そしてもし聴き容れられない場合には、寧ろいさぎよく入閣を断るべきであつたのである。我々俗人にしても、大臣になるといふことがそれほど偉いことであるとは考へてゐない。まして大谷氏は僧侶である、しかも氏は仏教的に云へば、浅からぬ因縁によつて、西本願寺の連枝といふ特別の地位にある人である。かかる栄位を棄ててまで大臣にならねばならぬといふ理由は理解し難い。僧侶は一代の聖職であるが、大臣は永く続いたところで二三年の間のことに過ぎないではないか。大臣になるといふことは名誉なことであるとしても、先づ俗世の栄誉の果敢無さを悟るといふのが仏教ではないのであらうか。
 固より我々は決して僧侶が政治に関与することを否定するものではない。今日の如き時代にあつては、それは或る意味において積極的に必要であると考へることもできるであらう。しかし僧侶が政治に従事する場合、それは彼の本来の使命即ち衆生済度といふ活動の延長でなければならぬ。このことを自分でも自覚し、また世間に対しても標榜するために、彼はその場合僧籍を離脱するといふが如きことを為してはならぬ筈である。尤もこの際、大臣になることは衆生済度の方便であり、僧籍を離脱することはそのまた方便であるといふやうな議論をすることもできるであらう。しかしかやうな議論は、裏返して考へるならば、僧侶も結局方便に過ぎないといふことになるのである。すでに僧侶にして然り、一般民衆の間にいはゆる「仏法も方便」といふが如き思想の生じて来るのも無理はないと考へて然るべきであらうか。
 或ひは説をなす者あり、大谷氏が僧籍を離脱したのは深い意味のあることでなく、ただ新聞などにおいて「坊主大臣」と書かれることが嫌であつたからであると云ふ。世間の悪口家の中には、今の内閣は公卿と坊主の内閣だと称する者がある。しかしそのために近衛氏は公爵を拝辞しはしないであらう。僧侶と呼ばれることを嫌ふのは自己を軽んずるも甚だしいと云はねばならぬ。
 林内閣の声明において聖徳太子十七条憲法の中から「和を以て貴と為す」といふ句を採つて用ゐた。近衛内閣のいはゆる国内相剋の解消もこの精神を継ぐものと解することができるであらう。林内閣が祭政一致を唱へて以来、仏教界においてはそれと歩調を合はせるために聖徳太子崇拝が俄に盛んになり、各宗の教祖も為めにその影を薄めるかの如き観を呈しさへした。ところで太子の十七条憲法の中には、「篤く三宝を敬へ、三宝は仏法僧なり」、とある。まことに僧は三宝の一つであり、大臣も篤く敬せねばならぬものである。かくの如き僧の地位を大臣となるために棄て去るといふことは仏教の精神には固より聖徳太子の精神にも背反することにならないのであるか。國體明徴の立場から教組以上にすら聖徳太子を尊崇しようとする仏教家のかくの如き行為はまた國體明徴にも背反することにならないのであらうか。
 僧侶も政治的関心を有しなければならぬといふことは近年繰返し力説されてゐる所である。然るにこの場合「政治的関心」といふものは、それが最初マルクス主義の仏教青年層への侵入と共に力説されるやうになつたといふ事情から考へても分るやうに、特定の意味を有するものでなければならぬ。仏教がマルクス主義と一緒になるといふことは矛盾であるにしても、仏教は仏教そのものの立場における独自の政治的関心を有すべき筈である。言ひ換へると、僧侶はその衆生済度の立場において、弱き者、虐げられし人々の救済の立場において政治的でなければならない。然るに近来仏教界に著しい現象は寧ろそれとは反対に権力への迎合である。政治的とは如何にして巧に権力へ迎合するかといふことになつてゐる。仏教独自の政治的信念が何等存するわけではない、ただ権力の動くままに追随して動いてゐるのである。これは「聖職者の背任」と云はれないであらうか。仏教の信仰そのものに基いて今日の政治を批判し、その動向に影響を与へようとするが如き気魄は少しも見られないのである。まことに「一人の義人あるなし」と云ふべきである。ただ単にいはゆる政治的であるといふのであれば、僧侶に政治家は決して尠くはなく、却つて彼等が余りに政治的であることが種々の弊害の原因となつてゐるのである。信仰なくしてただ政治的である者が余りに多いのである。魂の救済に従事すべき僧侶自身に何等の信仰もなく、ただ徒らに政治家の手先になつて働くといふこと、これは「聖職者の背任」以外の何物であるのか。仏教の復興は、もしそれが可能であるとしたならば、まさに信仰の再生によつて初めて成就されることであつて、僧侶が政治的権力に迎合することによつては却つてその衰亡を速めるのみであらう。
