社会時評

    時代と教育

 昨年六月某私立大学で行はれた学生生活の統計的調査の結果がこのほど発表された。そこには色々面白い事実が現はれてゐるが、就中特徴的なものを一つ紹介しよう。私の好きな人物といふ事項を職業別に分類すると、女優が断然一位にをり、三九%で他を圧してゐる。世の多くの教育家、道徳家には全く苦々しく感ぜられることであらうが、これが事実晋である。ついでに他の職業を見ると、文士三四%、教育家三%、学者四%、評論家三%、美術家四%、運動選手一%、等の数字が出てゐる。女優の人気がこのやうに圧倒的であるのは、云ふまでもなく、映画の影響によるものである。それでは如何なる種類の映画が青年画生たちに好まれるかと云へば、あの「未完成交響画」の如き音楽物が首位を占めてゐる。日本物よりも西洋物が歓迎されてゐることなど、もとより取立てて記すにあたらないであらう。
 こんな風に書き出すと、ひとはまた、だから今の学生は真面目に勉強しないで映画ばかり見て遊んでゐる、と説教を始めるかも知れない。彼等は多分説教されるに値するであらう。その上、人間は誰でもつねに説教に対して多少の衝動を感ずるものである。盗人でさへ他の盗人に対して説教する。もしひとが他に説教することによつて、ひそかに自己の道徳的優越感を味つてゐるとすれば、それは卑しむべきことである。とりわけ青年に対してひとは苛酷になる。嘗ての自分の姿として甘受せざるを得ぬものに対してひとは苛酷になる。しかも青年に説教する者の誰がひそかに彼等に対して嫉妬を感じてゐないと云へるであらうか。その説教が人間の持つて生れた教育的本能に根差すとしても、教育者はつねに被教育者の心理に理解と同情とを持つことが大切である。ともかく新しい世代は、旧い世代の欲すると否とに拘らず、自分自身の感覚、感情、意欲をもつて現はれて来る。世代の推移は恐しいものである。
 映画、女優、音楽、それらのものにおいて表現されてゐるのは近代性〔モダニティ〕である。かかる近代的なものは、その起原[ママ]に従へば、もとより西洋的なものである。しかし西洋的といふ概念と近代的といふ概念とは区別されなければならない。なぜなら西洋的なもののうちにも、古代的、中世的、近世的等の直別が含まれ、西洋的なもの即ちモダンなものとは云ひ得ないから。西洋的・古典的なものを尊重する者が近代的なものを嫌悪するといふことは、アカデミイなどで屡々見られるところである。西洋においても、電気は、ナポレオンの時代には、ヴァレリイの口吻に倣へば、キリスト教がティベリウスの時代に持つてゐたほどの重要性しか持つてゐなかつた。近代性を象徴するラヂオや飛行機が普及したのは、やつと世界大戦の頃からである。そして近代的なものは今日では単に西洋的なものでなく、世界的なものである。大和魂を誇りとする日本の軍隊にも飛行機は必要である。選挙粛正運動はラヂオの力を借らねばならず、岡田首相の演説はレコードに吹き込まれ、日本文化の海外宣伝も映画によらねばならぬ。我々にとつて西洋的なもの一般は寧ろどうでもよいものであつて、欠くことができないのは近代的なものである。日本主義者は一概に西洋文化を排撃する。しかし例へばギリシア文化の研究は、我が国において国家に有害なほど流行してゐるであらうか。またキリスト教は国家にとつて危険なほど日本に伝播してゐるであらうか。我々が必要とするのは西洋的なもの一般でなくて近代的なものであり、このものは今日では世界的なものとして我々自身の間でも盛んに生産され普及されてゐる。それらの或る物はメイド・イン・ヂャパンのマークを張つて世界市場に売り出されてゐるのである。かくの如く生活の近代化の発展につれて、我々自身の、特に若い世代のメンタリティ〔心理〕が近代化されるのは当然である。
 近代性は種々なる文化にとつても要求されてゐる。伝統といふものがそれほど大きな意味を有しない科学や技術においては近代的となることは容易であらう。否、近代性そのものが科学性乃至技術性と同じことを意味するほどである。近頃の量子力学の理論にしても、モダンと云へば実にモダンな感じがする。しかるに伝統が強い力を有する文学や哲学の方面においては、近代的となることはそれほど容易ではない。モダンであることがクラシックであることよりも容易であるかの如く想像されるのは間違つてゐる。映画の理論や技巧を文学に取り入れよ、と度々云はれるが、現代の日本文画にはもつとモダニティが必要であらう。哲学の如きに至つては遥かに近代性の要素が欠乏してゐる。
