時局と思想の動向
国民的にはもとより国際的にも、大きな衝撃を与へた二・二六事件は、今後の日本の思想の動向に如何なる影響を及ぼすであらうか。この事件を転機として、我が国の思想に何等かの重大な変化、何等かの新しい展開が現はれるであらうか。この問題に関する見解は、云ふまでもなく、所謂時局認識の如何によつて相違するわけである。
過般の総選挙の結果は、一般には、国民の岡田内閣支持、従つて所謂自由主義に対する好意を表明するもののやうに見られた。またそれは、近年国粋ファッショ運動が熱心に継続されてきたにも拘らず、これが案外不成績であつたこと、或ひは更にファッショに対する反抗がかなり力強く存在してゐたことを明瞭ならしめたもののやうに解釈された。ところがこの総選挙の結果の発表後旬日を出でずして、今度の事件が勃発したのである、これは世間にとつては全く意想外のことであつた。尤も、やや以前から、所謂…………………、自分らは近来国外問題にあまり没頭して国内改造の問題を怠つてゐた故に、今後はこの方面に大いにカを注がねばならぬといふ意見が、優勢になつてゐるといふやうな噂もあつた。所謂国外問題の現在までの進行の実状を考へてみると、その方面から国内改造の問題への転換の理由も理解され得ることであつて、さうすれば今度の事件の如きもまた、………………………でもないと云へるであらう。騒擾の鎮定された今日、それが如何なる影響を生ずるかを判断するためには、日本の現状を全体として捉へること、その特徴的なものを挙げて云へば、総選挙の結果と二・二六事件とを対照的に考量することが必要ではないかと思はれる。これら二つの現象のいづれの一方をも、ぞれだけとして過大に評価してはならない。即ち総選挙の結果を、所謂自由主義乃至は現状維持に対する賛意の表明として一面的に解釈することも、また二・二六事件を、………的なファッショ運動として一面的に過大視することも、共に現存の日本の実状に即したものと考へられぬ。二つの方面を加算した若しくは相殺した結果が廣田内閣となつて現はれたと見ることができる。新内閣も前内閣と同じく、官僚、軍部、政党の合同であり、現在のところ矢張りこれ以外に出ることはできないやうである。歴史は従来歩んで来た方向へ歩み続けてゐるが、勿論これはその方向における数歩前進を意味し、且つその足取りは次第にあわただしくなつて来てゐる。
かくて今度の事件の影響として第一に考へられることは、我が国におけるファッシズムの「合理化」の促進乃至強化といふことである。これまで我が国のファッシズム的思想及び運動は封建的な非合理的な要素をあまりに多く内包してゐた。そのやうな非合理的なものは、既に特に五・一五事件このかた、これを取り除くことに或る程度努力されてゐる。例へば、宗教のファッショ化或ひはファッショの宗教利用は以前から次第に進行しつつある。然るに一方、大本教の如きは、最近愈々治安推持法竝びに不敬罪に問はれることになつた。そして二・二六事件は遂に明瞭に叛乱として極印されるに至つた。これを契機として今後恐らく我が国におけるファッシズムの「合理化」は著しく進捗するであらう。ここに謂ふ合理化とは、封建的非合理的なものを取り去ることによつてファッシズムを資本主義の現在の段階に一層よく適合したイデオロギーたらしめることである。合理的非合理的といふことも、単に論理的意味においてのみでなく、また歴史的意味において理解されねばならぬことであつて、或る社会機構に適合したものは合理的と考へられ、さうでないものは非合理的と見られる。右翼の人々から自由主義者と目されて敵視された人々も、決して資本主義の上昇期におけるやうな本来の自由主義者であつたわけでなく、従つてファッシズムは我が国においてもこれまで次第に進展してゐたのであるが、ただ彼等は一層合理的な仕方でこれを行はうとした為めに、自由主義者と見做されたに過ぎぬ。もとよりファッシズムの合理化といふことには根本的な制限が置かれ、否、それは実は一個の矛盾である。ファッシズムそのものが、本来、…………………に陥つた資本主義のイデオロギーであり、非合理主義を本質としてゐる。それにも拘らず我々がファッシズムの合理化と云ひ得る所以は、我が国の社会にはなほ封建的要素が残存し、このものが資本主義に適合され整頓されて行く範囲が存在するからである。かやうな合理化はファッシズムの強化であつて、その限り今後我が国の思想界においてはファッシズムが更に一層強化されることになるであらう。思想統制の如きは一層合理的な組織的な方法によつて実行されるであらう。しかし同時にその過程において、ファッシズムは自己の非合理性を一層明瞭に現はすに至るであらう。