 尤も、私は大谷尊由氏個人には寧ろ同情したいのである。多分氏の素質は、氏の令兄大谷光瑞氏などと同じく、宗教家よりも政治家或ひは事業家に適するものであらう。そのやうな氏が僧籍に拘束されねばならぬといふことは気の毒な次第である。そして大谷拓相が今度のやうな問題を起したといふことも、広く見れば、僧侶世襲制の問題に関連してゐる。この世襲制は今日宗教にとつても僧侶にとつても桎梏となつてゐる。それは封建時代における職業世襲の風と軌を一にするものであるが、その制度が出来た当時にあつては教団の確立と発展とのために必要なものであつたであらう。然るに資本主義と共に職業の選択の自由が一般化した後、この社会の内部において僧侶のみが封建的な世襲制を維持してゆくといふことには矛盾が生じて来た。あらゆる職業が解放されるに至つて、僧侶の子弟の中にも他の職業に対する欲望が起るやうになつた。単に利害の関心や流行等の影響からのみでなく、彼等の素質から云つても他の職業に一層適した者が出て来るといふのは已むを得ないことである。それらの人々が僧侶世襲制を桎梏として感じるやうになつたことは当然である。また他方において世襲制は寺院の子弟に最初から生活の安定を保護し、為めに彼等は自然その修行を怠り勝ちとなり、信仰も修養もなくして僧侶になる者が多くなり、その結果宗教の堕落を生じ易いのである。世襲制は宗教そのものの立場から云つても面白くないものになつてゐる。
 大谷拓相の僧籍問題はかくの如き僧侶世襲制の矛盾がたまたま表面化したに過ぎないと見られるであらう。従つて教団においてはこの問題が起つたのを機会として、この制度そのものについて根本的に検討し、批判を加へ、改革を行ふことを企図すべきであつたのである。然るに教団の「善知識」たちはかやうな根本問題について反省することなく、還俗を僧籍離脱に替へるといふが如き全く形式的な、その場限りの解決に満足しようとしてゐる。教団の改革そのものにまで突入らうとする誠実と勇気とを有する者は誰一人ゐないのである。そしてそのやうな教団の「現状維持」の意志が、実は、今日の僧侶の上層部をして「政治的」ならしめ、「革新政治」の味方にすらならしめてゐるのである。彼等の謂ふ革新政治とはおよそ如何なるものであるかが、この一事によつても窺ひ知られ得るであらう。仏教界は既に久しく宗教法案の制定に非常な関心を示してゐる。今大谷尊由氏が大臣となり、また近衛首相自身も仏教に縁故のあるこの内閣において、この法案の成立することが熱望されてゐる。しかし仏数の復興はか左の如き法律によつて期し得るものではない。大谷柘相の僧籍問題を還俗でなく僧籍離脱といふことにして片附け、それで満足してゐるやうな「善知識」たちによつて仏教が復興されるとは到底考へられないのである。
 ところで「聖職者の背任」について云へば、それは今日あらゆる方面に存在しないであらうか。ここに仮に「聖職者」といふのは単に僧侶や牧師のみでなく、すべての藝術家、哲学者、教育家等を指していふのである。勿論それは他の職業を軽んずる意味を毛頭も有するものではない。背任した聖職者は他の如何なる物質的生産に従事する人々の場合よりも遙かに軽蔑に値するであらう。例へば、本来ヒューマニティの立場に立つべき教育家がこの頃の政治現象に追随してヒユーマニティを蹂躙するといふが如きことは聖職者の背任と呼ばれないであらうか。また例へば、カール・ヤスパースの哲学を新しい啓示か何かのやうに騒いで来た日本の若い哲学者たちが、この人が最近ドイツの大学からユダヤ人の故をもつて追放されたといふことを聞いても、現実の政治に対して何等の憤りを感じないとしたらどうであらう。ヤスパースの哲学と云へば、日本においても唯物論者からファッシズムの哲学の代表のやうに批評され攻撃されて来たものであるが、この人にしてなほナチスから放逐されねばならぬのである。そこに哲学と政治との次元の相違があるのであつて、かかる相違を問題にしない唯物論は抽象的であることを免れないであらう。更に例へば、今日の文学者が戦争に関心し、そこに身を横たへて創作するといふことは、必要なことであらう。しかしその際従来の戦争文学の傑作とは如何なるものであるかをしつかり考へてみなければならぬ。私はこの頃のラヂオで放送される新作軍歌を聴いて全く暗い気持になるのである。その歌詞も多くは低俗であり、殊にその調子と云へば、あの頽廃的な流行歌と何等異る所がないのである。現在一種の「国民歌謡」となつてゐる軍歌は日清日露の戦役の頃に作られたものであるが、今日そのやうな軍歌は一つも現はれさうにないのである。それは単に個人の才能に関することでないとすれば、何故であるか。先づかういふ問題にぶつつかつて真剣に考へてゆくべきである。そこから初めて文学も思想も生れて来るのである。