 この場合、最も奇妙に感ぜられるのは、最近の日本の教育である。教育の対象となるのは、最も近代化された世代層、映画、女優、音楽などを好む青年たちである。しかるにまた教育においてほど復古主義が露骨なところはない。地方の学校では校内に神社の建立が追々行はれるやうに聞く。日本における神社の数は既に十一万余に達するとのことであるが、今後際限なく増加して行く傾向にある。もし諸君が地方の教員講習会などで思想善導の博士たちの講演を聞かれるなら
ば、諸君はその人々が神主ではないかと怪しまれるであらう。しかし、このやうに神社や神主が殖えることをもつて宗教心の興隆と考へるのは、少し早合点である。熱烈に神を求めた最後の哲学者ニーチェは、全ヨーロッパがキリスト教的になつてしまつてゐることに対して却つて限りない憤怒を感じた。いづれにしても復古主義は教育にとつては不幸である。日本の小学校教師はその熱心において全国民から十分感謝されてよいと思ふ。彼等は尊敬すべき努力によつてせつかく教育技術を習得して来たのであるが、この頃のやうに、國體明徴のためには理科教育は有害無益であると云ひ、更に進んで或る思想善導の博士の如く進化論否定をすら唱へるやうになつては、彼等の教育技術も結局無駄にされるのほかないであらう。政府の教学刷新評議会などでは、まるで全国の教師を神主にしてしまはうとするやうな議論が優勢である。
 教育の無力を罵倒することは今日一種の流行となつてゐる。しかるにそのやうに教育を無力にしてゐるのは実は国粋主義者にほかならない。近代的な青年の心理を無視し極端な復古主義をもつて臨むことによつて有効に教育を行ひ得るであらうか。教育そのものが決して無力であるのではない。教育の無力が感ぜられるのは、それが社会の発展の線に沿うてゐないといふことの証拠である。上昇期の社会においては嘗て教育の無力が感ぜられたことはなかつた。
 私どもの学校時代には、教育〔エデュケイション〕とは、その字義の如く、引き出すといふこと々意味し、被教育者の持つてゐるものを引き出して育て上げることである、と聞かされた。それが教育学の第一課であつた。ところがこの頃では、そのやうな考へ方は西洋的であると云つて排斥される。もちろん教育は或る意味では伝統の保護者であり、伝統によつて新しい世代を鍛錬するものである。またそれは一定の制度の推持発達のために行はれる。しかし被教育者のうちに全くないものを教育は与へることができないし、よし無理に与へたにしてもすぐ棄て去られてしまふであらう。彼等の持つてゐるものを育てるといふことは彼等の人間を完成させる所以であり、彼等の批判力を養成させることである。国粋主義者の云ふ如く我が国民の間に盲目的な西洋崇拝の風が存在するか否かは疑問であるが、もしその風が存在するとすれば、それは却つて我が国の教育が鋳型主義、詰込主義であつた結果にほかならない。教育が制度のためのものであるとしても、問題はそれが如何なる制度であるかといふことである。教育は後に来る者の教育としてつねに社会の発展の線に沿うて行はれなければならぬ。未来を孕むものは新しい世代であるとすれば、彼等の感覚、感情、意欲の尊重されることが必要である。教育における伝統の継承といふことも未来の見地に立たなければならぬ。
 今度陸軍では、将校の不足を補充するために、幼年学校を数ケ所復活するやうに云はれてゐる。幼年学校教育については以前から問題であつて、まだ思考力判断力の発達してゐない少年を、社会の影響から隔絶された特定の環境において、制度主義、権威主義、命令主義の教育を施すことからやがて生じ得べき弊害について語られてゐる。それも軍隊固有の立場からは必要であるかも知れないが、そのやうな教育は社会や政治の現実に関して非常識ならしめ、かかる非常識に国家革新の熱情が加はることでもあれば、甚だ危険であると考へられる。ところが今日の日本主義教育論者は、このやうな特殊な教育を一般人に対して行はうと欲するかの如く見える。ただ一般の青年学生は幼年学校の生徒とは違ひ、単に学校からばかりでなく社会から学ぶことを知つてゐる。私の好きな人物として第一に女優を挙げる青年、その青年が現在の社会問題に対してかなり活溌な関心を有し、且つ相当批判的な意見を抱くことは、同じ右の統計によつても示されてゐる。いつたい日本の教育は制度主義、権威主義等において従来何か欠けてゐたであらうか。欠けてゐたのは寧ろそれらとは反対のものである。
