政治の過剰


 一法律学者の学説が政治問題化した。私は法律学上のことを論ずる資格を有しないが、仮りにその学説が間違つてゐるにしても、そのためにその人が曲学者、非国民であるかの如く云ふのは、いかがであらうか。そこにすでに政治の過剰が見られ、かかる政治の過剰が思想の悪化の一原因となつてゐはしないかと疑はれるのである。
 すべては政治化する。これが現代の特徴である。単に一法律学説のみではない、経済学説も、社会学説も、哲学説も、文学や芸術も、政治化する傾向を有し、また政治化してゐるのが現代である。かやうな現象の原因が根本的に究明さるべき場合、徒らにかやうな現象に追随して政治の過剰を惹き起すことは危険である。
 一定の思想に基いて政治的に他の学説を非難し圧迫しようとするとき、それは単に政治的問題に留まり得るものではない。他を政治的に問題にすることによつて、自己が学問的に問題にされる立場におかれるといふことに注意しなければならぬ。論者は政治的権力によつて他に沈黙を命令し得るかも知れない。しかし同時に自己が、欲すると欲せざるとに拘らず、問題の拠つて立つ論理上及び方法論上の諸法則の前に引出されることになるのである。
 かやうにして中世の終り、近世の初めにおいて、キリスト教神学は新しい科学的思想を非難し圧迫すればするほど、却つて自己が科学的に批判される傾向を激成したのであつた。それは西洋のこと、過去のことであると云つてはならぬ。比較はすべての学問研究に要求される一法則である。
 「命令的な人間は、いかに彼等が自分たちの神に仕へてゐると信じてゐるにしても、自分たちの神に対してもまた命令するであらう」、とニーチェは書いてゐる。
 政治家は事件を好みがちである。ちやうど医者が病気を好むやうに。病気をなくすることを目的とする医者が病気を好むやうに、事件を少くすることを目的とすべき政治家は事件を好む。政治家は事件によつて思考するといふ習性を持つてゐる。それだから政治が過剰になると、国民は神経質にされ、事件によつて刺戟されることを求めるやうになる。さなくとも今日のやうな社会的不安の時期においては、その不安の心理からとかく事件が期待されがちだ。物を不必要に政治問題化することでなく、寧ろ政治の過剰の除かれることが望ましい。
 政治の過剰は政治的思考の充実を示すものでなく、反対に政治の科学性の没却、政治哲学の貧困を語るものである。

(一九三五年三月十九日)