     試験と学制改革

 入学試験一科目制は安井文相の一枚看板であり、謂はば
専売特許」である。安井氏が大阪府知事時代に管下の中等学校における入学試験に国史一科目のみを課したといふことは、氏を「有名」ならしめた事実である。その安井氏は文相になると早速、省内の役人に命じて入学試験制度について「調査」を行はしめ、その結果に基いて矢張り一科目制の断案を下し、かくて中等学校の入学試験はなるべく一科目にするやうにとの通牒が文部省から各地方長官宛てに発せられた。文部省がどのやうな調査を行つたのか、私は知らない。しかしそれが結局安井文相の専売特許である一科目制に都合の好いものであつたとすれば、およそ官庁の「調査」なるものの性質が分るやうな気もせられるのである。
 安井文相の就任当時、一新聞記者が文相に水を向けて、国史一科目制についての氏の意見を求めたとき、文相は、数学の如きは応用問題が無限にあるから、これを試験科目にすると生徒の準備のために心身を労することが多くなる、といふ風に答へた。私はこの記事を新聞で読んだとき、官吏中の俊秀として知られる安井氏にしてなほ斯くの如きかと歎息し、新文相の教育に関する見識についてやや不安にならざるを得なかつたのである。
 なるほど国定教科書に書いてある歴史の内容は一定してゐる。そのうへ、この頃ではそれを自由に解釈したり、それに自由に附加したりすることは禁ぜられてゐる。即ち国史には応用問題はない、従つてその試験は暗記試験となる性質をもつてゐる。然るに今日試験の弊害の重要なものの一つは実にこの暗記試験にあるのではないか。大学においても法科の試験は、また高等文官試験はかやうな暗記の性質を多くもつてゐると云はれるのであるが、安井文相の意見は法科出の秀才、模範的な官吏のイデオロギーに相応するものであらう。暗記試験によつて優劣を決めようとする場合、暗記しておかねばならぬほどの重要性を有しない事柄の暗記までもが生徒に強ひられることになる。かくして知識は形式的なものとなり、瑣末な事実はよく知つてゐるにしても、国史の「精神」そのものは却つて捉へられてゐないといふことも生ずる。精神は暗記によつて捉へられ得るものでない、精神を捉へるためには各自が自己自身の精神を自由に活動させることが必要なのであるが、暗記はそれとは逆のことである。国史の精神が捉へられないといふことは国史を奨励する趣旨にも反することになり、國體明徴も形式的なものとならざるを得ないのである。それのみでなく国史の見方もつねに不変なものでない。不変なものでない故に、国定教科書ですら時々書き更へられるのである。文部省で多くの学者を集めて作つた『國體の本義』すら議会で問題になつたではないか。不変なものでない故にこそ国史の「研究」といふことも可能であり、必要でもあるのである。研究は「暗記」であるよりも「応用」である。国史の研究にも無数の応用問題を解かねばならぬ数学などと同じ精神が必要なのである。国史には数学のやうな応用問題がないと考へる者に果して歴史的認識の本質についての理解があると云へるであらうか。歴史の研究においても応用が自在に出来るやうな精神、創造的な精神が要求される。ファッシズムの如きものにしても創造的な精神の活動なくしては発達し得ないのであつて、我が国における官僚ファッショと云はれるものの弊害も、外国のファッシズムを暗記的に輸入することから生じてゐる。否、ファッシズムそのものの弊害は、人間の自由な創造的な精神を高圧するところに有してゐる。安井文相の国史一科目制はこのやうなファッシズム的傾向を有するものではなからうか。それのみでなく、文相の意見は数学の性質についての誤解を含んでゐる。なるほど教学の応用問題は無数にある。しかしそれら無数の応用問題の一つ一つを暗記してゐなけれは数学が分つてゐないのではない。原理的なところがしっかり掴まれてをればどのやうに多くの応用問題も解くことができるといふのが数学の性質である。従つてその点においては数学は歴史よりも却つて簡単であると云へる。