 すでに十年前のことであるが、バートランド・ラッセルはその『教育論』〔一九二六年〕の中で、日本の教育を批評して次のやうに云つた。神道は大学教授によつてすら問題にされることができず、日本における神学的専制である。そこにはまた同様の倫理的専制が存在し、国家主義、孝道等の如きは、疑ひを挟むことが許されず、従つて多くの種類の進歩が殆ど不可能にされてゐる。「この種の鋳型主義の大きな危険は、それが進歩の唯一の手段として革命を喚び超すかも知れないといふことである。この危険は、たとひ即刻ではなくとも、現実的であり、そして広く教育制度によつて招来されてゐる。」ラッセルによると、嘗てエズイタ派は近代日本と同様に、教育を制度−この場合にはカソリック教会−の安寧に従属させるといふ誤謬を犯した。エズイタ派の教育はその結果によつて批判された。反宗教改革、フランスにおける新教の失墜は大部分エズイタ派の努力によるものである。このやうな目的を達するために、彼等は藝術をセンチメンタルにし、思想を皮相的にし、道徳をルーズにした。彼等が作り出した諸弊害を払拭するために、結局において、フランス革命が必要であつた。私はいまラッセルの意見を批評することはできないが、そこになほ傾聴に値するものがあるであらう。殊に彼がユズイタ派の反動を評して云つた「藝術をセンチメンタルにし、思想を皮相的にし、道徳をルーズにする」といふ言葉は、今日の我が国の国粋主義者についても或る程度妥当するのではなからうか。彼等によつて思想が皮相的にされてゐることは云ふまでもなく、詩吟、浪花節、そして特に時局小唄の氾濫は藝術(?)をセンチメンタルにしてゐないか。また彼等の或る者によつて支持され、進んでは讃美されてゐる公娼制度の存続の如き、道徳をルーズにするものと云へないであらうか。やや皮肉に云へば、今日の青年学生を健全に、少くとも常識的に健全ならしめてゐるのは、学校の修身でなくて社会である。


     苦悶の象徴

 よほど以前のことだが、苦悶の象徴といふ言葉が一時流行したことがあつた.故厨川白村氏が、文学は苦悶の象徴である、と云はれたことから流行し始めたのではなかつたかと思ふ。単に文学についてはかりでなく、宗教は苦悶の象徴であるとか、哲学は苦悶の象徴であるとか、と云はれた。それは客観的に見れば、日本資本主義が最初の大恐慌に見舞はれた頃であつたであらう。私はこの頃の社会現象を見ながら、この苦悶の象徴といふ言葉を想ひ起すのである。尤も、苦悶といふ言葉はもはや流行語ではない。今日ではそれに代つて不安と云ふ言葉が現はれてゐる。すでに三四年前から不安の文学、不安の哲学などといふ言葉が一般化されてゐる。苦悶が不安に変つたといふことは、その間にマルクス主義その他の社会令理論、文藝思想が普及して日本のインテリゲンチャを知的に訓練した結果によるであらう。苦悶と云へば感性的直接的であるが、不安と云へば知的反省的である。
 苦悶にせよ、不安にせよ、社会には次第に笑ひがなくなつた。明朗なものが少くなつた。これは日本ばかりではない。従来アメリカ映画の特徴のやうに見られてゐた底抜けの笑ひ、明朗な喜劇は、アメリカ映画からも漸く影をひそめつつあると云はれてゐる。そのことはアメリカ景気の変化を語るものである。笑ひは人間に特徴的な表情である。だから笑ひが失はれたといふことは人間の人間的なものが失はれたといふことを意味する。これは単に実生活の意味に於てばかりでなく、また知的意味に於てもさうである。人間は理性的動物として定義されるが、真に知的なもののみが真に笑ひ得るであらう。苦悶や不安は社会的苦悶或ひは社会的不安を表現する。それは色々な矛盾に於て表現されるであらう。
 さしあたり今度の選挙粛正運動はそのやうな矛盾の第一の例である。この運動は元来買収その他による不正を防止するための運動であり、選挙そのものの立場から云へば、どこまでも手段であつて目的ではない。ところがこのことが十分に徹底せず、粛正運動の圧力のもとに肝腎の選挙戦は却つて萎縮させられてゐる。目的と手段とを区別せず、手段が目的であるかの如くやかましく云ふのは官僚主義の、とりわけ官僚的瑣末主義の現はれである。選挙粛正にも日本精神が持ち出され、また神社仏閣への祈願が行はれた。このやうにして国民の精神が浄められたとしても、さて愈々選挙となれば、如何なる候補者に投票すればよいのであるか。粛正運動の精神でゆけば、ちやうど岡田内閣が組織された当時、金銭上これまで比較的潔白であつた者を大臣にするといふ方針であつたやうに、金銭に関して問題の少い候補者に投票するといふ位のところであらう。しかるに今度大々的に粛正運動が行はれる必要があつたとすれば、前代議士、元代議士にはその点で無難な者は先づ殆どないと見なければならぬ。このことは延いて既成政党排撃となるのであらうか。