U
我国の右翼の人々の多くは、自分たちがファッショと呼ばれることを好まず、ファッシズムから日本主義乃至日本精神といふものを根本的に区別しようと欲する。 …………………………………が経済的社会的問題について如何に考へるかを検討するならば、全く無理論であるものを除き、外国のファッシズムと名目はともかく実質的には殆ど異ることないであらう。日本主義の眼目が特に農村救済に存するのは理由のあることであるにしても、その救済が日本的な所謂農本主義的イデオロギーの如きものによつて可能であると考へるならば、あまりに非現実的である。日本主義は資本主義に反対してゐる。ところが諸外国のファッシズム−イタリヤのファッシスモも、ドイツのナチと、名称は異つても同じくファッシズムである−も、資本主義反対を標榜して出発したのであるが、それが現実においては資本主義の擁護者となり、大衆の生活救済を齎らしてゐないのみか、却つて逆の結果になつてゐる。日本主義者が「現状維持」に反対するのはまことに当然である。しかし資本主義そのものも変化するものであり、決して現状を維持し得るものでないのであるから、その…………決定的な原理が問題なのである。そして日本主義が従来なほ何等かファッシズムと異るものをもつてゐるとしても、日本主義が日本主義として留まる限り、今後の過程において次第に諸外国のファッシズムと………………………のものとなるべき運命にあるであらう。これが茲に謂ふ日本ファッシズムの合理化である。
日本主義が日本民族の特殊性を説くのは当然である。然るに自国の民族性、進んで優秀性を主張するといふことは、ファッシズムの共通の特徴にほかならない。ところで民族の特殊性にしても歴史的に規定されるものである。ピタールが『人種と歴史』の中で挙げてゐる例を借れば、スカンヂナヴィア人やスイス人は現在全く平和的な国民性を有するが、過去においてはいづれも極めて戦闘的であつた。これら両国の人間は、彼等が現在有する政治形態の結果として、彼等の国民性の昔の心理的・生物学的状態を失つてゐる。あの世界大戦の際には、幾千も幾千ものスイス人はフランス軍に加はつて勇敢に戦つたのである。人間の成立は手の成立と同時であると云はれる。然るに人間の手は道具を持つことによつて初めて手としての意味を有するのであるから、人間の手は単に生物学的なものでなく、却つて歴史的に作られるものと云はねばならぬ。拡げて云へば、人間の身体は単に自然から生れるものでなく、却つて歴史的世界から生れる歴史的物である。同じやうに民族といふものも歴史的物であり、かかるものとして歴史の変化に従つて変化する。日本主義者は、資本主義は西洋物質文明の弊害を現はすと云つて排撃してゐる。然るに、さういふ日本主義そのものは、日本において資本主義が向上を続けてゐた間は、今日の如く叫ばれなかつたのであつて、日本資本主義社会の行詰りが生ずるに及んで叫ばれるやうになつたのであるから、それ自身資本主義の中から生れて来たものにほかならず、かかるものとして西洋のファッシズムと根本的に異るものであり得ない。所謂日本主義は日本民族一般の中から生れて来たものであるのではない。このやうにして日本主義は今後益々西洋のファッシズムと同じものであることを思想的にも明瞭にして行くであらう。
我々はもとより日本人の特殊性を全く否定しようとは思はない。さうすることは抽象的であり、非現実的である。けれども我々は、日本主義者が、現在の資本主義日本の文化は西洋的であると云つて排斥し、日本文化の特殊性を求めるために、資本主義化される以前の日本に還らうとする復古主義的態度に賛成することができぬ。真に世界的意義を有する日本の特殊な文化は、我々自身がこれから生産して行かねばならぬものである。日本文化の特殊性は単に回顧的にでなく、寧ろ現在及び未来における新しい文化の生産の立場から考察さるべきことである。日本精神と雖も歴史において変化し発展するものであつて、決して一定不変のものであるのではない。かくて将来日本の文化的特殊性は、この社会が既に資本主義的になつてゐるにおいては、西洋文化を突き抜けて行くことによつて発揮されるのほかないであらう。日本主義者は一種の西洋文化恐怖症に罹つてゐる。我々は我々の祖先が支那や印度の文化に対して取つた態度を今日西洋文化に対して取るべきである。盲目な国粋主義は日本ファッシズムそのものの立場から云つても非合理的なものとなつてゐる。