 入学試験一科目制については、既にその当時、理論上からも、また実際上からも―即ち例へば、国史一科目であれば、どれもこれも同じやうな答案ばかりで甲乙をつけるのに困難であるといふが如き―種々の批評が出た。安井文相はそれを知らない筈はないのである。(尤も、自分に都合の悪い批評は、特に彼が権力を有する地位にある場合、なかなか耳に入らないもので、もしそれを知らうと思へば周囲の者や部下の者だけの言を信ぜず、自分自身で勉強しなければならぬ)。それら種々の批評にも拘らず今や一科目制を全国的に行はうといふのには、自分が「専売特許」として売り出したものに固執するといふこと(それは普通人間の心理としては尤もなことであるが)以上に、何等かの確信があるのであらうか。
 今日の事情において入学試験が行はれる限り、一科目であらうが、二科目乃至三科目であらうが、結果は同じである。一科目にすれば生徒の負担が軽くなるといふのは形式論に過ぎない。そのために準備教育が廃止されると考へることも空想に近いであらう。なぜなら試験科目が一科目であれば、誰も皆それに集中して勉強することになり、従つてほんの僅かな差異で及落が決せられることになるために、愈々その準備に熱心にならねばならなくなる。数科目の平均点の場合よりも一科目のみの場合の方が競争が激烈になるといふことは、敢へて試験に限らず人間生活のあらゆる場面において看取し得ることである。また入学試験科目が一科目である場合、その成績の差異が自然少くなるから、口頭試問などが及落に夢響することになり、その方面に関して準備教育が行はれるといふことになるであらう。
 かやうな一科目制の弊害は小学校教育そのものにおいて大きく現はれるであらう。なぜなら、今日のやうに小学校の教育が、殊に高学年においては、入学試験準備に集中され、その科目のために他の学科が犠牲にされてゐる場合、入学試験の科目の教が少なければ少いほど小学校の教育は益々偏頗なものになるのである。この点から云へば、入学試験の科目は、上級学校へ進む上にぜひ必要なものに就いて多い方が好いとも云へる。
 「試験地獄」はまことに憂ふべき現象である。しかし飜つて考へるならば、入学試験に落第した者も結局どこかの学校へ片附いてゐるのであるから、我が国の中等学校は、私立のものまでも合せるとき、全体としてはそれほど不足してゐない筈である。試験地獄は、それらの学校のうち特に官公立のものへ、中でも「有名な」学校へ―「有名な」学校必ずしもその内容が実際に善いとは云へないであらうが―入学志願者が殺到するために生じてゐることである。従つてもし凡ての学校が誰もの入りたがるやうな善い学校になるならば、試験地獄も大いに緩和され得るわけである。かくして政府として為すべきことは、私立学校に補助を与へてその内容の改善を計るといふことである。これは金のかかることであるが、しかし入学試験が青年の健康に対して如何に害をなしてゐるかを考へるならば、社会保健省も設置されようといふこの際、その金くらゐは問題にすべきでないであらう。内容を改善するためには、現在の私立学校の商業主義、その資本主義的経営に対して取締が行はれなければならぬ。この方面における教育の「統制」は大いに必要である。しかしながら同時に教育における画一主義を打破し、各学校をしてそれぞれ個性を発揮せしめ、他方各家庭においては子弟の素質に応じて通常な学校を選択するといふことが大切である。今日の如く画一主義が行はれ、各学校について、恰も入学試験の場合においてのやうに、甲乙丙と採点することができるやうな状態にあつては、試験地獄は到底緩和され得ないのである。
 かくの如くにして入学試験の問題は根本において学制改革の問題に繋つてゐる。そのことは、義務教育八年制の問題は全般的な学制改革の問題と関聯して考慮されねばならぬと云ふ安井文相にはよく理解できることであらうと思ふ。ところが実際においては、根本的な改革は何等手を着けないで枝葉のことのみ喧しく云ふといふことは兎角ありがちなことである。入学試験に関する朝三暮四的な改変はもう好い加減にして、学制改革の実行に移つて貰ひたい。