バットの箱の中に入つてゐる宣伝紙片には、「明るく清く良き人に」投票せよと書いてある。これは道徳的潔白といふことが第一の問題であつて、政治的見解、政治的手腕は問題にしなくてよいといふ意味であるか。選挙粛正の精神とされ、また他の場合にもつねに高調される日本精神と議会政治とはいつたい如何なる関係にあるのであるか。投票の目標が個人であるか政党であるかといふやうな問題は度外視しても、少し分析的に考へれば疑問は次から次へ起つてゐる。国民の疑問を解決するために、岡田内閣は、議会を解散した責任から云つても、今度の選挙の目的をもつと明瞭に示すべきである。しかるにそれができないといふところに岡田式挙国一致内閣の矛盾がある。できない筈だ、なぜならもしそれをすればいづれかの政党に加担することになり、従つて反対の政党を排斥することになり、挙国一致は破壊されるからである。それだから政府としては全く形式的に選挙粛正を叫ぶほかない。選挙粛正運動はひとつの苦悶の象徴である。この苦悶の故にこの運動は神社仏閣に析願しなければならぬ。政治の目標が明瞭であれば、恐らくその必要もなかつたであらう。
 我々はすでに学校における日本精神教育宗教化について述べた。しかしそのやうな宗教化や復古主義では、映画、女優、音楽を好むモダンな青年学生にアッピールするには無力である。そこで文部省でも従来教育映画の製作を行つて来たが、それは無味乾燥で喜ばれず、効果が少なかつた。近代性は科学性である。我が国における自然科学や技術の発達につれて、この方面の興味は著しく増大してゐる。今度文部省では、直轄の各大学や航空研究所、伝染染病研究所、地震研究所等を動員して文化映画を製作し、大衆に科学的知識を普及することに決定し、その予算を臨時議会で要求することになつたさうである。これが実現されると、全国を多数の映画区に分ち、その中心の学校乃至常設館において当局から配布する映画を強制的に上映せしめることになると云はれる。一定の映画を法律的に強制上映することは、既にドイツ、イタリーで実施されてゐるが、それが愈々日本でも行はれるわけである(一就三十日、都新聞)。一方では教育の復古主義的宗教化が要求され、他方では科学教育の鼓吹が要求される。ここにもひとつの苦悶の象徴が見出されないであらうか。もとより科学映画の普及はそれ自体としては甚だ歓迎さるべきことでなければならぬ。ただその場合望ましいことは、科学を科学として抽象しないで、科学と技術との結合を示すといふことである。そのことは科学映画を一層興味深くし、一層大衆的ならしめるに役立つであらう。科学は技術的課題と結び付いて発達する。アンリ・ル・シャトリエによれば、ラヴォアジエの場合、六冊の大きなノートの四分の三は工業的問題についてのメモから成つてゐたと云ふ。技術乃至工業に関する映画はすでにソヴェートでは多数製作されてゐるやうであるが、かくの如く科学と技術とが結合されることになると、そこに科学や技術の社会性が現はれて来る。如何なる工業的目的にそれが用ゐられてゐるか、例へば軍需工業のためにか、それとも平和的な農村振興のためにか、といふことに従つて科学や技術の社会性がおのづから明かになる。もし科学が社会的技術的課題から抽象されて映画化されねばならぬとすれば、これもまた、形式的抽象的な選挙粛正運動と同じく、ひとつの苦悶の象徴と解されても仕方がないであらう。
 苦悶の象徴は宗教現象においても明瞭に見られることができる。仏教の如き宗教学者の所謂「世界宗教」がその本来の立場を棄てて日本主義に転向したこともそれである。またカソリックがその本来のカソリック(普遍)主義を蔽うて国民主義に転向したこともそれである。宗教家がもしこれらのことを苦悶の象徴として理解することを欲しないならば、ひとは彼等を宗教家と呼ぶべきか否かに迷ふであらう。
 諷刺のことについては文壇ではいろいろ議論されて来たが、このやうな、そして細かに観察すれば他に無数に見出されるところの同じやうな種類の苦悶の象徴は諷刺にとつて最も適当な対象であらう。諷刺は知的なものである。不安が内に向ふに反して、諷刺は外に向ひ、社会的なものである。知的認識に立つて見れば、現代社会における苦悶の象徴は諷刺の対象にほかならない。諷刺は単なる笑ひではない。それは嘲笑でもなければ、また単なる皮肉でもない。諷刺は単なる戯画化であつてはならない。それは社会の発展の方向についての確信ある認識にもとづく最も知的な笑ひでなければならぬ。或ひは諷刺は知性の自由と明朗性とを示すやうな笑ひでなければならぬ。単にトゲトゲしいばかりが諷刺ではない。性急であつてはならず、しかも鋭利でなければならない。