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さて復古主義は単に日本主義のみでなく、一般にファッシズムの特徴であるが、日本主義にはその点において特殊な矛盾がある。日本主義はファッシズムとして復古主義でなければならぬが、復古的である場合、それは今日の日本の西洋化された文化と異質的なものに還ることになり、かくて現代の日本人にはあまりに縁遠い言葉を語らなければならなくなる。日本主義が多くの人々、特に知識階級に訴へることができなかつたのも一つはそのためである。日本主義はそのやうな悩みをこれまで真に悩みとして感ぜず、却つて凡そ西洋文化に好意を寄せる者を一様に自由主義者として排斥する傾向があつた。然るに実は日本ファッシズムにおける非合理的なものはそこに存すると云へる。もちろん一部の日本主義者、殊に初め西洋の学問を勉強して来て後に日本主義に転向した人々の間には、従来も西洋哲学によつて日本主義を基礎付けようとする傾向が見られた。この場合、所謂日本主義の基礎となるのは西洋思想であるから、それはもはや何等純粋な日本主義でなく、却つて根本において西洋流のファッシズムと同一であり、単にその一変種に過ぎない。しかしいづれにしても、日本ファッシズムの合理化の過程においては、かくの如きことは必然的に要求されることでなければならぬ。
かやうにして今後次第に日本ファッシズムにおいてそのイデオローグの交替が行はれることになるであらう。従来の旧い型の日本主義者の無力であることが日本ファッシズムの強化につれて次第に明かになり、新しい型のファッシスト、即ち西洋のファッシズム理論を身に着けたイデオローグ、西洋哲学によつて日本主義を粉飾した思想家が有力になるであらう。その思想宣伝、思想統制等の方法においても次第にイタリヤやドイツなどにおける方法が模倣されることになるであらう。宣伝省の設置、映画統制、ジャーナリズム統制等のことが強化されて行くであらう。我々は日本主義のかかる西洋化を合理化と呼ぶ。もちろん、凡てこれらのことが如何なる程度、如何なる速度で行はれるかといふことは、日本資本主義の弾力性、国内的国際的情勢の変化の仕方等に依存してゐる。更に以上甚だ単純化して述べた思想の動向は、実際においては、日本の社会に残存する封建的要素の力の測定によつて一層具体的に規定されることが必要である。
云ふまでもなく、日本主義のかくの如き西洋化は一つの矛盾である。またそれは民族の特殊性といふものが日本主義者の考へるやうなものでないことを証明することになる。しかもこのやうな矛盾は、一般にファッシズムに含まれてゐる自己矛盾が日本の社会及び文化の歴史的発展の特殊性のために特に明瞭に現はれたものにほかならぬ。
知識はもともと国際的なものであるが、特に我々は日本文化の近代的発展の特殊性のためにそのやうな国際性をとりわけ痛切に経験させられる関係にあつた。日本の知識階級の多くの者が従来の日本主義に共感し得なかつた理由はそこに存在し、インテリゲンチャの大多数は自由主義者であるとせられて来た。然るに今後日本主義が右の如く変貌され且つ強化されて現はれて来るとき、そのやうな自由主義者もやがて決定的な決断を強要されるやうになる。文化的自由主義は経済上の自由主義はもとより政治上の自由主義からも離れて、従来の日本のインテリゲンチャの大多数の傾向であつたが、今後ファッシズムの合理化と思想統制の強化とが現はれた場合、そのやうな一般的な、漠然とした自由主義に留まることは不可能にされるであらう。その場合文化的自由主義者も政治的決定を強要されることになるであらう。かやうにして、これまで我が国における自由主義論争を複雑にしてゐた自由主義の意味の曖昧さはやがて清算されることになる。
既に云つた如く、ファッシズムは本質的に非合理主義である。その合理化と云つてもただ右に述べたやうな意味乃至範囲においで行はれるものに過ぎない。真の合理性は自己矛盾に陥れる資本主義との関係において決定されるものでなく、寧ろ来るべき新しい社会形態との関係において決定されるものである。かかる真の合理性−それは従来の哲学で云はれる合理主義と同じでない−の追求こそ、我々に課せられた最も重要な問題でなければならぬ。