 学制改革は既に久しく歴代の内閣が唱へて来たことである。内閣の変る毎に新たな調査官とか審議会とかが設けられて種々立案されて来たのであるが、未だ嘗て実行に移されなかつたのである。これには色々な理由があるであらう。しかもその一つに、新たに大臣になつた者が前任者の案を踏襲することを好まず、何か自分自身の案を立てようとするといふ政治家や官吏にありがちな心理が働いてゐることも事実であるやうに思はれる。かくてつねに新しい調査会と新しい案が作られはするが、そのうちに大臣が変るといふことになり、決して実行されるに至らない。政治家や官吏の個人的な功名心の弊害であると云へるであらう。財政とか経済とかの問題になると、客観的情勢に強要されて前任者の案を踏襲せざるを得ないといふこともあるのであるが、文部行政に関する事柄においてはそのやうなことがないために結局改革は実現されずに終るといふことになる。そのうへ文部大臣は、安井文相の場合もその一つであるが、文政についての専門家でないことが多い。司法大臣や大蔵大臣等は専門的知識を有しない者には勤まらないのであるが、文部大臣は素人でも好いやうに考へられてゐる。そのために文部大臣にはなりたい人が多いので、林内閣の時には自薦他薦の候補者が何十人か現はれたとすら伝へられる有様である。かくの如きことは教育をディレツタンティズムに委ねるものであつて、国家の将来にとつて実に不幸なことである。この頃文部大臣になりたがる人が多いといふのは、國體明徴が政府の政綱の首位に掲げられるやうになつて以来、文部大臣の位置が最早や以前の如く伴食大臣でなくなつたのに依るであらう。しかしかやうにして國體明徴のことすらもがディレツタンティズムに委ねられることになりはしないかが惧れられるのである。かくの如きディレツタンティズムが支配してゐる限り、学制改革の如きは行はれ難いであらう。もはや調査は必要でない、実はいくらでもあるのである。例へば、近衛公とも関係があると思はれる教育改革同志会の案の如き、進んだ所をもつた好い案であると思はれる。問題はただ実行に移すことである。安井文相に対して青年大臣にふさはしい断行の勇気を期待したいのである。


     文化の「混乱」

 文化の「混乱」といふことが現代の合言葉になつてゐる。今日或る者にとつては社会的不安の感覚なしには生活の意識を持ち得ないやうに、文化の混乱の感覚なしには生存の意識を持ち得ないほどになつてゐる。現代の多くの青年インテリゲンチャはかくの如き精神的状況にある。然るに文化の混乱といふことはまた今日一部の自由主義者の、物を公平に観察すると称せられる自由主義者の合言葉ともなり、彼等に特徴的な折衷主義の、実は妥協説に他ならぬところの折衷主義の前提となされてゐる。前の場合、混乱は必ずしも日本的なものと西洋的なものとの間の混乱として意識されてゐるのでなく、寧ろ日本へ移し入れられ日本において根を下した西洋的系統の文化そのものにおける動揺を意味するに反して、後の場合、混乱は、特に日本的なものと西洋的なものとの間の混乱と見られてゐるのである。この後の意味における文化の混乱は、一部の自由主義者のみでなく、日本主義者たちによつても力説され、彼等の主張の出発点となつてゐる。この意味における文化の「混乱」の観念は極めて常識的であり、俗耳に入り易い。しかしかかる常識論は果して日本文化の現状に就いての正しい認識であると云へるであらうか。
 もし現代日本の文化の混乱が日本的なものと西洋的なものとの間に存するとしたならば、かくの如き混乱は今日よりも大正時代において、大正時代よりも明治時代において大きかつた筈である。然るにかの明治大正時代においてはそのやうな「混乱」が感ぜられず、特に今日においてそれが感ぜられるといふのは如何なる理由に依るであらうか。西洋文化の輸入以来、時代を溯れば溯るほど、西洋的なものと日本的なものとは融合されずに存在するといふことが甚だしかつた。その後社会の発展と共に両者は次第に融合され統一される傾向を辿つて来たのである。衣食住といふが如き基本的なことに就いて見ても、例へば洋服は今から二十年前十年前に此して如何に日本の男女の身に着いて来たであらう。勿論その間において日本旧来のものであつて亡ぶべき運命にあつたものは次第に衰へ、また亡んで来た。しかし実はそのことによつて日本文化は次第に調和と統一とに向ひつつあつたのである。西洋のものであつても、どうしても日本人の身に着かないものはおのづから棄て去られた。かくて歴史はその必然の道を歩いて来たのであつて、そこに混乱はあり得ない筈である。例へば、大衆文学と純文学とが併存するといふことは日本の文学における混乱の一つであると云はれる。しかし通俗文学と純粋文学との併存は単に日本のみでなく他の国においても見られることである。そして我が国においても、今日この日本主義流行の時に当つて帝国藝術院が作られた場合、大衆文学の作家はその会員から除外されるといふ有様になつてゐるのである。日本の通俗文学も次第にその封建的日本的なものを清算せねばならなくなるであらう。そこには何等の混乱もあり得ない。
 それ故にもし文化の混乱が存在するとするならば、それは日本のみのことでなく、西洋各国においても同じである。今日確かに西洋のインテリゲンチャも文化の混乱を感じてゐる。日本のインテリゲンチャは或る意味では彼等から文化の混乱の観念を受取つたのである。世界大戦後ヨーロッパにおいては、ヨーロッパ精神とアメリカニズムとの関係が問題にされた。戦争後ヨーロッパに侵入したアメリカニズムに対して種々の批評が盛んに行はれた。このアメリカニズムとヨーロッパ精神との問題は、少くとも形式的に見れば、我が国における日本的なものと西洋的なものとの間の混乱の問超に類似してゐると云へるであらう。しかし一時ヨーロッパを賑はせたアメリカニズムの問題は今日では最早やそれほどの重要性を有せず、寧ろ季節はづれのものとなつてしまつてゐる。現在ヨーロッパにおいて文化の混乱が問題にされてゐる意味はもつと深く、その原因はもつと重大なところにある。文化の混乱が世界的に感ぜられてゐる点から見ても、それが我が国においても単に日本的なものと西洋的なものとの間の混乱といふが如き方式をもつて考へられないものであるといふことは明かである。
 かくして今日の文化の混乱が日本的なものと西洋的なものとの間の混乱として感ぜられるといふことは何か特別の理由のあることが知られるであらう。固よりかくの如き混乱が何等存在しないといふのではない。かくの如き混乱はいづれの時代においても多かれ少かれ存在するものである。しかもかくの如き異質的なものの同時存在を矛盾として混乱として感じないといふことが日本精神の伝統的な特質であると考へることさへできるのである。それにも拘らず、今日それがまさに「混乱」として感ぜられるといふことには何か特別の理由がなければならぬであらう。日本的なものと西洋的なものとがもつと甚だしく乖離して存在してゐた時代においてすら、それは混乱として非難されなかつたではないか。
 文化の混乱が日本的なものと西洋的なものとの間の混乱として感ぜられるといふ理由は、今日、西洋におけるファッシズムの影響のもとに「日本固有のもの」と称するものを特別に力強く主張する者が出て来たことに基いてゐる。即ち我々日本人が自然的に有し、我々の文化的活動のうちに自然的に現はれ、西洋文化の移植においてすらその自然的な基礎になつてゐる日本的なものでなく、却つて過去の日本的なもの、近代的文化の発達と共にいづれは衰へ亡びゆくもの、現に衰へ亡びつつあるものを無理に担ぎ出して西洋的なものに対抗させようとする者が生ずることに依つて、日本的なものと西洋的なものとの間の混乱といふ方式のもとに文化の混乱が感ぜられるやうになつたのである。言ひ換へるならばおのづから調和と統一とに向つて発展しつつあつた日本の文化―その際過去の日本的なものの或るものが衰へ且つ亡んでゆくといふことは已むを得ないことである―に対して、殊更に「西洋的なもの」を区別し、これに「日本固有のもの」と称すするものを強制的に対立せしめるといふことから今日の文化の混乱が惹き超されたのである。それ故に文化の混乱に対する責任はかやうな無理を敢へてする日本主義者にあると云はねばならぬ。今日一部の自由主義者が我が国における文化の混乱を日本的なものと西洋的なものとの間において認めるとき、彼等はすでにファッシズムに対して妥協してゐるものであると考へられるであらう。勿論、過去の日本の文化のあらゆるものが滅んだのではない。しかし滅んでゐないものは謂はば永遠のものであり、かかるものとして単に過去のものでなくて我々自身のものであり、従つて我々はそれを殊更に「日本的なもの」として区別して誇張せねばならぬ理由もないわけである。また固より、日本の文化のうちにおいて統一と融合とに向ひつつあつたものにおいて、強制的に「日本的なもの」を、そしてこれに対して強制的に「西洋的なもの」を区別して考へてみることが全く無意味であるといふのではない。しかしそれは一層美しい調和、一層高い統一を求めるためにのみ意味のあることである。
 更に勿論、今日の日本においても、この場合には西洋におけると同様の事情のもとに、現在すでに或る程度まで日本的なものと西洋的なものとを調和し統一することによつて成り立つてゐる日本の文化そのもののうちに或る混乱が生じてゐることは確かである。しかしかかる混乱は、マルクス主義者に依れば階級対立に基くものとして説明されるやうに、決して単に日本的なものと西洋的なものとの間の混乱として方式化され得る種類のものではないのである。
 かくして常識的に文化の「混乱」と云はれるものの原因が明かになつたとすれば、今日我々の文化がおかれてゐる状態に就いて、我々は憂慮せざるを得ないであらう。幕末明治以来先人が幾多の苦心と犠牲とによつて折角ここまで築き上げて来た我々の文化が破壊されてしまふことになりはしないかが惧れられるのである。固より如何なる日本主義者と雖も日本の文化からあらゆる西洋的なものを排除しようとは考へないであらう。工業や軍備は西洋的な科学と技術とを基礎にしなければならぬことにおいて彼等に異論はないであらう。もしさうであるとすれば、他の文化もこれに適応したものにすることが必要である。言ひ換へれば、日本的なものと西洋的なものとが乖離することなしに統一に向つてゆくことが大切である。然るに一方工業や軍備においては西洋的なものを発達させながら、他方爾余の文化においては日本固有のものに固執しようとすれば、そこに諸文化の間の有機的統一の破壊が生ずる。このことこそ文化にとつて、最も危険なことである。かかる状態においては文化は頽廃せざるを得ないであらう。実際、今日我が国の文化において頽廃的なものがそれに原因してゐることは稀でないのである。日本主義者の云ふ如く、機械文明に支配されるのでなく機械文明を支配することは大切であらう。然るに機械を支配し得る精神は抽象的に機械に対立したものでなく、却つて機械を作り得るやうな精神でなければならぬ。即ち科学的精神を排斥するやうな日本精神は結局機械に負かされてしまふの他ない。
 国粋主義は日本のみでなくナチスにおいても盛んであり、日本のものは多くの点においてドイツのそれの模倣である。国粋主義はドイツにおいても種々の弊害を生じてゐるのであるが、日本の場合その弊害は更に大きいであらう。なぜならドイツの場合、ユダヤ的文化を排斥したり非合理主義を唱道したりするにしても、自国に既に久しい以前から科学的文化の伝統が存在し、その伝統のカによつて科学的精神は持続することができる。然るに日本においてはかかる伝統が未だ浅い故に、今ここで西洋的なものを排斥することは文化を根本から破壊してしまふ危険をもつてゐるのである。


     言論統制と精神の自由

 北支事変の勃発と同時に政府はジャーナリズムの代表者を集めて懇談した。その内容の詳細は分らないが、その結果が言論の統制となつて現はれたことは事実である。すでに数年前から言論の統制は次第に強化される傾向にあつたのであるが、今や事変を契機としてそれが一段と強化されることになつたのである。一度強化された以上、それが事変の終結と共に緩和されるであらうと考へることは、甘い空想に過ぎないかも知れない。
 この重大時において言論の統制が行はれるのは已むを得ないことであらう。しかしまた飜つて考へるならば、この重大時に当つては国民が時局の真相を十分に認識することが大切であり、そのためには先づ報道の自由が要求されるのである。固よりそれは無制限の自由ではあり得ない。しかし時局の真相を伝へるに足りるだけの報道の自由は必要である。時局の真相が分らないやうでは「時局認識」を深めようにも深めやうがない。統制の強化のために事件の一部分一方面が伝へられるのみで全般が伝へられない場合には、真相は掴めないであらう。また検閲の強化のために報道が遅れるやうでは事件に対して的確な判断を下すことができないであらう。政府は国民に向つて「時局認識」を深めることを要求してゐる。それは極めて当然なことである。時局に就いて正しい認識がなければ、国民は完全に協力することができないであらう。しかし国民に認識を要求するならば、その認識に達するために必要なものを国民に知らせることを忘れてはならないであらう。然るに実際は、「時局認識」の重要性が頻りに説かれるやうになつて以来却つてその認識に欠くことのできぬ報道が益々不足してゆくやうに感ぜられてはゐないであらうか。
 この重大時に当つて言論の自由が拘束されるのは已むを得ないことであらう。しかしまた他面から考へるならば、かやうな重大時には衆智をあつめて遺憾なきことを期することが愈々肝要なわけである。衆智をあつめるためには言論の自由が許されねばならぬ。固より無制限な自由が可能であるとは考へない。しかし国民の批判を聞くといふことは政府としても万全の策を立てるために大切なことである。いづれも国を思ひ国を憂ふるの至情から出たものである限り、たとひ反対者の意見であるにしても、それから学び、それを利用しないやうでは真の政治は行はれ難いであらう。他人の口を塞ぐことは自己を無智ならしめることである
自分に都合の好いことしか耳に入れないやうにすることは危険であると云はなければならぬ。批判を通じてのみ真の認識に達することができるのである。
 尤も、日本人は、政府が統制を唱へると、必要以上にそれに対して過敏になる傾向がある。さうでなくても、言論の統制が行はれさうな気配があると、日本人は自分から自然に統制されてゆくといふ傾向をもつてゐる。日本ほど政治の行ひ易い国はないと云ふこともできるであらう。日本人のかくの如き性質は何処から来てゐるのであらうか。
 誰もが先づ挙げるのは、日本において自由主義が十分に発達するに至らず、従つて日本人は自由といふものを真に味つたことがないといふことである。これは確かに重要な理由であらう。日本人は真に自由を経験したことがない故に、たとひ言論の自由が存在するとしても、自己の個性的な意見をしつかりと持つてゐる者は稀であつて、大抵は事大主義的に権力のある思想や流行になつてゐる思想に追随してゆくのである。即ち言論の自由がある場合にも精神の自由はないのである。精神の自由と云へば、直ちに個人主義とか自由主義とかと云はれ、すでに時代遅れの思想のやうに云はれるであらう。それが自由主義の産物であるにしても、自由主義のすべてが廃棄すべきものであるのではない。自由主義のうちにも勝れたものがあり、一部の真理が含まれてゐるのであつて、それを正しく継承するのでなければ今後の真の文化は発展し得ないのである。日本人には精神の自由が乏しい故に、言論の自由が与へられてもそれを十分に利用し得ず、また言論の自由が奪はれてもそれほど苦痛に感じないのである。挙国一致も附和雷同では困るであらう。精神の自由が欠けて居る場合には、何かの具合で或る思想に全部一致してゐても、事情が少し変つて来ると、今度は全部の者が全く反対の思想に感染してしまふといふことも生ずるのである。精神の自由と言論の自由とは区別さるべきものであるが、両者はまた互に関聯してゐる。精神の自由がなければ言論の自由も死んだもの、意味のないものになるであらうし、言論の自由がなければ精神の自由も発達し得ないであらう。我が国において必要なものは言論の自由のみでなく精神の自由であり、しかし精紳の自由を発達させるためには言論の自由が許されることが必要なのである。
 日本のインテリゲンチャが容易に統制されるのみか、自ら進んで統制に応ずる傾向を有するといふ理由には、また例へば彼等の生活程度が低く、つねに生活に脅かされてゐるといふこともあるであらう。そしてそのこととも関聯して考へられる一層重要な理由は、日本のインテリゲンチャの活動の範囲が狭いといふことである。例へば、ドイツではナチスの政策に依つて多数の学者が大学から追放された。それらの学者は或ひはイギリスヘ、或ひはアメリカへ行つて、相変らず学者として活動を続けてゐる。中にもアメリカに渡つた者は多く、そのためにアメリカの学問は現在注目すべき発達を遂げつつある。ナチスのユダヤ人追放によつて得をしたのはアメリカであり、損をしたのはドイツ自身である。ところで仮に日本のインテリゲンチャが同様の事情におかれたと想像する場合、彼等は一体何処へ行き得るであらうか。学問や藝術の有する本質的な国際性にも拘らず。彼等は恐らく行くべき処がないであらう。いづれにしても日本のインテリゲンチャにとつて活動の範囲の狭いといふことが彼等の精神の自由にとつて妨害となつてゐる。日本の学者や藝術家にしても、支那において活動の天地が与へられてゐるとしたならば、事情はよほど変つてくるであらう。その場合には彼等の学問や藝術の性質も変つて来て、一層国際性を有するものとなつて来るであらう。精神の自由は文化の国際性の意識とも結び附いてゐる。かやうにして現在の支那問題の発展は日本のインテリゲンチャにとつて注視すべき重要な問題であるのである。